赤、白、黄色、緑、青。
それぞれのカラーが別れているクラス席の背後には、親などの関係者席が(と言っても、立ち見だけど)設けられていた。もちろん、俺の親が来るという予定はない。
体育祭で親が来るのは、大体中学校までだ。だから関係者席は疎に人がスマホを構えているくらいで、混雑はしていない。
おそらく、テレビの天気予報では、夏日和となるということも伝えていたので、億劫な人も多いだろう。
別に昼を一緒に食べるわけでもないし。
俺は匠から借りたタオルを何となく頭に乗せたまま、凍らせてきたけれど、もう半分溶けてしまっている一リットルのミネラルウォーターのペットボトルの口を開いた。
ごくりと一口分、それを喉に通せば、すっきりとした爽やかな冷たさが、するすると身体の奥に落ちていく。
「あ、御子柴じゃん」
千葉の声に顔を上げると、すでにプログラムは第一種目はおわり、次の種目であるスウェーデンリレーになっていた。ざわつくクラスメイト(主に女子)の背後の自席から、姿勢を正して、匠を探す。
「この炎天下、四百きっつ~」
同情するような声音で、瀬尾が呟く。
俺はそれに同感だと頷きながら、大勢いる走者の中から、匠を見つけ出す。爽やかな横顔は涼しげで、まるで暑さを感じさせない。すっきりとした首元や、形の良い鼻先と尖った顎、まるで神様が贔屓して作ったみたいな造形だ。
「匠くんの横顔神じゃない?」
「わかる。正面もいいけど横顔もいい。全方向無敵過ぎて意味わからん!」
「ハチマキ交換したい~」
「いや、無理でしょ~。そういうノリは苦手そうだし」
黄色い会話を聞きながら、俺は誰かと話している匠を眺めた。時折隣の誰かと話しては、薄く笑みを浮かべて、二言三言と会話を重ねている。
今までなら、警戒して俯きがちだったのに、今では真っ直ぐと前を向き、顔を日に晒して、堂々としている。俺はそんな姿を見ながら、もう俺が隣に居なくても大丈夫なんだな、と改めて少しだけ寂しい気持ちにかられてしまった。
子どもじゃないんだから、と思いつつも、ずっと「その位置」を独占してきた者としては、少しばかり悔しいものがある。
こうやって、恋人の位置も俺じゃない誰かが、座ったりしていくのだろうか。
そう思ってしまうと、胸の奥がつん、となる。何かに躓くような違和感と、わずかな痛みが漣のように身体の中に波紋を立てて、何だか居た堪れない気持ちになってくる。
俺は軽く頭を振って、その考えを追い出した。
——はっきりさせたいのに、はっきりさせるのが怖い。
その時、不意に大きな破裂音が響いて、わっと歓声が上がる。いつの間にか俯いていた顔を上げれば、一年生の第一走者が走り出していた。
「百メートルでも長えよなぁ」
必死にトラックを駆け抜ける走者を眺めながら、安穏とした声音で瀬尾が呟く。その隣で、前のめりになりながら、千葉が「すげえ速い!」と興奮を見せていた。クラスメイトの女子は第一走者の名前を叫んでいた。
「がんばれ! もっといける!」
そんな声援を受けながら、想像するよりもずっと早く、目の前を駆け抜けていく。
トラック半周で百メートル。
俺たちの青組は三位という位置で、第二走者へとバトンが渡された。
「御子柴トラック二周か、鬼だな」
誰かが同情するような声で呟く。俺はそれにも同意しながらトラックを見つめた。鼓膜には鳴り止まない声援、頭上からは容赦ない日差しが照りつけていて、軽い眩暈がする。
二百メートル走者は二位との差をじりじりと縮めながら、第三走者へとバトンを引き継いだ。走り出す足元に、砂埃が舞い上がる。アナウンスがテレビのニュースキャスターよりも冷静な声音で、順位を告げていく。
一位と二位の順位が入れ替わり、二位と三位の差が開くと、四位が追い上げてきた。周りの応援に熱が入る。
混じり合う声援の中、誰かが「匠!」と叫んだ。視線を動かせば、もうすでにトラックに待機している彼の姿が目に留まった。
すらりとした長い足に、少し猫背になっているその姿は、どこか気怠げで、周りの空気から若干浮いていた。しかし、隣にいる走者に話しかけられると、人当たりの柔らかい笑みを僅かに浮かべて、頷いている。
やっぱり人当たりも良くなったなあと、感慨深く感じる反面、巣立つ雛を見守る親鳥のような気持ちも同時に感じてしまう。
「青組四位、白組三位に浮上しました」
至って冷静でロボットのような声音で、アナウンスが流れる。
「えーん、四位かぁ」
女子の一人が項垂れた。
俺は少し背を正して、匠のいる方へと視線を向けた。残りのトラック半周を終えた第三走者が匠へとバトンを伸ばしながら走ってくる。匠は緩く足を進めながら、それを受け取ると、一気に加速して走り出した。
俺はその勢いに目を見張る。
「いや、はっや!」
「運動嫌いが本気出した!」
わっとクラスが盛り上がりを見せると、その声援に応えるように、匠は加速した速度を保ったまま、ぐんぐんと前の走者に近づいていく。
トラック二周分で、もしかしたら一位に追いつくのではないか? そんな期待が高まり、応援にも熱が入る。
俺も思わず立ち上がり、その姿を追いかけた。力強い踏み込みで、三位を抜かすと、一層歓声が上がる。しかし、一位と二位はトラック半周まではいかないけれど、それなりに差が開いており、今からではどうにもならない気もした。
残り一周半。
「匠ー! がんばれー!」
女子の声が大きい。俺も声を上げたい気がしたけれど、そんな勇気はなくて、匠が貸してくれたタオルの端をぎゅっと握り締めた。胸の奥で「がんばれ!」と声援を送るので、一杯一杯だ。
「おお! 二位いけるんじゃね?」
千葉が興奮気味に立ち上がると、瀬尾も「おお!」と目を丸くしながら立ち上がった。
じりじりと距離が縮まる、残り一周。先頭を走る二人の走力が落ちてきているにも関わらず、匠の速さは衰えない。
走る彼の表情までは見てとれないけれど、真っ直ぐと顔を上げて、前だけを見つめる彼の真摯さに、鼓動が速くなる。
三百メートルを越え、残り半周となった時、二位との距離はもう数メートルまで縮まっていた。ぞわぞわと興奮が身体中に広がっていく。
二位に浮上する。
そんな期待を匠は裏切らなかった。
二位を追い抜くと、男女ともつかない声がグラウンドから湧き上がる。俺もつい「やった!」と声を上げてしまった。
一位と僅差でゴールを切ると、匠はゆっくりと勢いを緩めて、待機場に外れると、そのまま地面に倒れ込むように転がった。
「すげえ! あれこそ男だわ~」
千葉が深く頷きながら拍手を送る。
俺はまだ鳴り止まない心音を鼓膜で感じながら、ただただ寝転んでいる匠を見つめた。
——かっこいい。
走ることなんて興味もなければ、得意でもなかったはずの彼が、二人抜きで四百メートルを一気に駆け抜けるなんて、想像もしなかった。あんな姿は、誰だって惚れてしまうはずだ。
最後の走者がゴールをすると、クラスメイトが倒れている匠へと駆け寄っていく。
「関係ない生徒は戻ってください」
響く冷ややかなアナウンスを無視して、興奮し切ったクラスメイトは匠を囲い、声をかけていた。起き上がった彼は掛けられている言葉に、頷きながら何かを返してから「戻れよ」というふうに手を振っていた。
一年が終わると、二年三年とリレーを終えて、匠が席へと戻ってくる。しかし、声をかけようにも、すぐに彼の周りには人だかりができてしまい、とても近寄れる雰囲気ではない。
俺は大人しく自席に座りながら、肩に落ちていた日除のタオルを頭に掛け直した。
「声かけなくていいのか?」
瀬尾に言われて、え? と言葉が詰まる。
「仲良しなんだろ?」
「あ、ああでも……人すごいし」
「でも御子柴はちらちらこっち見てっけど」
そう言われて顔を上げると、人だかりの中から、不意に匠と目が合った気がする。しかし、すぐに誰かに呼ばれて、視線が離れてしまう。それをなんだかやりきれない気持ちで見つめていると、
「友達ってよりさあ」
と、千葉が思いつきのように呟く。
「彼氏みたい」
「は? そんなんじゃないし」
驚いてすぐにそれを否定すると、俺は匠のいる方から視線を逸らして、次の種目を準備するグラウンドに目を向けた。
バレた? 俺なんか変な行動とかした?
千葉の野生の勘のような言葉に、激しく動揺して、心臓がどきどきと頭の中で鳴り響く。俺は暑さではない変な汗をかきながら、落ち着け、と自身に言い聞かせる。
「千葉って、マジでノンデリ」
「はあ? 何がだよ」
「いやいや、喧嘩すんなって」
二人の間に入って、苦笑いでその話を流すと、俺は昼休憩何時からだっけ? と話題を変えた。
「第六種目終わった後だから結構先」
「マジかあ、クーラー欲しい」
瀬尾の隣で嘆く千葉に同意しながら、俺は頭から匠に借りたタオルを下ろした。すると、
「凛、タオル貸して」
そんな声が降りてきて、背後からひょいっと手の中のタオルを引き抜かれる。
「ちょ、ちょっと待って!」
いつの間にか目の前にいた匠が、さらりとタオルで汗を拭おうとしているので、俺は驚いてそれを止めた。驚いている匠は「なんで?」と首を傾げながら固まっている。
「え、これ俺のじゃん」
「いや、俺汗かいちゃったし! 絶対汗ついてる」
「別にいいよ」
「良くない!」
俺はまだ使用してない自分のタオルと、匠の手の中のそれを交換した。
「こっち使って。まだ未使用だから」
「……これ凛のじゃん」
「今日はもう交換」
そう宣言すると、匠は「へえ」と何故か嬉しそうに口角を上げた。
「じゃあついでに、体育祭終わったら、ハチマキも交換しようよ」
「女子とやりなよ」
周りを見渡すと、いくつかの視線がこちらに向けられており、なんだか居た堪れない。匠に話しかけたいという視線が、遠慮なく背中や肩に突き刺さってくる。
「俺は凛としたい」
はっきりと伝えられると、その勢いに気圧されて、俺は迷った末に、小さく頷いた。これ以上「いやだ」と突っぱねても、匠は引いてくれないような気がしたから——なんとなく。
「約束だからな」
匠は嬉しそうに笑うと、自分のいるべきグループへと戻っていく。俺は彼の広い背中を眺めながら、詰めていた息を溢した。
「俺、恋愛より友情優先する男推せるわ」
千葉は何故か匠に好印象を持ちながら、頷いていた。今のが友情に見えたのか? 半分脅しじゃなかったか? そんな疑問を口に出来ないでいると、
「友情、なぁ……」
今度は瀬尾がなんだか含みのある言い方をする。俺は苦笑いで二人の相反する意見を流しながら、
「友情。友達だから、ね」
と、千葉の頼りない言葉を借りて頷いた。



