体育祭数日前になっても、梅雨は明ける気配を見せなかった。けれど、心なしか、晴れ間が増えてきたのが救いのような気がする。
俺は配られた青いクラスTを目の前に広げながら、自分の参加する競技を思い出していた。
学年全体の種目ではカラー対抗リレー、一年生の種目では綱引き。
本当はリレーなんて、全く自信がないけれど、騎馬戦よりはマシだと思い、参加することを決めた。
「匠の騎馬戦も見たかったけど、スウェーデンリレーだっけ? それもめっちゃ楽しみ!」
「でも、匠身長高いし、騎馬戦だと下になっちゃう可能性高かったから、リレーで逆に正解じゃない?」
女子の黄色い声音に、耳が勝手に動いてしまう。
スウェーデンリレーは普通のリレーに比べて、一走者ごとに走る距離が増えていくという、とてもきつい競技だ。最初の第一走者は百メートルだが、最後の第四走者は四百メートルを一人で走り切らなければならない。
匠はその第四走者目を指名されている。
俺には無理だ。五十メートルで体力が尽きてしまう。
己の体力のなさを自覚しながら、俺は丁寧にTシャツを畳み込むと、鞄の中にそれを仕舞い込む。
「ハチマキも全員取り終わったか~?」
教壇前で、先生がいくつか残っている青いハチマキを振った。俺は慌ててそれを取りにいくと、それもTシャツと同じように鞄の中に仕舞い込む。
「なんか意外と悪くねーな」
クラスTシャツの背面に連なる、クラスメイトの名前を眺めながら、千葉が呟いた。意外な反応に思わず「どした?」と瀬尾と振り返ると、
「いや、なんとなく?」
と、千葉は首を捻った。
「俺こういうの青春って感じのは、基本的に冷めた気持ちになるんだけど、お前らの名前入ってるの見てたら、なんかいいなって……」
思ったことがそのまま口に出てしまうタイプの千葉が、予想外にも嬉しいことを言ってくれる。
「なんかお前がそう言うと、俺もそんな気がしてきた」
瀬尾までつられたように言うから、俺も千葉の広げているTシャツの名前を、一つひとつ眺めながら、
「そうかもね」
と頷いた。
瀬尾、千葉——匠。
離れた場所に並んでいる匠の名前に、視線が自然と動いてしまっていた。
俺は匠が以前言ってことを、ふと思い出す。
——お揃いのTシャツ。
まあ、クラスメイト全員とお揃いだけどね、と念の為に自分へと要らぬツッコミをしてから、俺は匠の名前から目を逸らした。
「匠、バイトないなら一緒に帰ろ。ちょっと寄りたいとこあるから」
耳を澄ませていたわけじゃないけれど、聞こえてきてしまった会話に、また視線が動いてしまう。
視線の先には、安田が匠の肩にもたれ掛かっていた。安田は匠を気に入っているのか、大体ベッタリと彼に寄りかかっている。それがなんとなく面白くはないものの、それを意見できるほどの関係性は、俺と匠の間にない。
突然抱きしめられたあの日からだって、何かが変わったわけではない。相変わらず、会話は途切れがちだし、一緒にいるわけでもない。距離は縮むかと見せかけて、一向に何も変わらないのが現状だ。
「そろそろ俺ら部活行くな」
「またな」
俺は二人組から瀬尾や千葉へと視線を戻すと、先に席を立つ二人に、手を振った。
「頑張れなー」
帰宅部の俺とは違い、二人はバスケ部に所属しているため、通常の練習に加えて、体育祭の部活対抗リレーも参加しなくてはならないらしい。
一人になった俺も、少しずつ帰り支度を済ませて減っていくクラスメイトに紛れて、教室を後にした。階段を降りながら、なんとなくスマホを取り出して、体育祭の日の天気予報を検索する。
曇りのち晴れ。——しかし、前日は終日雨予報だ。
長引く雨でなければいいけど、なんて思いながらアプリを消していると、スマホの画面の上部にメッセージが表示された。指が癖のようにそれをタップすると、現れたのは、匠からのメッセージだった。
『もう帰る? 一人?』
思わず階段を降りる足が、止まってしまう。俺は教室を出る手前で見た、匠と安田のやりとりを反芻してから、
『一人だよ』
とだけ返事をした。
『だったら、一緒に帰ろ』
安田はいいのか? 指がそう動きそうになって、俺はそこをぐっと堪える。盗み耳立てていたなんて思われたくないし、俺が匠と安田の間を考えるのは愚問な気がした。
『いいけど、用事とかないの?』
『特にない。先に玄関口にいて』
安田と約束はしなかったのだろうか、そんなことが一瞬頭をよぎったけれど、俺はそれを見なかったことにして、玄関先へと急いだ。
下駄箱でようやく自分の足に慣れてきた、革靴に履き替えると、背後から軽く背中を叩かれた。振り返ると、そこには思った通り、匠がいて。
「待たせてごめん」
「ううん、全然……、っていうか、俺になんか用事ある?」
「ん? 特になんもねーけど」
匠はなんかあったっけ? と首を傾げながら、上履きからスニーカーに履き替える。
「ねえ、あれ御子柴くんじゃない?」
不意にそんな声が聞こえて振り返ると、二年生の下駄箱前で、こちらを見ている女子と目が合った。しかし、目が合ったのは気のせいだったようで、彼女たちは匠にあからさま好意の視線を向けているばかりで、俺の視線には気づいていない。
やっぱり側から見ても、匠って格好良くなったんだよな、と改めて実感する。まさか、あのふわふわボディーの中に、こんなイケメンが隠れているなんて、俺だって思ってもみなかった。
「駅前のカフェでさ、新しいやつ出てるから、一緒に寄って
帰らん?」
「うん、いいよ」
「やった。凛と一緒に帰るの、何年振りだろ」
匠はそう言いながら、嬉しそうに歩き出す。俺は彼の背中を眺めながら、
「何年ぶりだろうね」
と、返した。
もっと小さくて、まるっとしていていた小学生の頃の匠が、ふと浮かんでくる。俺はその背中の成長ぶりに、まるで親鳥のような気持ちになってしまった。
ずいぶん努力したんだろうな、と改めて感じる。
「凛、どした? おいで」
自分が隣にいないことを不思議に思ったのか、そう手招きされて、隣に並ぶと、少し高い位置から匠の視線が落ちてくる。普段は感情を宿さない唇が、今は優しげに弧を描いて、優しい眼差しは俺を見つめていた。その柔らかな表情に、胸の奥がきゅうっと締め付けられてしまう。
こんなにも真っ直ぐに、視線を向けられることなんてないから、どうしていいか分からなくなってくる。
「そ、そんな見るなよ。なんも出ないし、奢らないからな」
「むしろ俺が奢る」
「それは遠慮したい」
「なんで? 俺が付き合わせるんだから」
その言葉が、なんだか俺と匠の間に一本線を張るラインみたいで、思わずムッとしてしまった。
「別に付き合って行くわけじゃない。俺も行きたいから行くだけだし」
なんだか子どもの言い訳みたいに言ってしまうと、匠が少しだけ笑って「そっか」と頷いた。
「凛は相変わらず優しい」
「そう? 普通だと思うけど」
俺が首を傾げると、匠は緩く頭を振るって、
「俺には、とびきり優しく感じる」
と優しく微笑んだ。
それが思った以上に大人っぽい表情だったから、俺は何も言えなくなり、ただ彼から視線を外した。



