体育祭まで二週間切った頃になって、梅雨に入ってしまった。連日の天気予報は遠慮なく傘マークが乱立し、体育祭は晴れるのかと、不安がる声がちらほらと聞こえてくる。
「小雨なら中止にならないだろうけど、一番面倒だよなァ」
誰かの正しい意見に、心の中で頷きながら、俺は次の授業で使う教科書を机の中から引っ張り出した。
「高岡、次の英語の宿題終わってる?」
前の席にいる瀬尾が振り返る。俺はワークショップの教材を開きながら、それを彼に渡した。
「終わってる」
「最後の問題の答え合わせさして~」
そう言いながら彼は自分の教材と中身を見比べて、やっぱ合ってるよな、と頷くとすぐにそれを返してくれた。それから窓外のしつこい雨を睨むように眺めて、
「午後止むと思う?」
と、不満そうに問いかけてくる。
「いや、無理じゃね?」
分厚く光を含まない雲は、どこまでも切り目なく空を覆い尽くしており、数時間後に止むなんて想像できない。瀬尾は「だよなぁ」とため息を吐きながら、
「今日デートなんだけどさあ、ちょっと外で並ぶやつだから面倒臭ぇなって」
と、ため息混じりにぼやく。
瀬尾には別の学校に行ってしまった、同学年の彼女がいるらしい。中学二年からの付き合いで、今でも良好にその関係は続いているようだ。
「雨くらい、別にいいじゃん。傘さすだけだろ?」
「それがうぜーじゃん」
そう言いながら、俺の机に塞ぎ込んでしまう。俺は瀬尾のつむじを眺めながら、彼女に会えるだけで嬉しいって思わないのかな、と素朴な疑問を口に出せないまま心の中で考える。
もし、俺だったら……なんて考えていると、自然と視線は匠の方へと流れてしまい、慌てて視線を逸らす。周りは騒がしいのに、やっぱり匠の周りだけが、どこかひんやりとした静けさを纏っている気がした。
「……俺だったら、嬉しいけどな。彼女に会えるだけで」
「お前はほんと純粋……ってか、誠実?」
なんだか純粋や誠実ということが、悪いみたいな雰囲気を含んでいる瀬尾の言葉に、俺は首を傾げた。
「……なんかあった?」
「なんもねーけど、なんもねーのがダメかも」
瀬尾のぽつりと溢した言葉の真意は見えずとも、彼の言わんとしていることには、なんとなく同意できる気がする。俺も、匠と何もないからすれ違ってしまった。
「遠距離って難しい?」
「まあ、遠距離っていうか……」
彼はそう言いながら、右手と左手の人差し指同士をくっつけて、
「こうだったものが」
今度は指を少しだけ離して。
「こうなっちゃっただけなのに、難しい」
今までくっついていたものの間に、小さな隙間ができてしまったこと。それは僅かな隙間だったとしても、二人に与える影響は大きいものだ。小さなすれ違いから、別れが予告なく生み出されてしまう。
「なんとなく、わかる気はする」
「高岡も彼女いるの?」
わずかに声音を弾ませる瀬尾に「いない」と答えると、彼は「なんだ」と言わんばかりに、また顔を伏せてしまった。
「でも、似たようなことはあったから」
瀬尾は俺の言葉にちらりと顔を上げると、仲間かどうかを確かめるみたいに、俺を見上げてくる。
「俺の場合は自然消滅したけど」
「なんか、高岡にもそういうのあるって意外」
「そう?」
「高岡って、曖昧なことはしなさそうだから」
できる限り、誰にでも誠実ではいたいと思っているけれど、それでも俺にも怖くて、びびって、手も足も出せないことはある。俺は瀬尾からの評価に「そうでもないよ」と笑って見せた。
「え~、なんか高岡と恋愛話せると思ってなかったから新鮮」
嬉しそうに笑う瀬尾に、少し安心していると、
「凛、ちょっといいか?」
と、声をかけられた。
俺のことを下の名前で呼ぶのは、一人しかいない。顔を上げると、予想通りに匠が立っていた。
「どうしたの?」
「……、ちょっと来て」
はっきりしない匠の態度に、俺は瀬尾に「ごめん」と言って席を立つ。十分しかない授業の合間の短い休憩は、そろそろ終わってしまいそうだが、素直に従い俺は匠と教室の外に出た。
廊下は曇天のせいで窓から光が入らず、人も疎なせいか、陰湿さを帯びている気がした。
五センチほど匠の方が背が高く、俺が「どうしたの?」と振り返ったその顔を見上げると、彼は口の中で言葉を探すように下唇を噛んだ。
「ごめん、なんか恋愛の話? 彼女とかそういう単語聞こえて……」
「ああ、瀬尾の話」
「瀬尾? 凛の話じゃない?」
「俺の話じゃないよ」
「じゃあ彼女いない? 彼氏も」
前のめりに聞かれて、思わず一歩後ずさると、離れた分、匠が迫るように身体を寄せてくる。
「い、いないけど……」
気圧されて答えを絞り出すと、彼はようやく信用してくれたのか、身を引いて深いため息を吐いた。
「え、なに?」
「安心した」
「何が?」
「凛に恋人がいなくて」
安堵に閉じていた彼の形の良い双眸がゆっくりと開かれると、彼はなんの躊躇いもなく、俺の手を握った。俺は反射的に辺りを見渡し、誰にも見られていないかを確認する。流石に手首を掴まれるならまだしも、手を握られる姿を見られるのは、居た堪れない。
「お、おい、匠……っ、離せって」
「やだ、無理」
予鈴が鳴り響き、廊下から人が消えてく。
「雨だと英語やる気無くすわ」
「お前、いつもないだろ」
そんな軽口が教室に吸い込まれていく。
「ほらもう授業だって!」
俺がそう逆に手を引くと、もっと大きく強引な力で、無理やり引き寄せられた。予想外の力に、抵抗もできないまま、匠の腕の中に引き込まれると、強く抱き締められる。
「ちょ、ちょっと……っ!」
「抵抗しないで」
懇願するように言われて、思わずその声音の弱々しさに怯んでしまった。
——ずるい。
心臓がどくどくと早く脈を打ち始め、どうしようもないほど匠を意識せざる負えない状況に追い込まれる。見たくないもの、目を逸らしていたものを、目の前に突きつけられるみたいに、身体から意識し始めていく。
「お前ら何やってんだ~?」
俺と匠以外の声に驚いて、渾身の力で彼を押しやると、英語の先生が不思議そうに俺たちを眺めていた。先生にはどんなふうに、俺たちは映ってしまったのだろう。今度はそんな不安が過ぎる。
しかし、先生はさして興味もないという眼差しで「はよ入れ」と教室へと俺たちを促すだけで、それ以上のことは詮索してこなかった。
「お前らどしたん?」
二人で教室に入り、慌てながら席に着くと、千葉に声をかけられた。俺はそれに「何でもない」と告げて、俯きながら席に着く。
「顔赤いけど……」
「昨日から風邪っぽいせいかな」
俺はそんな嘘を躊躇いなく吐くと、先生の話す言葉や黒板の文字に集中する。
握られた右手や、触れられた腰や、唇の近付いた耳元から、匠の体温が消えない。俺はノートを書き写すペンを何度も握り直しながら——それでも匠だけは見ないようにと意識して、意味のわからない英単語を書き込んでいく。
やだ、やだやだやだ——知りたくない。
否定だけをたくさん重ねて、それでも最後に浮上してくる本音に、もう抗えそうにない。俺は白旗を振るように観念して、机に突っ伏した。
「高岡~、寝るな~」
先生の言葉に、俺は何も返せず、ため息を吐いた。
「小雨なら中止にならないだろうけど、一番面倒だよなァ」
誰かの正しい意見に、心の中で頷きながら、俺は次の授業で使う教科書を机の中から引っ張り出した。
「高岡、次の英語の宿題終わってる?」
前の席にいる瀬尾が振り返る。俺はワークショップの教材を開きながら、それを彼に渡した。
「終わってる」
「最後の問題の答え合わせさして~」
そう言いながら彼は自分の教材と中身を見比べて、やっぱ合ってるよな、と頷くとすぐにそれを返してくれた。それから窓外のしつこい雨を睨むように眺めて、
「午後止むと思う?」
と、不満そうに問いかけてくる。
「いや、無理じゃね?」
分厚く光を含まない雲は、どこまでも切り目なく空を覆い尽くしており、数時間後に止むなんて想像できない。瀬尾は「だよなぁ」とため息を吐きながら、
「今日デートなんだけどさあ、ちょっと外で並ぶやつだから面倒臭ぇなって」
と、ため息混じりにぼやく。
瀬尾には別の学校に行ってしまった、同学年の彼女がいるらしい。中学二年からの付き合いで、今でも良好にその関係は続いているようだ。
「雨くらい、別にいいじゃん。傘さすだけだろ?」
「それがうぜーじゃん」
そう言いながら、俺の机に塞ぎ込んでしまう。俺は瀬尾のつむじを眺めながら、彼女に会えるだけで嬉しいって思わないのかな、と素朴な疑問を口に出せないまま心の中で考える。
もし、俺だったら……なんて考えていると、自然と視線は匠の方へと流れてしまい、慌てて視線を逸らす。周りは騒がしいのに、やっぱり匠の周りだけが、どこかひんやりとした静けさを纏っている気がした。
「……俺だったら、嬉しいけどな。彼女に会えるだけで」
「お前はほんと純粋……ってか、誠実?」
なんだか純粋や誠実ということが、悪いみたいな雰囲気を含んでいる瀬尾の言葉に、俺は首を傾げた。
「……なんかあった?」
「なんもねーけど、なんもねーのがダメかも」
瀬尾のぽつりと溢した言葉の真意は見えずとも、彼の言わんとしていることには、なんとなく同意できる気がする。俺も、匠と何もないからすれ違ってしまった。
「遠距離って難しい?」
「まあ、遠距離っていうか……」
彼はそう言いながら、右手と左手の人差し指同士をくっつけて、
「こうだったものが」
今度は指を少しだけ離して。
「こうなっちゃっただけなのに、難しい」
今までくっついていたものの間に、小さな隙間ができてしまったこと。それは僅かな隙間だったとしても、二人に与える影響は大きいものだ。小さなすれ違いから、別れが予告なく生み出されてしまう。
「なんとなく、わかる気はする」
「高岡も彼女いるの?」
わずかに声音を弾ませる瀬尾に「いない」と答えると、彼は「なんだ」と言わんばかりに、また顔を伏せてしまった。
「でも、似たようなことはあったから」
瀬尾は俺の言葉にちらりと顔を上げると、仲間かどうかを確かめるみたいに、俺を見上げてくる。
「俺の場合は自然消滅したけど」
「なんか、高岡にもそういうのあるって意外」
「そう?」
「高岡って、曖昧なことはしなさそうだから」
できる限り、誰にでも誠実ではいたいと思っているけれど、それでも俺にも怖くて、びびって、手も足も出せないことはある。俺は瀬尾からの評価に「そうでもないよ」と笑って見せた。
「え~、なんか高岡と恋愛話せると思ってなかったから新鮮」
嬉しそうに笑う瀬尾に、少し安心していると、
「凛、ちょっといいか?」
と、声をかけられた。
俺のことを下の名前で呼ぶのは、一人しかいない。顔を上げると、予想通りに匠が立っていた。
「どうしたの?」
「……、ちょっと来て」
はっきりしない匠の態度に、俺は瀬尾に「ごめん」と言って席を立つ。十分しかない授業の合間の短い休憩は、そろそろ終わってしまいそうだが、素直に従い俺は匠と教室の外に出た。
廊下は曇天のせいで窓から光が入らず、人も疎なせいか、陰湿さを帯びている気がした。
五センチほど匠の方が背が高く、俺が「どうしたの?」と振り返ったその顔を見上げると、彼は口の中で言葉を探すように下唇を噛んだ。
「ごめん、なんか恋愛の話? 彼女とかそういう単語聞こえて……」
「ああ、瀬尾の話」
「瀬尾? 凛の話じゃない?」
「俺の話じゃないよ」
「じゃあ彼女いない? 彼氏も」
前のめりに聞かれて、思わず一歩後ずさると、離れた分、匠が迫るように身体を寄せてくる。
「い、いないけど……」
気圧されて答えを絞り出すと、彼はようやく信用してくれたのか、身を引いて深いため息を吐いた。
「え、なに?」
「安心した」
「何が?」
「凛に恋人がいなくて」
安堵に閉じていた彼の形の良い双眸がゆっくりと開かれると、彼はなんの躊躇いもなく、俺の手を握った。俺は反射的に辺りを見渡し、誰にも見られていないかを確認する。流石に手首を掴まれるならまだしも、手を握られる姿を見られるのは、居た堪れない。
「お、おい、匠……っ、離せって」
「やだ、無理」
予鈴が鳴り響き、廊下から人が消えてく。
「雨だと英語やる気無くすわ」
「お前、いつもないだろ」
そんな軽口が教室に吸い込まれていく。
「ほらもう授業だって!」
俺がそう逆に手を引くと、もっと大きく強引な力で、無理やり引き寄せられた。予想外の力に、抵抗もできないまま、匠の腕の中に引き込まれると、強く抱き締められる。
「ちょ、ちょっと……っ!」
「抵抗しないで」
懇願するように言われて、思わずその声音の弱々しさに怯んでしまった。
——ずるい。
心臓がどくどくと早く脈を打ち始め、どうしようもないほど匠を意識せざる負えない状況に追い込まれる。見たくないもの、目を逸らしていたものを、目の前に突きつけられるみたいに、身体から意識し始めていく。
「お前ら何やってんだ~?」
俺と匠以外の声に驚いて、渾身の力で彼を押しやると、英語の先生が不思議そうに俺たちを眺めていた。先生にはどんなふうに、俺たちは映ってしまったのだろう。今度はそんな不安が過ぎる。
しかし、先生はさして興味もないという眼差しで「はよ入れ」と教室へと俺たちを促すだけで、それ以上のことは詮索してこなかった。
「お前らどしたん?」
二人で教室に入り、慌てながら席に着くと、千葉に声をかけられた。俺はそれに「何でもない」と告げて、俯きながら席に着く。
「顔赤いけど……」
「昨日から風邪っぽいせいかな」
俺はそんな嘘を躊躇いなく吐くと、先生の話す言葉や黒板の文字に集中する。
握られた右手や、触れられた腰や、唇の近付いた耳元から、匠の体温が消えない。俺はノートを書き写すペンを何度も握り直しながら——それでも匠だけは見ないようにと意識して、意味のわからない英単語を書き込んでいく。
やだ、やだやだやだ——知りたくない。
否定だけをたくさん重ねて、それでも最後に浮上してくる本音に、もう抗えそうにない。俺は白旗を振るように観念して、机に突っ伏した。
「高岡~、寝るな~」
先生の言葉に、俺は何も返せず、ため息を吐いた。



