ただいま。
家の扉を開けると、雅子の「お帰りなさい」という声が返ってきて、七瀬はわずかに肩の力を抜いた。
その声は、法廷で聞いたどの言葉よりも単純で、意味の揺れがなかった。正しさを証明する必要もなく、理由を積み上げる必要もない。ただ「帰ってきた」という事実だけに反応している。
靴を脱ぐ動作が、少し遅れて意識に追いつく。濡れた靴下の感触が床に移るたび、外の時間が少しずつ切り離されていくようだった。
「雨、ひどかったでしょう」
雅子の声はキッチンの方から聞こえる。鍋の音と混ざって、生活のリズムの中に溶けている。
「うん……結構」
短く答えると、それ以上の説明は必要とされなかった。どこで何を見たのか、何を聞いたのか、それらはまだ言葉にする前のまま、七瀬の中に残っている。
リビングの明かりは少し暖かく、法廷の白い光とは違う種類の輪郭をしていた。そこには判断も結論もなく、ただ時間が流れているだけだった。
鞄を置き、椅子に座る。身体がようやく「戻ってきた場所」を認識する。
安堵は、何かが解決したからではなかった。ただ、自分の存在を問い直されない空間に戻ってきたというだけのことだった。
それでも七瀬の頭の片隅には、まだ法廷の沈黙が残っている。誰かの呼吸の間、言葉の届かない一拍、その隙間に浮かび上がった輪郭。
雅子が味噌汁の椀をテーブルに置く音がして、ようやくその思考が少しだけ現実に引き戻される。
「今日は、長かった?」
何気ない問いかけだった。
七瀬は少し迷ってから、小さく頷いた。
「うん。……長かった」
それだけ言うと、言葉はそこで止まった。
説明しようとすればするほど、あの場所で見たものが別の形に変わってしまいそうな気がした。だから七瀬は、それ以上を口にしなかった。
代わりに、湯気の立つ椀を見つめる。白く曖昧な揺らぎが、少しだけ視界を曖昧にした。
外の世界で下された決定と、この家の中で差し出される食事は、同じ一日の中にあるはずなのに、どこか別の時間の上に置かれているようだった。


