教室の隅で騒ぐ男子生徒も、それを笑って眺める女子生徒も、七瀬には同じ世界の住人に見えた。自分だけが、その輪郭の外側に立っている。そんな気がした。あんなふうに、自分の居場所を疑わずに決められるところが、七瀬には羨ましかった。自分は居場所どころか己の性別すら決断できていないのに。
チョークが黒板を擦る音、ノートをめくる音、誰かが小さく笑う声。それらは確かに耳に届いているのに、どこか薄い膜を隔てた向こう側で鳴っているようだった。
前に座る女子が髪を耳にかける仕草を、七瀬はぼんやりと眺めていた。長く伸ばした髪が肩の上を滑り、柔軟剤の甘い匂いが一瞬だけ鼻をかすめる。自分も同じ制服を着て、同じように髪を結んでいる。それなのに、鏡を見るたびに感じる違和感は、その仕草一つでは埋まらない。
午後の日差しが机を白く照らし、校庭では体育の授業が始まっている。笛の音と、遠くから聞こえる笑い声がガラス越しに少しだけくぐもって届く。
七瀬は頬杖をつき、窓に映る自分を見た。ガラスの向こうの景色と、自分の顔が重なっている。どちらが本当なのか、一瞬だけわからなくなる。
「藤本って髪きれいだよね」
突然、隣の席の一条萌香が言った。七瀬は思わず目を瞬かせる。
「え?」
「ほら、まっすぐだし。私なんて朝アイロンしてもすぐ跳ねるからさ」
反射的に毛先へ手が伸びる。朝、鏡の前で気にしていた枝毛が指先に触れた。
「そんなことないよ」
小さく笑って返す。本当は、「きれい」と言われるたびに少しだけ困る。褒められているのに、褒められている気がしない。相手が見ているのは髪で、自分ではないような気がするからだ。あるいは、自分が見られたい場所とは違うところばかり見られている気がするからかもしれない。
黒板に書かれる数式を目で追いながらも、七瀬の意識は窓ガラスに映る自分へ何度も戻っていく。その姿は間違いなく「藤本七瀬」だった。けれど、その名前を呼ばれるたび、自分の中で何かがほんの少しだけ遅れて返事をしているような感覚があった。
スカートの裾を折ると丈が短くなって、脚が長く見えるようになる、と教えてくれたのは一条桃香だった。
「こうやって、内側に一回折ってからさ、軽く止めるの」
一条桃香は慣れた手つきで、七瀬のスカートの裾を指でつまみ、ほんの数センチだけ内側へ折り込んだ。布の重なりが増えると、さっきまでより輪郭が少しだけ引き締まって見える。
「……ほんとだ」
七瀬は自分の脚を見下ろした。長くなったわけではない。ただ、境界が少し上に移動しただけだ。それなのに、印象というものはそれだけで変わってしまう。
「でしょ。みんなやってるよ、黙ってるだけで」
一条桃香は悪びれずに言って、前髪を指で整えた。その動作には迷いがない。自分の見せ方を知っている人間の動きだった。
七瀬はもう一度、スカートの折り目に指を触れた。さっきまでただの布だったものが、「形を変えるための仕組み」に見えてくる。
「……なんか、ずるいね」
ぽつりとこぼすと、桃香は少しだけ笑った。
「ずるいっていうか、工夫じゃない?」
工夫。
その言葉は、七瀬の中で少しだけ引っかかった。工夫というのは、すでに与えられたものの中で、どうにか“それらしく見せる”ための技術だ。つまり、前提は変わらないまま、見え方だけを変える行為。
窓の外では体育の授業が続いている。誰かの掛け声が途切れ途切れに届き、空の色はぼんやりと白く濁っていた。
「藤本さ、最近ちょっと考えすぎじゃない?」
桃香が何気なく言う。
「考えすぎ……かな」
「うん。もっと適当でいいのに。制服だって、髪だって、別に正解とかないし」
その言葉は軽かった。軽いのに、七瀬の胸の奥には少しだけ沈んだ。
正解がない、という言い方は、自由にも聞こえるし、放り出されているようにも聞こえる。
七瀬は机の上に視線を落とした。鉛筆の跡、消しゴムのかす、誰かが落とした小さな糸くず。それらは全部、意味があるようでいて、どれもすぐに消えていくものだった。
「………桃香はさ」
「ん?」
「自分のこと、ちゃんと分かってる?」
一瞬だけ、一条桃香の手が止まった。けれどすぐに、いつもの調子に戻る。
「分かってるっていうか……こうしたい、ってのはあるよ。髪はこう、スカートはこう、みたいな」
「それって、ずっと変わらないの?」
「変わるでしょ、普通に。でも、そのときそのときで“これでいい”って思えればいいんじゃない?」
その言葉に、七瀬はうまく頷けなかった。
“これでいい”。
それは一度きりの判定のようでいて、実際には何度も更新されていく許可証みたいなものだ。
スカートの裾に触れる。さっきより少しだけ上がった位置が、まだそこに残っている。触れたはずなのに、そこだけ時間が止まったみたいだった。
一条桃香は立ち上がりながら、「じゃ、また明日」と軽く手を振った。歩き出すと、紺色の布がわずかに揺れる。その動きは特別なものではないのに、七瀬の目にはなぜか、いつもより少しだけ“完成された形”に見えた。自分の視線だけが、そこに余計な意味を足してしまっているような気がする。
七瀬は意識をそらすように、少し遅れて立ち上がる。廊下に出ると、窓際の光が白く反射していた。自分の影が床に伸びる。その形は、さっきまでと同じはずなのに、どこか違って見える。
“見え方”は、こんなにも簡単に変わる。それなのに、自分の中身は、どこまでいってもそのまま置き去りにされている気がした。


