髪の毛の約八割は、「ケラチン」と呼ばれるたんぱく質でできている。ケラチンはおよそ十八種類のアミノ酸が結合して構成されており、特に硫黄を含むシスチンというアミノ酸を多く含むのが特徴だ。シスチンが豊富なほど、髪は太く、丈夫で、しなやかな弾力を持つといわれている。
枝毛を指先でつまみながら、藤本七瀬は鏡の前で小さくため息をついた。
「また増えてる……」
ドライヤーの熱には気をつけているつもりでも、毛先は少しずつ乾き、ほつれるように裂けていく。美容師に「ケラチンが大事なんですよ」と説明されたときは、どこか遠い世界の話のように感じていた。それなのに今では、その言葉だけがやけに頭に残って離れない。
ケラチン。シスチン。美容師が口にした名前だけが、不思議なくらい頭に残っていた。
理屈としては理解している。髪がたんぱく質でできていて、栄養が不足すれば弱っていくことも。ただ、それが日々の手触りや見た目の変化として現れると、急に現実の重さを帯びてくる。
七瀬は毛先を指に挟み、光にかざした。そこだけがわずかに白く透け、細かく裂けている。まるで乾いた紙の繊維のようだった。
「トリートメント、変えたほうがいいのかな……」
そう呟いたあとで、自分が髪のことばかり気にしていることに気づく。朝も夜も、指を通すたびに抜け毛や枝毛の有無を確かめてしまう。鏡の中の自分と目が合うたび、七瀬は少しだけ視線を逸らした。見られているのは髪なのか、それとも自分のほうなのか、判然としないまま時間だけが過ぎていく。
洗面所の蛍光灯はやけに白く、毛先の傷みを容赦なく浮かび上がらせた。指でそっと整えても、裂けた部分は一度開いたまま戻らない。
「……栄養、足りてないのかな」
食事のことが頭をよぎる。朝はコーヒーだけ、昼は適当なパン、夜も疲れている日は簡単に済ませてしまう。髪は正直だ、と美容師に言われた言葉が、今さら刺さる。
スマートフォンを手に取ると、「ケラチン 増やす方法」と検索欄に打ちかけて、途中で指が止まった。
そんなことで変わるのだろうか、と。
画面を消した瞬間、背後の静けさがやけに大きくなる。換気扇の音だけが低く回り続けていて、その一定のリズムが、逆に思考をじわじわと削っていく。
七瀬はもう一度、毛先を見た。ほんの少し切ればいいだけのようにも見えるし、どこまで切っても足りないようにも見える。
「……明日、予約しようかな」
言葉にした瞬間、少しだけ現実の輪郭が戻ってくる。
いずれ七瀬にも女性らしい身体つきになる、と母の雅子から励まされたのは中学生の頃だったと記憶している。
その言葉は、当時の七瀬にとって「未来の予定」のような響きを持っていた。まだ来ていない何かが、当然のようにやってくるという前提だけが先に置かれていて、自分の意思や実感はそこに関与していない。そういう種類の話だった。
風呂上がりの曇った鏡の前で、七瀬は何度も自分の胸元や腰回りを見た。何かが変わり始めているような気がしては、何も変わっていないようにも思えた。どちらでもない時間が長く続き、その曖昧さだけが少しずつ積もっていく。
「そのうち、ちゃんと形になるから」
雅子は悪気なくそう言った。むしろ、それは安心させるための言葉だったのだと思う。七瀬も当時はうなずいた。うなずくしかなかった、という方が近い。
けれど“そのうち”は、思っていたよりも曖昧な速度でしかやってこなかった。
教室の机に座っているとき、周囲の女子の身体だけが先に進んでいるように見えた。
誰かの制服はいつの間にか窮屈そうになり、誰かの声は少しずつ低く柔らかく変わっていく。変化は目に見えるのに、自分のところには薄い膜が一枚張ったまま残されている感じがした。
その膜をどうにかしようとしても、触れる場所がわからなかった。
七瀬は鏡の前で髪をまとめ直す。今の自分の身体は、当時よりは確かに変わっている。輪郭も、重さも、感触も。けれど「女性らしさ」という言葉が指していたものが何だったのかは、いまだに正確には掴めないままだ。
髪を指で挟む。枝毛の先が光を細かく散らす。
——形になる。
その言葉は、いつの間にか別の意味を持つようになっていた。
変わることは、必ずしも“整っていくこと”ではないのではないか。むしろ、どこかが歪んだまま進んでいくことも変化なのではないか。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな違和感が残る。洗面所の白い光の下で、七瀬は自分の肩の線を見た。そこに「完成」も「未完成」もない。ただ、途中のものだけがある。


