昼休みのチャイムが鳴り響いた後も、教室の喧騒は、まるで分厚いガラスを隔てた遠くの波音のように私の耳へぼんやりと届くだけだった。周りの生徒たちが机を合わせ、弁当箱を開ける賑やかな音が部屋を浸食していく中で、私の手元には、完全に孤立した白としてはみ出した進路希望調査票が置かれたままだった。
結衣が身を乗り出し、スマートフォンの画面を指差しながら熱っぽく語る、あのSNSの匿名イラストレーター――すなわち私自身――への無邪気な称賛の言葉は、まるで全く関係のない他人のことのように、私の脳内を虚しく通り抜けていった。彼女が憧れ、救いを見出しているのは、あくまで結果として綺麗に提示された画面上の「作品」であって、その裏側で、毎夜毎夜、喉をかきむしるようにして泥のような葛藤をキャンバスにぶちまけている私の、本当の泥臭い姿までは届いていない。
『誰かの救いになっている』
スマートフォンの冷たい液晶の中で静かに光っていたKの言葉が、私の脳内で何度も、何度も不穏な低音となって反芻される。救い。そのあまりに甘美で、あまりに重苦しい二文字の重みに、私はめまいを覚えた。自分の引くたった一本の細いインクの線が、顔も名前も知らない誰かの人生を揺るがし、どれほど巨大な責任を負い始めているのかを思い知らされ、ペンを握る右手の指先が微かに震えた。
「理央、お昼行こうよ。今日は購買で新しい限定のパンが出るんだって。早く行かないと売り切れちゃうよ」
結衣にいつも通りの屈託のない声で誘われ、私は思考の深淵から無理やり引き剥がされるようにして、ぎこちなく笑って頷いた。
席を立ち、教室を出る際、私は何気ない動作を装って、机の上に取り残されていた進路調査票を雑に折りたたみ、制服のスカートのポケットへと押し込んだ。その、大人たちの正解を一時的に視界から消し去る行為が、まるで何か取り返しのつかない神聖な決意を、自分だけの暗闇に封印する儀式のようで、指先がひやりと冷たくなるのを感じた。
校庭へと続く渡り廊下を抜けると、初夏の眩しい、刺すような陽光が全身に容赦なく降り注いだ。
グラウンドの向こうでは、体育の授業で汗を流す男子生徒たちの、地を這うような野太い怒号が響いている。校舎の影では、大声を張り上げて部活の勧誘に励む一年生たちの初々しい声が響く。すれ違う生徒たちの誰もが、それぞれの持つ「正しい日常」を全力で生きていた。その瑞々しい活気の一歩外側で、私だけが、世界から完全に浮き上がった別の時間軸の中を歩いているようだった。
「ねえ、理央。最近、なんだか遠くにいるみたいだよ」
購買へと向かう並木道で、結衣がふと足を止め、振り返って私を真っ直ぐに見つめた。風に揺れる青葉の隙間から漏れる木漏れ日が、彼女の輪郭を白く縁取っている。彼女のあの澄んだ、すべてを見透かすような瞳には、私が学校で必死に演じ続けている「優等生という仮面」の裏側に隠された、ドロドロとした本音の片鱗が、薄っすらと映り込んでいるのかもしれない。胸がドクリと嫌な音を立てた。
「……そうかな。ちょっと、最近夜遅くまで現代文の課題を考えていて、寝不足なだけだよ」
「もしかして、あの絵のこと? 理央も描いてるんでしょ、本当は。昔から、ノートの隅にいつも鳥の絵を描いてたもんね」
心臓が喉口から一気に飛び出るかと思った。全身の毛穴が収縮し、冷たい汗が背中を伝っていく。
私は努めて冷静さを装い、手元にあった焼き立てのパンのビニール袋をカサカサといじるふりをして、彼女の視線から必死に目を逸らした。
「……どうして、急にそんなこと思うの?」
「なんとなくね。理央の瞳が、最近ネットで話題になってる、あのアカウントの絵と同じ、すごく綺麗で、すごく寂しい色をしてるから」
結衣はそれ以上、私の動揺を追求しようとはしなかった。ただ、どこか遠い場所を見つめるように寂しげに微笑むと、再び前を向いて歩き始めた。
ローファーの音を響かせて先を行く彼女の、少し小さくなった背中をじっと見つめながら、私は、自分が選ぼうとしている「本当の正解」が、一番大切な親友である彼女を、取り返しのつかないほど遠くへ遠ざけてしまうのではないかという、底知れない不安に激しく襲われていた。
放課後、放課後のざわめきから逃れるようにしてやってきた図書室の片隅で、私はスマートフォンの画面に映るKからのメッセージを、古い紙の匂いに包まれながら何度も読み返していた。
「救いっていうのはね、理央さん、同時に恐ろしい呪いでもあるんだ。誰かに期待されるということは、その期待に永遠に応え続けなければならないという、目に見えない十字架を背負うことだから」
Kは、私の胸の奥で肥大化していく不安を、まるで最初からすべて見透かしているようだった。
画面の向こう、匿名アカウントのフォロワーの数字は、私の預かり知らぬところで一日ごとに狂ったように増え続けている。私の描いた絵は、社会の正解に苦しむ人々の心を揺さぶり、そして同時に、彼らの渇きを潤すための、新しい消費の対象としての「正解」へとおとしめられようとしていた。
(私は、誰かの痛みを代弁する都合の良い偶像になりたいわけじゃない)
私はスマートフォンを強く握り締め、静かに、図書室の大きな窓から見える夕暮れの空を見上げた。
あの圧倒的な青さは、誰のものでもなく、誰の評価も求めず、ただそこに毅然と存在している。
私も、あの空のようでありたかった。誰かの期待に応えるためではなく、ただ、私が私としてそこにいるだけの、何者にも、どんな檻にも縛られない自由な存在に。
そのとき、図書室の重い木製のドアが静かに開き、カツカツという規則正しい足音とともに、担任の阿部先生が入ってきた。
先生は進路指導の担当でもあり、その手には、昨日提出されるはずだったクラス全員の進路希望調査票の束と、冷酷な採点を連想させる一本の赤いサインペンが握られていた。その赤インクのペンで、私のこれからの未来が「地元の国立教育学部」という、親の望む、大人の用意した文字で、確定させられようとしているのだ。
「宮下、ここにいたか。調査票は持っているな? 昨日が締め切りだぞ」
先生が私の机の前まで歩み寄って立ち止まり、眼鏡の奥にある、冷徹な大人の眼光を真っ直ぐに光らせた。
私は制服のポケットの中で、何度も指先でなぞって角がボロボロになった、折りたたまれたあの紙の感触を確かめた。
ここでその紙を取り出し、先生に手渡せば、すべては丸く収まるのだ。
父の厳格な期待も、母のささやかな安心も、教師たちのメンツも、友人たちとの平穏な調和も。すべてが壊れることなく、守られる。私はまた、安全な檻の中の、お利口な小鳥に戻ることができる。
私はゆっくりと、ポケットからその小さく折りたたまれた紙を取り出し、木目の机の上に静かに置いた。
先生の、大人特有の肉厚な手が、その紙を回収しようと、迷いなくすっと伸びてくる。
「……先生。その紙、まだ、書き直してもいいですか?」
夕暮れの図書室の静寂を切り裂いたのは、自分でも驚くほどに、冷たく、冷静で、透き通った私の声だった。
先生の手が、空中でピタリと止まる。先生は怪訝そうに不快に眉をひそめ、私の顔をじっと睨み据えた。
「どういう意味だ、宮下。締め切りは昨日までだと今言ったはずだ。特進クラスのお前が、今更進路をぶれさせてどうする」
「人生の締め切りは、学校のスケジュールなんかじゃなく、もっとずっと先にあると思います」
私は椅子を激しく後ろに引いて立ち上がると、机の上の紙を回収することすらなく、先生の制服の袖をかすめるようにして、そのまま図書室を飛び出した。
後ろから、「おい! 宮下! どこへ行く!」という先生の怒鳴り声が静かな図書室に響き渡ったが、私は一度も振り返らなかった。
薄暗い放課後の廊下を、ローファーの音を狂ったように響かせながら全力で駆け抜けていく。
肺の奥がちぎれそうなほどに、冷たい空気を一気に吸い込み、呼吸を荒くする。
胸の奥の心臓が、17年間の人生の中で一度も経験したことのないほどの猛烈な速さと強さで、肋骨の内側をドクドクと叩き続けていた。
全身を支配する、未知の世界への圧倒的な恐怖。
親や教師を裏切ってしまったという、取り返しのつかない罪悪感。
そして――それらをすべて置き去りにして走る、脳髄を痺れさせるほどの、言いようのない圧倒的な解放感。
私の本当の物語は、この放課後の廊下から、凄まじい速度で加速していく。
もう、大人の作った都合の良い正解なんて、何一つ必要ない。
私は、私だけの本当の色と、私だけの本当の正解を見つけ出すために、この息詰まる灰色の校舎を、今まさに抜け出すことに決めたのだ。
結衣が身を乗り出し、スマートフォンの画面を指差しながら熱っぽく語る、あのSNSの匿名イラストレーター――すなわち私自身――への無邪気な称賛の言葉は、まるで全く関係のない他人のことのように、私の脳内を虚しく通り抜けていった。彼女が憧れ、救いを見出しているのは、あくまで結果として綺麗に提示された画面上の「作品」であって、その裏側で、毎夜毎夜、喉をかきむしるようにして泥のような葛藤をキャンバスにぶちまけている私の、本当の泥臭い姿までは届いていない。
『誰かの救いになっている』
スマートフォンの冷たい液晶の中で静かに光っていたKの言葉が、私の脳内で何度も、何度も不穏な低音となって反芻される。救い。そのあまりに甘美で、あまりに重苦しい二文字の重みに、私はめまいを覚えた。自分の引くたった一本の細いインクの線が、顔も名前も知らない誰かの人生を揺るがし、どれほど巨大な責任を負い始めているのかを思い知らされ、ペンを握る右手の指先が微かに震えた。
「理央、お昼行こうよ。今日は購買で新しい限定のパンが出るんだって。早く行かないと売り切れちゃうよ」
結衣にいつも通りの屈託のない声で誘われ、私は思考の深淵から無理やり引き剥がされるようにして、ぎこちなく笑って頷いた。
席を立ち、教室を出る際、私は何気ない動作を装って、机の上に取り残されていた進路調査票を雑に折りたたみ、制服のスカートのポケットへと押し込んだ。その、大人たちの正解を一時的に視界から消し去る行為が、まるで何か取り返しのつかない神聖な決意を、自分だけの暗闇に封印する儀式のようで、指先がひやりと冷たくなるのを感じた。
校庭へと続く渡り廊下を抜けると、初夏の眩しい、刺すような陽光が全身に容赦なく降り注いだ。
グラウンドの向こうでは、体育の授業で汗を流す男子生徒たちの、地を這うような野太い怒号が響いている。校舎の影では、大声を張り上げて部活の勧誘に励む一年生たちの初々しい声が響く。すれ違う生徒たちの誰もが、それぞれの持つ「正しい日常」を全力で生きていた。その瑞々しい活気の一歩外側で、私だけが、世界から完全に浮き上がった別の時間軸の中を歩いているようだった。
「ねえ、理央。最近、なんだか遠くにいるみたいだよ」
購買へと向かう並木道で、結衣がふと足を止め、振り返って私を真っ直ぐに見つめた。風に揺れる青葉の隙間から漏れる木漏れ日が、彼女の輪郭を白く縁取っている。彼女のあの澄んだ、すべてを見透かすような瞳には、私が学校で必死に演じ続けている「優等生という仮面」の裏側に隠された、ドロドロとした本音の片鱗が、薄っすらと映り込んでいるのかもしれない。胸がドクリと嫌な音を立てた。
「……そうかな。ちょっと、最近夜遅くまで現代文の課題を考えていて、寝不足なだけだよ」
「もしかして、あの絵のこと? 理央も描いてるんでしょ、本当は。昔から、ノートの隅にいつも鳥の絵を描いてたもんね」
心臓が喉口から一気に飛び出るかと思った。全身の毛穴が収縮し、冷たい汗が背中を伝っていく。
私は努めて冷静さを装い、手元にあった焼き立てのパンのビニール袋をカサカサといじるふりをして、彼女の視線から必死に目を逸らした。
「……どうして、急にそんなこと思うの?」
「なんとなくね。理央の瞳が、最近ネットで話題になってる、あのアカウントの絵と同じ、すごく綺麗で、すごく寂しい色をしてるから」
結衣はそれ以上、私の動揺を追求しようとはしなかった。ただ、どこか遠い場所を見つめるように寂しげに微笑むと、再び前を向いて歩き始めた。
ローファーの音を響かせて先を行く彼女の、少し小さくなった背中をじっと見つめながら、私は、自分が選ぼうとしている「本当の正解」が、一番大切な親友である彼女を、取り返しのつかないほど遠くへ遠ざけてしまうのではないかという、底知れない不安に激しく襲われていた。
放課後、放課後のざわめきから逃れるようにしてやってきた図書室の片隅で、私はスマートフォンの画面に映るKからのメッセージを、古い紙の匂いに包まれながら何度も読み返していた。
「救いっていうのはね、理央さん、同時に恐ろしい呪いでもあるんだ。誰かに期待されるということは、その期待に永遠に応え続けなければならないという、目に見えない十字架を背負うことだから」
Kは、私の胸の奥で肥大化していく不安を、まるで最初からすべて見透かしているようだった。
画面の向こう、匿名アカウントのフォロワーの数字は、私の預かり知らぬところで一日ごとに狂ったように増え続けている。私の描いた絵は、社会の正解に苦しむ人々の心を揺さぶり、そして同時に、彼らの渇きを潤すための、新しい消費の対象としての「正解」へとおとしめられようとしていた。
(私は、誰かの痛みを代弁する都合の良い偶像になりたいわけじゃない)
私はスマートフォンを強く握り締め、静かに、図書室の大きな窓から見える夕暮れの空を見上げた。
あの圧倒的な青さは、誰のものでもなく、誰の評価も求めず、ただそこに毅然と存在している。
私も、あの空のようでありたかった。誰かの期待に応えるためではなく、ただ、私が私としてそこにいるだけの、何者にも、どんな檻にも縛られない自由な存在に。
そのとき、図書室の重い木製のドアが静かに開き、カツカツという規則正しい足音とともに、担任の阿部先生が入ってきた。
先生は進路指導の担当でもあり、その手には、昨日提出されるはずだったクラス全員の進路希望調査票の束と、冷酷な採点を連想させる一本の赤いサインペンが握られていた。その赤インクのペンで、私のこれからの未来が「地元の国立教育学部」という、親の望む、大人の用意した文字で、確定させられようとしているのだ。
「宮下、ここにいたか。調査票は持っているな? 昨日が締め切りだぞ」
先生が私の机の前まで歩み寄って立ち止まり、眼鏡の奥にある、冷徹な大人の眼光を真っ直ぐに光らせた。
私は制服のポケットの中で、何度も指先でなぞって角がボロボロになった、折りたたまれたあの紙の感触を確かめた。
ここでその紙を取り出し、先生に手渡せば、すべては丸く収まるのだ。
父の厳格な期待も、母のささやかな安心も、教師たちのメンツも、友人たちとの平穏な調和も。すべてが壊れることなく、守られる。私はまた、安全な檻の中の、お利口な小鳥に戻ることができる。
私はゆっくりと、ポケットからその小さく折りたたまれた紙を取り出し、木目の机の上に静かに置いた。
先生の、大人特有の肉厚な手が、その紙を回収しようと、迷いなくすっと伸びてくる。
「……先生。その紙、まだ、書き直してもいいですか?」
夕暮れの図書室の静寂を切り裂いたのは、自分でも驚くほどに、冷たく、冷静で、透き通った私の声だった。
先生の手が、空中でピタリと止まる。先生は怪訝そうに不快に眉をひそめ、私の顔をじっと睨み据えた。
「どういう意味だ、宮下。締め切りは昨日までだと今言ったはずだ。特進クラスのお前が、今更進路をぶれさせてどうする」
「人生の締め切りは、学校のスケジュールなんかじゃなく、もっとずっと先にあると思います」
私は椅子を激しく後ろに引いて立ち上がると、机の上の紙を回収することすらなく、先生の制服の袖をかすめるようにして、そのまま図書室を飛び出した。
後ろから、「おい! 宮下! どこへ行く!」という先生の怒鳴り声が静かな図書室に響き渡ったが、私は一度も振り返らなかった。
薄暗い放課後の廊下を、ローファーの音を狂ったように響かせながら全力で駆け抜けていく。
肺の奥がちぎれそうなほどに、冷たい空気を一気に吸い込み、呼吸を荒くする。
胸の奥の心臓が、17年間の人生の中で一度も経験したことのないほどの猛烈な速さと強さで、肋骨の内側をドクドクと叩き続けていた。
全身を支配する、未知の世界への圧倒的な恐怖。
親や教師を裏切ってしまったという、取り返しのつかない罪悪感。
そして――それらをすべて置き去りにして走る、脳髄を痺れさせるほどの、言いようのない圧倒的な解放感。
私の本当の物語は、この放課後の廊下から、凄まじい速度で加速していく。
もう、大人の作った都合の良い正解なんて、何一つ必要ない。
私は、私だけの本当の色と、私だけの本当の正解を見つけ出すために、この息詰まる灰色の校舎を、今まさに抜け出すことに決めたのだ。



