『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

深夜、静まり返った自室のデスクで、私のスマートフォンの液晶が短く震えた。Kからダイレクトメッセージで送られてきたのは、一枚の静止画だった。

画面をタップして拡大した瞬間、私は言葉を失い、ただ画面を凝視することしかできなかった。
そこに映し出されていたのは、眩いほどに均一な真っ白な背景の中に、極細の黒いインクの線だけで描かれた、数え切れないほどの無数の「鍵」の絵だった。アンティーク調の重厚なものから、現代的な無機質なものまで、どの鍵も形が微妙に異なっている。しかし、それらには共通する異様な特徴があった。すべての鍵の先端が、まるで意思を持っているかのように、針のように鋭利に尖っていたのだ。それは本来の役目である「鍵穴に差し込まれること」を頑なに拒絶しているかのようで、近づく者すべてを拒むような、痛々しい防衛本能の塊に見えた。

「どれも、誰かの正解を開けるための鍵。でも、本当は自分の心を開けるためのものだったのかもしれない」

絵の下に添えられた、Kからの短いメッセージ。それを頭の中で何度も反芻するうちに、私の喉の奥が微かに乾いていくのを感じた。
あまりに繊細で、そしてあまりに脆く、今にも崩れ去ってしまいそうなほどに痛々しい絵。この絵を描いたKという人物もまた、私と全く同じなのかもしれない。どこかの街の、どこかの退屈な部屋で、大人たちから「何者か」になることを強く期待され、その目に見えない巨大な重圧に押し潰されそうになりながら、かろうじて呼吸をつないでいるのではないか。そう思うと、画面の向こうの会ったこともない相手が、急に血の通った一人の人間として、私のすぐ隣に佇んでいるような錯覚さえ覚えた。

私は突き動かされるようにして、机の上に真新しいスケッチブックを乱暴に広げた。
Kの描いた「鍵」の悲痛な叫びに、どうしても私の色で応えたかった。私は0.3ミリの細い製図用ペンを握り締め、その鍵を内側から激しく破壊する「圧倒的な力」をテーマにして、無心で線を引き始めた。尖った鍵の輪郭を、内側から爆発するような無数の幾何学的な破線が切り裂いていく。

深夜二時。
リビングから響く柱時計のボーン、ボーンという低い音が、いつもより異様なほど大きく、耳の奥まで響き渡る。部屋の中は、私のペン先が紙の繊維をガリガリと削る鋭い音だけで満たされていた。極限まで集中していた。これまでの17年間の人生の中で、これほどまでに自分の内側のドロドロとした感情と真っ正面から向き合い、それを形にしようとあがいたことなんて、ただの一度もなかった。学校の美術の授業で描かされる、お利口な静物画とは根本的に違う。ここにあるのは、私の剥き出しの生そのものだった。

「理央、まだ起きてるの? もう遅いよ」

不意に、カチリとドアノブが鳴る気配とともに、ドアの外から母の低く静かな声がした。
心臓が口から飛び出るかと思うほどの衝撃が走り、私は反射的にスマートフォンを画面が見えないように裏返し、机の上に乱暴に広がっていたスケッチブックやペン類を、教科書の山の影へと慌てて滑り込ませた。椅子を引く音が、静寂の中で不自然に大きく軋む。

「……うん、ちょっと現代文の予習が長引いちゃって。もう電気消して寝るよ」

寝不足と緊張でひどく掠れた声をどうにか絞り出して返事をすると、ドアの向こうの母は、しばらく不審そうに沈黙した後、「そう、明日も朝が早いんだから、ほどほどにしなさいね」とだけ言い残し、スリッパの足音を少しずつ遠ざけていった。

廊下の気配が完全に消えた瞬間、私は一気に肩の力を抜き、肺の中の空気をすべて吐き出すように深く、長い溜息をついた。心臓がまだ肋骨の内側を激しく叩き続けている。
もし、今、あのドアを母が容赦なく開けていたら。そこにあったのは、大人の望む通りに机の上で真面目に受験勉強に励む「誇らしい娘」の姿ではない。深夜の暗闇の中で、液晶の光に照らされながら、社会のルールから外れた「何か」を産み出そうと必死に足掻いている、一人の危険な異分子としての私の姿だ。その事実が、私をひどく興奮させ、同時に底知れない恐怖で満たした。

(もし、私が次の三者面談で、進路希望調査票に『美大希望』と本当のことを書いたら、この家は一体どうなるんだろう)

想像するだけで、胃のあたりがキューと雑巾を絞られるように激しく締め付けられる。
父の厳格な期待、母の盲目的な安心、教師たちのマニュアル通りの諭し、そしてクラスメイトたちの同調圧力。それらすべてが、目に見えない巨大な手のひらとなって、私を「普通」という名の狭い安全な枠の中に押し込めようと四方から迫ってくる。その枠から一歩でもはみ出してしまえば、私は誰からも愛される資格を失い、完全に孤立してしまうのではないか。そんな、根拠も実体もない、けれど圧倒的にリアルな恐怖が、いつも私の足首を掴んで暗い底へと引きずり込もうとしていた。

「K、私、自分の本当に描きたいものが、少しだけ分かってきた気がする」

私は震える指先で、液晶画面のチャット欄にそう打ち込んだ。誰にも言えない本音を吐き出せるのは、もう世界中でこの画面の向こう側しかなかった。
Kからの返信は、待つ間もないほど早かった。

「そう。なら、迷わずにそれを形にして。大人たちの誰も見ていない場所で、理央さんが、理央さんという唯一無二の存在であるための『消えない証拠』を、画面に残すんだ」

誰も見ていない場所。
そう、このSNSという、名前も顔も持たない匿名空間だけが、今の私にとって唯一、本当の息ができる「外の世界」だった。

翌日の学校は、ひどく退屈で、そして耳障りなほどに騒がしかった。
特進クラスの教室では、休み時間になるたびに、進学実績や模試の判定といった、数字だけの会話が飛び交っている。そんな中、廊下の片隅から、数人の女子生徒が「ねえ、これ見た?」とスマートフォンの画面を覗き込みながら、ひそひそと話しているのが聞こえてきた。最近、ネット上で「既存の正解を痛烈に否定する絵」として、爆発的に注目を集めている謎のアカウントがあるらしい。

「理央、これ知ってる? 今、SNSでめちゃくちゃバズってるんだけど、すごく心に刺さるんだよね」

昼休み、私の席に歩み寄ってきた結衣が、自身のスマートフォンの画面を私の目の前に突き出しながら言った。
そこに映し出されていたイラストを見た瞬間、私の全身の血が瞬時に凍りついた。それは、私が昨日、Kの鍵の絵に影響を受けて、深夜の衝動のままに描き殴って投稿した、あの「内側から破壊される鍵」の絵そのものだった。光の速さで拡散され、何万もの「いいね」と、現実社会への息苦しさを吐露する無数のコメントが、私の描いた黒い線の周りに群がっている。

心臓が、鼓動の形を変えるほど激しく跳ねる。手のひらにじっとりと冷や汗がにじむ。自分の裏の顔が、この神聖な特進クラスの教室に、白日の下に晒されている。
けれど、結衣は目の前にいる私がその作者だとは夢にも思っていない。ただ、画面の中の絵を、吸い込まれそうなほどに切実な目で見つめている。

「……すごいね、これ。迫力がある」

私は引きつりそうになる表情を必死に抑え込み、努めて冷静な、他人の振りを装った声を絞り出した。
結衣は私の顔を見ようともせず、ただ画面のスクロールの手を止め、眩しい光を見つめるように呟いた。

「私たちが普段、誰にも言えずに胸の中で悩んでること、全部この人には知られてるみたいじゃない? まるで、どこかの誰かが、私たちの代わりに声を上げて泣いてくれてるみたい」

結衣のその言葉を聞いた瞬間、私は喉の奥が詰まり、何も言い返すことができなくなった。
誰かの代わりに、泣くこと。
誰かの代わりに、偽物の正解を演じること。
今の私たち高校生は、そうやって誰かが作った人生の台本を忠実になぞることでしか、自分の居場所を見つけられない、哀れな操り人形なのだろうか。結衣の言葉は、作者である私自身の胸にも、鋭いトゲとなって深く突き刺さった。

私はたまらなくなって、結衣のスマートフォンから視線を外し、教室の窓の外を大きく見上げた。
雲一つない夏の終わりの空は、どこまでも青く、どこまでも残酷なほどに広く広がっている。
もし、あの鳥籠のような窓枠を飛び越えて、あのどこまでも続く空を本当に飛べるとしたら。
私は、一体誰の用意した「正解」に向かって、羽ばたけばいいのだろう。

(……いや、違う。それは違う)

私は心の中で、激しく首を振った。
私は、誰かが用意した都合の良い正解に向かって飛ぶのではない。そんなことをすれば、また別の籠に閉じ込められるだけだ。
私という存在そのものが、この退屈な灰色の世界を塗り替える、新しい空の色になるんだ。

そのとき、制服のポケットの中で、スマートフォンが微かに、けれど確実に振動した。
液晶を開くと、それはKからのダイレクトメッセージだった。

「理央さん、見つけたよ。理央さんの描いた叫びが、今、この世界のどこかで、確実に誰かの救いになっている瞬間を。僕たちは、もう一人じゃない」

その青い文字のメッセージを目にした瞬間、私は自分の足元が、現実の床から少しだけ浮き上がったような、奇妙な全能感を覚えた。
周囲の生徒たちの声が、遠い雑音のように遠ざかっていく。

これは、始まりだ。
大人が敷いたレールを外れ、誰も見たことのない正解の、そのさらに先へと行くための。
破滅の足音がすぐそこまで迫っていることも知らずに、私はその歪な光に向かって、深く、深く足を踏み出していった。