『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

玄関の重いドアを開けて滑り込んだ自室は、まるで外のうだるような熱気や学校の喧騒から完全に切り離された、異次元の空間のように静まり返っていた。靴を脱ぎ、廊下を歩く自分の足音さえもが、不自然なほど明瞭に響く。リビングの奥からは、聞き慣れたニュース番組のアナウンサーの、抑揚のない均質な声と、陶器の食器がカチャカチャと重なり合う微かな音が漏れ聞こえてくる。父は今日も、定時をほんの数分過ぎただけの寸分違わぬ時間に帰宅し、母はそれに合わせて当たり前のように完璧な食卓を整えている。その日常の営みには一寸の狂いもなく、まるで緻密に計算され、最適化されたプログラムのように、私の家庭は恐ろしいほどの安定を保ち続けていた。

自室に入り、ゆっくりとドアを閉めて鍵をかける。カチャリ、という小さな金属音が静寂に落ちた。その一瞬の響きこそが、大人の都合や世間の目という「外の世界」から、私という不完全な存在を隔離するための、密やかな、 wilderness(荒野)へ赴くような絶対的な儀式だった。私はカバンを床に置き、吸い寄せられるようにスマートフォンを取り出して画面をタップした。

液晶の放つ冷たいブルーライトが、薄暗い部屋の中で私の顔を青白く照らし出す。数分前に作成したばかりの、まだ誰とも繋がっていない、フォロワーもゼロの孤独な匿名アカウント。そのプロフィールのアイコンには、先ほど教室で眺めていた、あの鉛筆で描き殴った「飛べない鳥」の習作をスマートフォンのカメラで取り込み、モノクロに加工したものを設定した。

ユーザー名は『Bird_in_the_cage(籠の中の鳥)』。
我ながらあまりにも手垢のついた、ありふれたネーミングの痛々しさに、暗い画面に映る自分の顔に向かって、少しだけ自嘲気味な笑みが漏れた。けれど、今の私をこれ以上に正確に表す言葉を、私は他に知らなかった。

画面の「投稿」ボタンに向かって、親指を近づける。そこには、数日前の深夜、胸の中をかき乱す衝動に耐えかねてスマートフォンのペイントアプリで一気に描き上げたデジタルイラストがセットされていた。私の絵には、美大を本気で目指すような人間が持つ、洗練された煌びやかな技術なんて何一つない。ただ、心の奥底に沈殿している澱のような、言葉にできない感情を、黒と灰色の暴力的なコントラストだけに託したものだ。誰かに見せて褒めてもらうための絵ではない。ただ、私が今ここで息をして、もがいているという事実を証明するための、いわば言葉にならない「叫び」そのものだった。

送信ボタンを押すとき、指先が微かに震えた。スマートフォンの画面が、私の体温を吸い上げていく。もし、この広大なネットの海に投じた一石が、誰の手にも触れず、何の反応もなく消え去ってしまったら――それはそれでいい、私の予測可能な孤独は私だけのものだと諦めがつくだろう。しかし、もし、万が一にでも、どこかの誰かがこの絵の奥にある本当の息苦しさを理解してしまったら……そのときは、もう二度と、元の安全なレールには引き返せないような、底知れない予感に背筋が寒くなった。それでも、私は乾いた指先で画面を強く叩いた。

投稿を終えた瞬間、どっと押し寄せてきた疲労感に耐えかねて、私は制服のままでベッドへと倒れ込んだ。天井の規則正しい木目をじっと見つめながら、肺の形が変わるほど深く、長い呼吸を繰り返す。外の夏の空気とは違う、自分の部屋特有の、埃とわずかなインクの匂いが混ざった淀んだ空気が、ゆっくりと肺を満たしていく。

壁を隔てた父の書斎からは、微かに、けれど規則正しくカタカタとキーボードを叩くタイピングの音が聞こえていた。父は地元の市役所の職員として、何十年もの間、一歩一歩確実に堅実なキャリアを積み重ねてきた人間だ。彼にとっての『正解』とは、波風の立たない安定した雇用と、予測可能な範囲内で進んでいく何事もない平穏な生活、それだけだった。そして私にも、当然のようにその『正解』の縮小コピーを求めている。

「理央、夕飯の準備ができたわよ」

扉越しに聞こえてきた母の穏やかな声が、私の思考を現実へと引き戻した。私は体にまとわりつくような重さを振り払い、反射的に「今行く」と大声で応えた。
ベッドから起き上がり、ドアの横にある全身鏡の前に立つ。そこに映っていたのは、しわの寄った制服を着て、進路希望調査票を前にして困り顔を作っている、いつもの「聞き分けの良い優等生」の自分だった。私は自分の両頬をパチンと叩き、仮面をかぶり直すように表情を完璧に整えた。胸の奥で燻る黒い炎を完全に隠し、部屋の扉を開ける。

明るい蛍光灯に照らされた食卓には、一寸の狂いもない、いつもの見慣れた献立が並んでいた。綺麗に焼き目のついた焼き魚、冷んやりとした冷奴、湯気を立てるワカメの味噌汁。過不足のない、計算された栄養バランスの取れた料理。父は夕刊の新聞に目を落としたまま、無言で規則正しく箸を動かしている。その横顔には、市役所の書類を処理している時と同じような、徹底した効率性と静けさがあった。

「来週の三者面談の件だが、学校の阿部先生から連絡があったぞ」

父が新聞から一切顔を上げずに、低く通る声でそう言った。その言葉の響きは、まるで季節の移り変わりを淡々と告げる天気予報のように、事務的で、そして一切の反論を許さない絶対的な響きを持っていた。

「志望校についてだが、そろそろ一つに絞り込まないと秋の模試に響くぞ。お前の成績なら、地元の国立大の教育学部で確実にA判定が出ているはずだ。ぶれる必要はない」

「……うん、分かってる。ちゃんと考えてるよ」

私は喉の奥にへばりつくような塊をどうにか飲み込み、精一杯の平穏を装った言葉を絞り出した。
考えている。確かに、私は寝る間も惜しんで考えている。でも、それは父がレールを敷いた教育学部への道なんかじゃない。美大へ進むための、あの過酷な実技試験の内容や、夏期講習の莫大な学費のこと、それから、それをこの場で切り出した瞬間に、母の顔から血の気が引き、絶望に近い表情へと変わるであろうその瞬間の恐怖についてだ。

「理央は昔から手堅くて、真面目な良い子だから安心ね。地元の国立なら、家から通えるし経済的にも本当に安心だわ」

母が、心底嬉しそうに穏やかな声で相槌を打つ。その悪意のない、純粋な「安心」という言葉が、まるで目に見えない真綿のように私の首をきつく、きつく締め上げていく。呼吸が浅くなるのをごまかすように、私は手元の冷奴に醤油をたらした。黒い液体が、白い豆腐の表面にじわりと染み込んでいくのを無言で見つめながら、私はただ機械的に頷いた。

もし、今ここで箸を置き、「私は美大に行きたい。絵を描いて生きていきたい」と言い出したら、この温かく穏やかな食卓の空気は、一体どんな風に激変するだろうか。母は裏切られたショックで泣き崩れるだろうか。父は新聞を叩きつけ、「そんな夢みたいなことで、将来どうやって食っていくんだ」と、冷徹な論理で私を完膚なきまでに見捨て、追い詰めるだろうか。それを想像するだけで、胃の奥がキュッと痛んだ。

17歳。世界が無限に広がり始めるはずのこの瑞々しい時期に、なぜ私たちは、大人の望む安心のために、自分の世界をここまで狭く、窮屈に折りたたまなければならないのだろう。

夕食を終え、食器の後片付けを手伝うと、私は逃げるようにして自分の部屋へと戻り、再び鍵をかけた。
急いで机の上のスマートフォンを手に取ると、暗転していた画面が静かに光を放ち、一つの通知を表示した。
あのアカウントだ。作成して一時間も経っていない、あの孤独な匿名アカウントの画面に、たった一つの、けれど鮮烈なコメントがついているのが見えた。

『この絵、すごく苦しそう。でも、私にはその叫びが少し羨ましいよ』

その文字を目にした瞬間、胸の奥の、ずっと塞がれていた暗い場所が、熱く激しく疼いた。
見ず知らずの、どこの誰かもわからない他人。名前も、性別も、どこに住んでいるのかも知らない。もしかしたら、私と同じようにどこかの部屋で息を潜めている同世代の誰かかもしれない。その顔も見えない他人が、私が誰にも言えずにキャンバスにぶちまけた、あの醜い叫びに、真っ直ぐに触れてくれたのだ。

私はベッドの上に座り込み、真っ黒に汚れたような震える指先で、画面のキーボードを叩き始めた。
これは、目の前にある大人の正解を鮮やかに塗り替えるための、偉大な第一歩なんかじゃない。ただ、この窒息しそうな灰色の日常に、小さな、本当に小さな風穴を開けるための、身の程知らずな反逆の始まりに過ぎなかった。

画面の向こうの、名前も知らない誰かが、私の言葉を待っている。現実の私がどれだけ透明で、無力で、どこにも行けない存在だとしても、この液晶画面の向こうにある匿名のアカウントの中でだけは、私は何色にでもなれるし、どこへだって飛んでいけるのかもしれない。

暗い自室の中で、スマートフォンの光だけが、私の瞳を怪しく、青く輝かせていた。

……私は、そう信じたかったのだ。
それが、私という人間を根底から狂わせ、引き返せない破滅へと導く、美しくも恐ろしい蜘蛛の糸の入り口だとも気づかずに。