『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

二月。東京の入試会場の窓外では、乾いた冬の木枯らしが吹き荒れていた。
暖房が効いているはずの巨大な試験教室は、全国から集まった数百人の受験生たちが放つ圧倒的なプレッシャーのせいで、指先が凍りつくほどに冷え切って感じられる。

センターの机の上に置かれた最終課題のモチーフは、驚くほどシンプルで、だからこそ残酷だった。
――『鏡に映る、あなたの現在(いま)』。

試験開始の合図とともに、一斉にキャンバスを殴るような音が教室中に響き渡る。
私は、イーゼルの前に座り、目の前の四角い鏡を見つめた。
そこには、半年前のあの夏、予備校の画室で怯えていた優等生の面影はもうなかった。睡眠時間を削って学科と実技を詰め込み、目の下に濃い隈を作った、狂気的な受験生の顔が映っている。

『綺麗に描く必要なんて、どこにもない』

私は、ためらうことなく太い平筆を掴んだ。
パレットの上で、私を何度も救い、何度も絶望させたウルトラマリンとバーントアンバーを混ぜ合わせる。出来上がった深い群青色を、キャンバスの真ん中に一気に叩きつけた。

数列離れた場所には、結衣の後姿があった。
彼女の背中は、まるで一本の研ぎ澄まされたナイフのように張り詰めている。彼女もまた、自分の鏡に向かって、誰よりも激しく色彩をぶつけていた。

私たちは、もうお互いを見る必要すらなかった。
キャンバスに向き合っているこの瞬間こそが、私たちの命のすべてであり、互いに捧げる唯一の敬意だと知っていたからだ。

六時間の試験時間が終わったとき、私の右手は、絵の具と溶剤の匂いで完全に麻痺していた。けれど、描き上げたキャンバスを見つめる私の胸には、一切の悔いはなかった。そこには、檻を破り、泥水をすすりながらも、自分の足で立ち上がった「宮下理央」という人間の生々しい魂が、濁った群青の向こう側から私を睨み返していた。

三月。奇跡は、物語のように二人同時には訪れなかった。

東京の超難関美大の合格発表。
スマートフォンの画面に映し出された、無機質な番号の羅列。そこに、私の受験番号はなかった。

「……そっか」

自室のベッドの上で、私はぽつりと呟いた。
不思議と、涙は出なかった。ただ、胸の奥に大きな穴が空いたような、圧倒的な虚脱感だけが残った。特進クラスのレールを降り、親と戦い、すべてを賭けて挑んだ結民が、この「不合格」という四文字だった。

その時、机の上のスマートフォンが激しく震えた。画面には「結衣」の二文字。
通話をスワイプし、耳に当てる。

「……理央?」

受話器の向こうから聞こえる結衣の声は、微かに震えていた。

「結衣、おめでとう。受かったんでしょ?」

私が先に向こうの結末を口にすると、一瞬の沈黙の後、「うん……」と、小さなすすり泣きが聞こえてきた。

「受かった。私の番号、あったよ。……でも、理央がいないなら、私――」

「馬鹿なこと言わないでよ」

私は少し強い声で、彼女の言葉を遮った。

「結衣が誰よりも努力して、あの狂気みたいな絵を描き続けたから掴み取った合格でしょう。胸を張って東京に行きなよ。私は……私の選択を、一ミリも後悔してないから」

受話器を握る私の右手には、いくら洗っても落ちない木炭と油絵の具の黒いシミが、爪の先まで深く刻み込まれていた。
私は、自分の人生で正しく失敗したのだ。誰かの作った正解に逃げることなく、自分の意志で戦い、そして美しく敗北した。これこそが、私が求めていた「本物の生き方」だった。

四月。桜の木々が淡いピンク色の花びらを散らす駅のホーム。
東京行きの新幹線を待つ結衣の手には、特進クラスの卒業生らしい、新生活への希望に満ちた荷物が握られていた。

「本当に、行っちゃうんだね」

私が声をかけると、結衣は振り返った。彼女の瞳には、もうかつての孤独な影はなく、未来を見据える一人の画家の強い光が宿っていた。

「うん。東京で、もっとたくさんの化け物たちと戦ってくる。……でもね、理央」

結衣は私の前に一歩歩み寄ると、私の真っ黒な右手を、彼女の同じように汚れた右手でギュッと握りしめた。

「私の最高のライバルは、いつまでたっても宮下理央だけだから。早く私を追いかけてきて。油断してたら、すぐに置いていっちゃうからね」

「当たり前じゃん。すぐに行くよ。一年のビハインドなんて、私の群青で一瞬で塗り替えてあげる」

新幹線の入線を告げるアナウンスが響く。
結衣は笑顔で背を向け、新しい世界へと旅立っていった。

結衣を見送ったその足で、私は再び、あの駅前の予備校のビルへと向かった。
第一画室のドアを開けると、そこには相変わらず、テレピン油の鼻を突く匂いと、新年度を迎えた新しい受験生たちの熱気が満ちていた。

「おう、宮下。荷物を置いたらさっさとイーゼルを立てろ。一浪目のスタートだ、もたもたするな!」

講師室から顔を出した佐伯先生が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて怒声を飛ばす。

「はい!」

私は大声で返事をし、新しい F15号の真っ白なキャンバスをイーゼルに固定した。
また、あの地獄のような、けれど愛おしい日々が始まるのだ。

『見ててね、結衣』

私はパレットナイフを握り締め、純度の高いウルトラマリンの絵の具を絞り出した。
私たちの青い熱の季節は、終わらない。この真っ白な画面の向こう側に、私だけの本物の色彩を何度でも叩きつけながら、私は私の道を、どこまでも突き進んでいく。