教室の窓ガラスにべったりと張り付いた、重たい湿り気を帯びた夏の空気が、放課後の誰もいない教室の静寂をよりいっそう強調していた。
微かにうなるエアコンの送風音だけが、冷気の抜けた空間に規則正しく響いている。進学実績を至上命題とするこの特進クラスにおいて、放課後は自習のための神聖な時間であるはずだった。それなのに、今の私にはこの四角い部屋が、息の詰まるような無菌室のように思えてならない。
黒板の隅に、担任の阿部先生の几帳面な筆跡で書かれた「進路希望調査票」という四文字。それが、傾きかけた西日に照らされ、まるで私という人間の価値を値踏みする審判の判決文のように見えた。白く四角いあの紙きれに、大人が望む文字を書き入れるだけで、私の未来は綺麗に、安全に舗装される。そのシステムそのものが、私の喉元に冷たい刃を突きつけているようだった。
「理央、またそれ眺めてるの?」
不意に鼓膜を揺らした声に、私はビクリと肩を震わせた。
振り返ると、親友の結衣が、いつもの少し冷めた、呆れたような顔で立っていた。彼女の手元には、すでに角が微かに折れ曲がった真っ白な進路希望調査票が、無造作に握りしめられている。特進クラスの誰もが、偏差値という名の階段を一段でも高く登ろうと必死になっている中で、結衣だけはいつも、どこか別の退屈な世界を眺めているような冷ややかさを持っていた。
「別に、眺めてるわけじゃないよ」
私は声を上擦らせないように注意しながら、強がって机の上で広げていたスケッチブックをパタンと閉じた。
その表紙の裏には、誰にも、それこそ目の前にいる結衣にすら見せていない、デッサン用の濃い鉛筆で描き殴った未完成の鳥の絵が隠されている。何層にも重ねられた黒鉛の線は、何度も指の腹で擦られ、鈍い金属のような光沢を放っていた。鋭い爪を持ちながらも、その羽は折れ、今にも崩れ落ちそうなほどに歪な鳥。それが、私の内側をそのまま具現化したものであることを、私は本能的に隠したかった。
「理央はさ、お父さんに言われてる通り、地元の国立大の教育学部に決めたの? それとも、まだ……」
結衣が言葉を濁し、私の机の端に視線を落とす。
彼女は知っているのだ。私が、家族が完全に寝静まった深夜の自室で、ドアの隙間にバスタオルを詰め込み、ひっそりと油絵の具の匂いに包まれながら、親の期待とは全く別の未来を夢見ていることを。
夜中にクローゼットの奥から引っ張り出すパレット、テレピン油の、鼻を刺すような独特の刺激臭。学校で見せる「聞き分けの良い優等生の宮下理央」の皮を剥ぎ取った後に現れる、あのドロドロとした色彩の世界。親にバレれば、その瞬間に私のすべての自由は取り上げられるだろう。そんな薄氷を踏むような恐怖と背中合わせの恍惚を、結衣だけは微かに察していた。
『ねえ、私たちが選んでいるこの道は、本当に「正解」なの?』
心の中で、答えの出ない問いを何度も繰り返してみるけれど、その声は空調の規則正しい機械音にかき消されていく。
開け放たれた窓の向こうからは、グラウンドで活動する運動部の、泥臭くも迷いのない掛け声が地響きのように聞こえていた。彼らは彼らで、勝利という名の分かりやすい正解に向かって、全身の汗を光らせて走っている。廊下をカツカツと歩いていく教師たちの足音も聞こえる。彼らは、生徒を正しい大学へと導く「教師」という正解の役を見事に演じきっている。
世界は、無数の正解で満ちていた。誰もがそのルールに従って、疑いもせずに歩みを進めている。
「ねえ、結衣。もし、全員が同じルートで幸せになれるなら、どうして私たちはこんなに息苦しいんだろうね」
乾いた唇から漏れ出た私の言葉に、結衣は少しだけ驚いたように目を見開き、それから、いつもの冷徹な仮面の奥に隠された、寂しそうな笑みを浮かべた。
「みんなが正解だと思っている場所にたどり着けば、少なくとも周りから『失敗した』とは言われないからだよ。親も、先生も、世間の人たちも、レールの上にいる私たちを見ていれば、それが一番安心なんだと思う。たとえそのレールの上で、私たちが息をしていないとしてもね」
その言葉は、まるで研ぎ澄まされた冷たいナイフのように私の心の一番柔らかい部分に突き刺さった。
安心。それは、私がこれまで親に逆らわずに生きてくる中で、一番欲しくて、そして今、一番手放したいと激しく求めているものだった。他人の用意した安心の中に閉じ込められている限り、私は自分の色を一生失ったまま、灰色の大人になっていくのだろう。
私は胸の痛みに耐えかねるように、再びスケッチブックの表紙に手をかけ、そっとページをめくった。
夕闇が迫る教室の光の中で、地面を這う鳥の黒い線が、よりいっそう深く、生々しく浮き上がってくる。あの日、何度も木炭紙を削るようにして引いた線。私はこの鳥に、自らの無力さと、それでもどこかへ行きたいという狂おしいほどの渇望を重ねていた。
「私はね、飛ばずに安全な籠の中で飼われる鳥よりも、空を飛んで、そのまま地面に墜落する方がマシだと思ってる」
小さく呟いた言葉は、輪郭を持たない独り言として、放課後の重たい教室の空気に溶けていった。結衣は何も言わなかった。ただ、私の指先が、スケッチブックの黒鉛で薄黒く汚れているのを、じっと見つめていた。
窓の外は、いつの間にか燃えるような茜色から、夜の帳が下りる前の不穏な紫へと染まり始めていた。
私は無意識のうちに席を立ち、黒板の前へと歩み寄っていた。チョークの受け皿に溜まった、白い粉。それを人差し指の腹でそっとなぞると、指先が冷たく、真っ白に汚れた。この粉で、黒板の「進路希望調査票」の文字を、今すぐ全て消し去ってしまえたなら、どれほど楽だろうか。
17歳。
何もかもが、まだ何物でもない時期。
この閉鎖された空間の中で、私たちは大人の正解を押し付けられ、自分だけの本当の答えを心の奥底に隠しながら、息を潜めて生きている。
私は静かに振り返り、鞄の中に乱暴にスケッチブックを詰め込んだ。ジッパーの閉まる鋭い音が、静まり返った教室に響く。
明日、またこの制服を着て、この席に戻ってくるときには、私はどんな嘘の顔をして、大人の望む「将来の夢」を語ればいいのだろう。胸の奥のモヤモヤとした熱が、出口を求めて激しくのたうち回っている。
『……そうだ。現実の私が何も言えないのなら、匿名の世界なら、誰にもバレずに「本当の私」をさらけ出せるかもしれない』
ふと、頭の片隅に閃いたその衝動は、一度芽生えると、瞬く間に私の全身の血を沸き立たせた。
誰かの決めた正解ではなく、誰からも評価されない、純粋な私の色。それを、ネットの海という名の広大なキャンバスに、誰の目も気にせずにぶちまけてみたい。
それが、私の退屈で平穏だった日常が大きく軋み始め、やがてあの真夏の激しい群青の物語へと繋がっていく、ほんの些細な、けれど決定的なきっかけだった。
微かにうなるエアコンの送風音だけが、冷気の抜けた空間に規則正しく響いている。進学実績を至上命題とするこの特進クラスにおいて、放課後は自習のための神聖な時間であるはずだった。それなのに、今の私にはこの四角い部屋が、息の詰まるような無菌室のように思えてならない。
黒板の隅に、担任の阿部先生の几帳面な筆跡で書かれた「進路希望調査票」という四文字。それが、傾きかけた西日に照らされ、まるで私という人間の価値を値踏みする審判の判決文のように見えた。白く四角いあの紙きれに、大人が望む文字を書き入れるだけで、私の未来は綺麗に、安全に舗装される。そのシステムそのものが、私の喉元に冷たい刃を突きつけているようだった。
「理央、またそれ眺めてるの?」
不意に鼓膜を揺らした声に、私はビクリと肩を震わせた。
振り返ると、親友の結衣が、いつもの少し冷めた、呆れたような顔で立っていた。彼女の手元には、すでに角が微かに折れ曲がった真っ白な進路希望調査票が、無造作に握りしめられている。特進クラスの誰もが、偏差値という名の階段を一段でも高く登ろうと必死になっている中で、結衣だけはいつも、どこか別の退屈な世界を眺めているような冷ややかさを持っていた。
「別に、眺めてるわけじゃないよ」
私は声を上擦らせないように注意しながら、強がって机の上で広げていたスケッチブックをパタンと閉じた。
その表紙の裏には、誰にも、それこそ目の前にいる結衣にすら見せていない、デッサン用の濃い鉛筆で描き殴った未完成の鳥の絵が隠されている。何層にも重ねられた黒鉛の線は、何度も指の腹で擦られ、鈍い金属のような光沢を放っていた。鋭い爪を持ちながらも、その羽は折れ、今にも崩れ落ちそうなほどに歪な鳥。それが、私の内側をそのまま具現化したものであることを、私は本能的に隠したかった。
「理央はさ、お父さんに言われてる通り、地元の国立大の教育学部に決めたの? それとも、まだ……」
結衣が言葉を濁し、私の机の端に視線を落とす。
彼女は知っているのだ。私が、家族が完全に寝静まった深夜の自室で、ドアの隙間にバスタオルを詰め込み、ひっそりと油絵の具の匂いに包まれながら、親の期待とは全く別の未来を夢見ていることを。
夜中にクローゼットの奥から引っ張り出すパレット、テレピン油の、鼻を刺すような独特の刺激臭。学校で見せる「聞き分けの良い優等生の宮下理央」の皮を剥ぎ取った後に現れる、あのドロドロとした色彩の世界。親にバレれば、その瞬間に私のすべての自由は取り上げられるだろう。そんな薄氷を踏むような恐怖と背中合わせの恍惚を、結衣だけは微かに察していた。
『ねえ、私たちが選んでいるこの道は、本当に「正解」なの?』
心の中で、答えの出ない問いを何度も繰り返してみるけれど、その声は空調の規則正しい機械音にかき消されていく。
開け放たれた窓の向こうからは、グラウンドで活動する運動部の、泥臭くも迷いのない掛け声が地響きのように聞こえていた。彼らは彼らで、勝利という名の分かりやすい正解に向かって、全身の汗を光らせて走っている。廊下をカツカツと歩いていく教師たちの足音も聞こえる。彼らは、生徒を正しい大学へと導く「教師」という正解の役を見事に演じきっている。
世界は、無数の正解で満ちていた。誰もがそのルールに従って、疑いもせずに歩みを進めている。
「ねえ、結衣。もし、全員が同じルートで幸せになれるなら、どうして私たちはこんなに息苦しいんだろうね」
乾いた唇から漏れ出た私の言葉に、結衣は少しだけ驚いたように目を見開き、それから、いつもの冷徹な仮面の奥に隠された、寂しそうな笑みを浮かべた。
「みんなが正解だと思っている場所にたどり着けば、少なくとも周りから『失敗した』とは言われないからだよ。親も、先生も、世間の人たちも、レールの上にいる私たちを見ていれば、それが一番安心なんだと思う。たとえそのレールの上で、私たちが息をしていないとしてもね」
その言葉は、まるで研ぎ澄まされた冷たいナイフのように私の心の一番柔らかい部分に突き刺さった。
安心。それは、私がこれまで親に逆らわずに生きてくる中で、一番欲しくて、そして今、一番手放したいと激しく求めているものだった。他人の用意した安心の中に閉じ込められている限り、私は自分の色を一生失ったまま、灰色の大人になっていくのだろう。
私は胸の痛みに耐えかねるように、再びスケッチブックの表紙に手をかけ、そっとページをめくった。
夕闇が迫る教室の光の中で、地面を這う鳥の黒い線が、よりいっそう深く、生々しく浮き上がってくる。あの日、何度も木炭紙を削るようにして引いた線。私はこの鳥に、自らの無力さと、それでもどこかへ行きたいという狂おしいほどの渇望を重ねていた。
「私はね、飛ばずに安全な籠の中で飼われる鳥よりも、空を飛んで、そのまま地面に墜落する方がマシだと思ってる」
小さく呟いた言葉は、輪郭を持たない独り言として、放課後の重たい教室の空気に溶けていった。結衣は何も言わなかった。ただ、私の指先が、スケッチブックの黒鉛で薄黒く汚れているのを、じっと見つめていた。
窓の外は、いつの間にか燃えるような茜色から、夜の帳が下りる前の不穏な紫へと染まり始めていた。
私は無意識のうちに席を立ち、黒板の前へと歩み寄っていた。チョークの受け皿に溜まった、白い粉。それを人差し指の腹でそっとなぞると、指先が冷たく、真っ白に汚れた。この粉で、黒板の「進路希望調査票」の文字を、今すぐ全て消し去ってしまえたなら、どれほど楽だろうか。
17歳。
何もかもが、まだ何物でもない時期。
この閉鎖された空間の中で、私たちは大人の正解を押し付けられ、自分だけの本当の答えを心の奥底に隠しながら、息を潜めて生きている。
私は静かに振り返り、鞄の中に乱暴にスケッチブックを詰め込んだ。ジッパーの閉まる鋭い音が、静まり返った教室に響く。
明日、またこの制服を着て、この席に戻ってくるときには、私はどんな嘘の顔をして、大人の望む「将来の夢」を語ればいいのだろう。胸の奥のモヤモヤとした熱が、出口を求めて激しくのたうち回っている。
『……そうだ。現実の私が何も言えないのなら、匿名の世界なら、誰にもバレずに「本当の私」をさらけ出せるかもしれない』
ふと、頭の片隅に閃いたその衝動は、一度芽生えると、瞬く間に私の全身の血を沸き立たせた。
誰かの決めた正解ではなく、誰からも評価されない、純粋な私の色。それを、ネットの海という名の広大なキャンバスに、誰の目も気にせずにぶちまけてみたい。
それが、私の退屈で平穏だった日常が大きく軋み始め、やがてあの真夏の激しい群青の物語へと繋がっていく、ほんの些細な、けれど決定的なきっかけだった。



