『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

夏期講習四日目、課題最終日の午後。
画室の空気は、もはや呼吸をするだけでも肺が重くなるほどの熱気と、焦燥感で完全に飽和していた。
キャンバスに絵の具を塗り重ねる「ペタペタ」という重い音、ナイフで画面を削る「ガリガリ」という鋭い音。12時間という制限時間の終わりが刻一刻と迫る中、誰もが口をきく余裕すらなく、ただ目の前の画面に自らのすべてをぶつけていた。

私のキャンバスの上では、昨日ナイフで激しく削り取った白の地肌が、濁った群青の闇の中でギラギラと不穏な光を放っていた。
折れた向日葵の黄色は、周囲の闇に侵食され、茶褐色や深い緑を巻き込みながらも、なお画面の中心で爆発したような存在感を主張している。

(まだ足りない。もっと奥へ、もっと深く)

私は筆を置き、自分の右手のひらに直接ウルトラマリンの絵の具を絞り出した。
筆やナイフという道具を介することすらもどかしかった。私は絵の具のついた掌を、キャンバスの右半分に直接押し当て、力任せに横へと擦りつけた。
キャンバスのざらついた布目が、私の皮膚を容赦なく削る。けれど、その摩擦熱が、画面の中に本物の「生きた人間の体温」を注ぎ込んでいくような感覚があった。

「残り、あと十分! 最後の仕上げにかかれ!」

助手の大学生の声が、容赦なく画室に響き渡る。
私は息を荒くしながら、一歩後ろに下がって画面全体を見渡した。

そこにあるのは、かつて学校の美術室で褒められていたような、端正な絵ではなかった。
どこまでも不格好で、暴力的で、けれど見る者の胸を締め付けるような、圧倒的な「青い飢餓感」に満ちた一枚。それが、私の描き出した『存在の不協和音』だった。

「そこまで! 全員筆を置いて、作品を正面の白壁の前に並べろ」

佐伯先生の鋭い声で、12時間の戦争が幕を閉じた。
私は脱力しそうになる膝を必死に支えながら、まだ乾いていない大作を両手で抱え、画室の正面へと運んだ。

白壁の前に、五十枚を超える F15号の油彩画がズラリと並べられた。
それは、圧巻の一言だった。
何年も予備校に通っている浪人生たちの絵は、やはり圧倒的だった。卓越した油彩の技術、緻密に計算された構図、そして何より、一枚の絵として完全に「成立」している安定感があった。

佐伯先生は、いつも通りポケットに手を突っ込んだまま、並べられた絵の前をゆっくりと往復し始めた。
彼の目が、一枚一枚の絵を冷酷に品定めしていく。その視線が動くたびに、受験生たちの間に張り詰めた沈黙が広がった。

「うーん……やっぱり上位陣は手堅いな。構図のバランスもいいし、色の響き合いも美しい。……だが、綺麗すぎるな」

佐伯先生はそう言うと、いつもの支持棒の先で、壁の真ん中あたりに置かれた一枚の絵をコツコツと叩いた。

「この絵は誰だ?」

「……私です」

結衣が、一歩前に出た。その声は震えていなかった。

結衣の絵は、画面全体がほとんど狂気的なまでのウルトラマリンのグラデーションで埋め尽くされていた。そしてその中央に、ナイフで極限まで鋭利に描き込まれた「砕けた鏡の破片」が、周囲の浪人生たちのどの絵よりも強烈な光を放って、空間を切り裂いていた。

「香川、お前は本当に性格が悪いな」
佐伯先生の口元が、わずかにニヤリと歪んだ。
「この鏡の描写の執拗さは異常だ。モチーフの向日葵なんて、もう原形を留めていない。だが、この画面から漂う『他者を拒絶するような冷徹な美しさ』は、他の誰にも真似できない。技術的な拙さは多々あるが、この絵には、お前という人間の剥き出しの業(ごう)が生きている。現役生としては破格の出来だ。文句なしの A判定をやる」

画室の中に、ざわめきが広がった。
浪人生たちが、驚愕の目で結衣とその画面を見つめる。結衣はただ静かに顎を引き、自分の勝ちを噛み締めるように拳を握りしめていた。

そして、佐伯先生の支持棒は、結衣のすぐ隣に置かれた私の絵へと移動した。

先生の動きが止まる。
私の心臓が、耳の奥で爆音を立てて脈打ち始めた。

「……宮下」

「はい」

「お前、初日に俺が言ったことを根に持ってたな?」

先生の言葉に、私は思わず目を見開いた。

「形は崩壊寸前、絵の具の扱いも泥臭くて洗練の『せ』の字もない。手のひらで直接絵の具を擦りつけたな? 油画科の試験じゃなきゃ、ただの暴挙だ」
佐伯先生は私の画面に顔を近づけ、その厚い絵の具の層を食い入るように見つめた。
「……だが、この削り取られた白の線の鋭さと、ドロドロとした群青の対比が、凄まじい緊迫感を生んでいる。お前の中の『綺麗であり続けなければならない』という呪いを、この向日葵と一緒にへし折って、キャンバスに叩きつけたような執念を感じるよ。お前が過去に描いていたあの『鳥籠の絵』を知っている身としては、この変貌ぶりは鳥肌が立つ」

佐伯先生は支持棒を引くと、私を真っ直ぐに見据えた。

「技術はこれからいくらでも教える。だが、この『画面を支配する狂気』だけは、教えられて身につくものじゃない。宮下、お前の絵も A判定だ。お前たちは二人揃って、この予備校の夏の秩序を完全にブチ壊したよ」

その瞬間、私の視界が、一瞬だけ激しく揺れた。
隣を見ると、結衣が驚いたように私を見ていた。彼女の瞳には、私に対する明確な「焦り」と、そしてそれ以上の「歓喜」が混ざり合っていた。

講評会が終わり、すべての片付けを終えて予備校を出たのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
駅前の歩道橋の上に立つと、真夏の夜風が、私たちの火照った身体を優しく撫でて通り過ぎていった。

「……負けちゃったな」

結衣が、歩道橋の手すりに寄りかかりながら、ポツリと呟いた。

「え? 二人とも A判定だったじゃない」

「違うよ。私は、理央を完全に置き去りにしてやるつもりだったの。なのに、あんな化け物みたいな絵を描き上げるなんて反則じゃない。……私、さっき先生に講評されてるとき、本当に悔しかったんだから」

結衣はそう言うと、ふっと笑って私の方を振り返った。
その顔には、かつて学校の屋上で見せていたような寂しげな表情は微塵もなかった。彼女は今、私と同じ地平に立ち、同じ熱量で戦う、本当のライバルになっていた。

「私もだよ、結衣。君のあの鏡の絵を見たとき、心臓が止まるかと思った。……でも、だからこそ、私も自分の限界を超えられたんだと思う」

私は、自分の真っ黒に汚れた右手を街灯にかざした。
爪の間に入り込んだ群青色は、もう簡単には落ちないだろう。けれど、その黒ずみこそが、私たちが自らの意志で選んだ道の証だった。

『私たちは、もう誰も恐れない』

特進クラスの安全なレールを降りた私たちの選択を、学校の誰もが「無謀だ」と笑うかもしれない。
けれど、この真夏の群青の闇の中で、私たちは確かに、自分たちだけの本当の光を掴み取りかけていた。

遠くで、夏祭りの花火の音が地響きのように小さく聞こえる。
17歳の夏休みは、まだ折り返し地点を過ぎたばかり。私たちのキャンバスは、ここからさらに激しく、深く、独自の色彩で塗り替えられていく。