『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

八月を迎えた街は、アスファルトから立ち上る強烈な陽炎によって、すべての輪郭が歪んで見えた。
学校の特進クラスでは、冷房の完璧に効いた静寂の中で、クラスメイトたちが大学共テストの過去問にカリカリと鉛筆を走らせているはずだった。そこは、静かで、清潔で、予測可能な未来へと続く安全なレールの上だ。

一方、私と結衣が身を置く「美大進学ゼミ」の第一画室は、それとは真逆の、混沌とした地獄のような熱気に満ちていた。
開け放たれた窓から吹き込む生温かい風と、数十人の受験生たちが放つ汗の匂い。そして何より、油絵の具の溶剤であるテレピンやペトロールの、鼻を刺すような独特の悪臭が空間全体にどろりと沈殿している。

「おい、そこの油彩の準備、もたもたするな! 現役生はただでさえ時間が足りないんだからな!」

佐伯先生の怒声が響く中、私は緊張で強張る手でペインティングナイフを握り、パレットの上に絵の具を絞り出していた。
チタニウムホワイト、ウルトラマリン、バーントアンバー、カドミウムレッド。
チューブから押し出された純度の高い色彩たちが、パレットの木目の上で生々しい光沢を放っている。

夏期講習の中期に入り、私たちは木炭デッサンを終え、ついに初めての「油彩(油絵)」の課題へと突入していた。
今回のモチーフは、画室の中央に組まれた、錆びついた鉄パイプ、不自然にへし折られた向日葵(ひまわり)、そして粉々に砕けた大きな鏡の破片だった。

「課題は『存在の不協和音』だ。ただそこにあるものを写生するんじゃない。この歪な組み合わせから、お前たちが何を感じ、どんな空間を再構築するのかをキャンバスに叩きつけろ。時間は12時間。明日の夕方には、最初のコンクール(採点会)を行う」

佐伯先生の提示したテーマは、抽象的で、どこまでも不親切だった。
周りの浪人生たちは、先生の言葉が終わるか終わらないかのうちに、すでに大きな平筆に暗い色を含ませ、真っ白なキャンバスに大胆なアタリをつけ始めている。迷いのないその筆捌きは、まるでキャンバスという獲物を引き裂く獣のようだった。

『油絵の具……木炭とは全然違う』

私は、イーゼルの上に固定された F15号のキャンバスを前に、軽い眩暈を覚えていた。
木炭なら、間違えても食パンや布で擦れば、ある程度は白に戻すことができた。けれど油絵の具は違う。一度キャンバスに置いてしまった色は、完全に消し去ることはできない。上に重ねるか、ナイフで削ぎ落とすしかないのだ。その「やり直しのきかない重さ」が、私の筆を持つ手を酷く躊躇わせた。

おずおずと、テレピン油で薄めたバーントアンバー(焦げ茶色)を筆に含ませ、キャンバスの中心に鉄パイプの直線を引いてみる。
カサカサとした、頼りない線。画面の上に絵の具が乗った瞬間、それは私の脳内にあるイメージとはかけ離れた、ただの小汚い汚れのように見えてしまった。

(形を追わなきゃ。でも、色をどう重ねればいいの? 向日葵の黄色は、どこに置けば濁らない?)

頭の中で、かつて学校の美術の授業で習ったような、浅薄な知識がぐるぐると空回りする。
焦れば焦るほど、私の筆は小さくなり、キャンバスのほんの一角の、鉄パイプの影の描写ばかりにこだわってしまう。画面全体が見えていない。それは、美大受験において最も致命的な「視野の狭窄」だった。

「ザシュ、ザシュ、ザシュ」

すぐ左隣のイーゼルから、強烈な音が鼓膜を震わせた。
結衣だった。

彼女は、私の迷いなど微塵も共有していなかった。
パレットナイフで原色のウルトラマリン(深い青)を大量にすくい取ると、それをキャンバスのど真ん中に、叩きつけるようにして塗りたくっていた。向日葵の黄色などまだどこにもない。彼女の画面は、またたく間に不穏な、嵐の夜のような群青色の闇で満たされていく。

「……っ」

その圧倒的な迷いのなさに、私の胸が激しく締め付けられる。
結衣は、技術的には私と大差ないはずだった。油絵の具を触るのも、彼女だってこれが初めてに近いはずだ。それなのに、なぜ彼女はこれほどまでに迷いなく、自分の内側にある「濁り」を画面にぶちまけることができるのだろう。

気がつくと、私のキャンバスの上は、中途半端に形を追った鉄パイプと、濁った緑色に変色してしまった向日葵の残骸のようなもので、見るも無残に汚れていた。綺麗に描こうとする意識が、絵の具の層を何重にも濁らせ、画面から生命力を完全に奪い去っていた。

「宮下、お前の絵は死んでいるな」

背後から、冷ややかな声がした。佐伯先生だ。
先生は私の絵を一瞥すると、吐き捨てるように言った。

「絵の具が泣いているぞ。お前は、油絵の具という媒体をコントロールしようとしすぎている。手癖で綺麗にまとめようとするから、色がどんどん死んでいくんだ。隣の香川を見ろ。あいつは絵の具と殴り合っているぞ」

私は唇を噛み締め、結衣の画面を見た。
結衣の絵は、お世辞にも「上手い」とは言えなかった。モチーフの形は歪み、パースも狂っている。けれど、その圧倒的な群青の闇の中に、粉々に砕けた鏡の破片が、まるでナイフの刃先のように鋭利な白で描き込まれていた。それは、見る者の目を突き刺すような、強烈な「痛みの気配」を放っていた。

「油画科が求めているのは、正しい写生じゃない」
佐伯先生は、私の肩をポンと叩いた。その手は驚くほど重かった。
「お前の中にしかない群青を見せろ、宮下。お前がネットの鳥籠の中で飼い慣らしていた、あの小綺麗な色彩は、この灼熱の画室では一瞬で蒸発するぞ」

先生が去った後、私は真っ黒に汚れた自分の手を見つめた。
パレットの上で、ウルトラマリンの青が、夕方の光を浴びて妖しく輝いている。

『私の群青……』

私は、自分がかつて「Bird_in_the_cage」として描いていた絵を思い出した。あの頃の私は、画面の向こうの見知らぬ誰かを喜ばせるために、パステルカラーの、優しくて、傷つかない色ばかりを選んでいた。
でも、今の私の内側にある色は、そんなに優しいものじゃない。
進路を巡って親と衝突したときのあの息苦しさ。学校の教室で感じていた、自分が透明になっていくような恐怖。そして、隣で凄まじい速度で進化していく結衣に対する、狂おしいほどの嫉妬。

そんな綺麗事では片付けられないドロドロとした感情のすべてが、私の内側で、出口を求めて渦巻いている。

「……だったら、全部くれてやるよ」

私は太い平筆を掴み、パレットの上のウルトラマリンとバーントアンバーを、力任せにかき混ぜた。
出来上がったのは、黒に限りなく近い、深く、重い、濁った群青色。

私はその筆を、自分の描いていた中途半端な鉄パイプの絵に向かって、斜めに、力一杯に振り下ろした。
キャンバスが、イーゼルの上でガタガタと大きな音を立てて揺れる。画室の何人かが驚いたようにこちらを振り返ったけれど、もう私の目には、自分の画面しか映っていなかった。

『綺麗になんて描いてやるものか。これが、今の私の本当の色だ』

私は、キャンバスの上の「嘘」を、自分の手で激しく塗り潰し始めた。
真夏の狂気のような熱気の中で、私たちの本当の夏期講習が、終わりなき色彩の戦争となって、その速度を増していった。