『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

一度すべてを消し去り、濃淡の混ざり合った灰色の混沌となった木炭紙の前に、私は再び立ち尽くしていた。
周囲の受験生たちの木炭が紙を削る音は、容赦なく私の鼓動を急き立てる。焦りで指先が微かに震えた。けれど、鏡の中の自分と目が合った瞬間、その震えはピタリと止まった。

『もう、誰かに愛されるための宮下理央は死んだんだ』

私は木炭の太いエッジを画面に力強く押し当てた。
今度は、輪郭線を綺麗になぞるような真似はしなかった。骨のゴツゴツとした手触り、肉の厚み、そして何より、自分を縛り付けていたすべての「正しさ」に対する怒りを、そのまま叩きつけるように、大きな調子(トーン)を何度も何度も重ねていく。

木炭の粉が激しく舞い、私の鼻腔を突き、喉を詰まらせた。額から流れた汗が、頬についた黒い粉を溶かして、不格好な一筋の線を引いていく。衣服の汚れも、手の痛立たしさも、もうどうでもよかった。
指の腹を使って、紙の上に擦りつけた木炭の粒子を力任せに押し潰す。爪の隙間に黒い絵の具や炭が深く入り込み、皮膚が擦れてヒリヒリとした痛みが走る。けれど、その痛みが私に「今、生きている」という強烈な実感を授けてくれた。

チラリと横を見ると、結衣もまた、自分の中の修羅と戦っていた。
彼女のスケッチブックの余白は完全に潰れ、画面には剥き出しの牙のような鋭い斜線が何本も走っている。彼女は自分の左手を、まるで自分の喉元を締め上げる凶器のように歪に、そして圧倒的な存在感で描き出していた。
私たちは言葉を交わさない。ただ、ザッ、ザッ、という互いの筆音が、この静かな画室の中で激しく火花を散らし合う、唯一の対話だった。

そして、三日目の午後。
「そこまで。全員、手を止めて絵を床に並べろ」

佐伯先生の声で、三日間に及ぶ自画像デッサン課題が終了した。
私たちは疲れ果てた身体を引きずりながら、自分の作品をコンクリートの床へと並べた。昨日見た上位陣の絵は、さらに完成度を増し、冷徹なまでの説得力を持ってそこに鎮座していた。

その中に混ざった私の絵は、お世辞にも「綺麗」とは言えなかった。
全体的に画面は黒く濁り、何度も消しては描き直した痕跡が、紙の毛羽立ちとなって生々しく残っている。けれど、そこには確かに、初日にあった「どこかで見たような安い記号」は消え失せていた。そこにいたのは、髪を振り乱し、見苦しく、それでも自らの意志でそこに立とうとしている、紛れもない私自身の姿だった。

佐伯先生は、ポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと生徒たちの絵を巡回していく。
上位陣の絵に短い合格点を出した後、先生の支持棒が、結衣の絵の前でピタリと止まった。

「香川」

「はい」

結衣が硬い声で応じる。

「技術的には粗が目立つ。手骨のパースも狂っているし、デッサンとしての正確性には欠ける。……だが、この手の描写は面白いな。自分の手でありながら、他者の首を絞めるような、異常なまでの執着と悪意が籠もっている。綺麗にまとめようとせず、自分の歪みをそのまま武器にしようとしている姿勢は評価できる。このまま狂い続けなさい」

「……ありがとうございます」

結衣の口元が、微かに緩んだ。それは、彼女が「K」という偽りの仮面ではなく、彼女自身の名前で初めて勝ち取った、本当の評価だった。

そして、佐伯先生の視線が、私の絵へと移った。
先生は支持棒を床につき、しばらく無言で私の自画像を見つめていた。その沈黙が、私の心臓を激しく打ち鳴らす。

「宮下」

「……はい」

「初日のゴミのような嘘は、とりあえず消えたな」

先生の言葉は相変わらず辛辣だった。けれど、その声のトーンには、初日にはなかった微かな熱が混ざっていた。

「形はボロボロだし、光の方向性も整理しきれていない。画面全体が濁りすぎていて、デッサンとしては未熟の極みだ。……だが、この『目』はいい。お前が今、どれだけ足掻いて、どれだけ悔しがっているのかが、木炭の泥の中から真っ直ぐにこちらを睨みつけている。お前が優等生の殻を自ら叩き割ったことだけは、認めよう」

佐伯先生は支持棒をひょいと肩に担ぐと、私を見据えて不敵に笑った。

「ここが、お前のスタートラインだ、宮下。これからはその泥水をいくらでも吸って、もっと汚く、もっと強靭な絵を描きなさい」

胸の奥から、熱いものが一気に込み上げてきた。
涙は出なかった。ただ、自分の不格好な生き方を、世界の片隅で初めて肯定されたような、痺れるような歓喜が全身を駆け巡っていた。

講評会が終わり、夜の八時。
私たちは予備校のビルを出て、夏の生暖かい風が吹く駅前のロータリーを歩いていた。
お互いの手は、石鹸でいくら洗っても落ちない木炭の粉で、爪の先まで真っ黒に染まったままだった。

「理央」

結衣が歩きながら、自分の黒くなった掌を街灯の光にかざした。

「私たち、本当に馬鹿だよね。あんな暗い部屋で、毎日毎日、自分の顔ばっかり睨みつけて。特進クラスのあいつらが見たら、きっと笑うよ。『何のためにそんなことしてるの』って」

「うん、きっと笑われるね」

私は自分の黒い手を見つめ、それから結衣の顔を見た。

「でも、私は今のこの手が、これまでのどの瞬間よりも誇らしいよ。誰かの正解をなぞっていた時の綺麗な手より、ずっと、ずっといい」

結衣は私の言葉を聞くと、ふっと悪戯っぽく笑い、私の真っ黒な手を、自分の真っ黒な手でギュッと握りしめた。
手のひらから伝わってくる体温は、ひどく熱く、そして力強かった。

「絶対に負けないからね、理央。東京の美大に行くのは、私だよ」

「私だって、結衣に譲るつもりはないよ」

私たちは互いの手を強く握り返し、改札へと向かった。

夜空を見上げると、都会の濁った空気の向こうに、微かに青白い夏の星が輝いているのが見えた。
私たちはまだ、何の実績もない、ただの未完成な高校生だ。これから先、もっと多くの才能に打ちのめされ、自分の無力さに絶望する日が何度も来るのだろう。

けれど、私たちの指先には、もう消えない黒い色彩が刻まれている。
この青い熱の季節の真ん中で、私たちはどこまでも不格好に、自分たちの生きた証をキャンバスに刻み続けていく。遮るもののない本当の夏が、今、私たちの目の前に、どこまでも広く、鮮やかに広がっていた。