『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

第一画室のコンクリート床にズラリと直に並べられた五十枚以上の自画像は、夕方の傾いた西日を浴びて、異様な立体感を持って空間を威圧していた。
木炭の深い黒、擦りつけられた指の脂の跡、食い入るようにキャンバスを睨みつける鋭い眼光。ここにあるのは、学校の美術室で私が描いたような「静物としてのリンゴ」ではない。描いた人間の剥き出しの自意識と、何が何でも東京の美大に合格してやるという、執念の結晶そのものだった。

「よし、全員集まれ。講評を始めるぞ」

佐伯先生の低く、少しハスキーな声が画室に響くと、それまで周囲で片付けや雑談をしていた二十人ほどの講習生たちが、一斉に無言で床の絵の周りを取り囲んだ。彼らの衣服は一様に木炭の粉で薄黒く汚れ、手首や爪の間には消しゴムのカスや絵の具が染みついている。その佇まいそのものが、すでに私と結衣がこれまで過ごしてきた「特進クラス」の清潔な世界とは決定的に異なっていた。

佐伯先生は、長い支持棒の先で床の一枚の絵をコツコツと叩いた。それは、髪を乱暴に後ろで結わえ、額に青筋を立てて鏡を睨みつけている少年の自画像だった。圧倒的な骨格の理解と、肌の肉化が木炭の階調だけで表現されている。

「相変わらず、上位陣の絵には迷いがないな。この一枚は、単に形が似ているから良いんじゃない。自分の顔という、世界で最も退屈で、最も見飽きたモチーフに対して、どれだけ客観的な狂気を持てるか、その距離感が絶妙だ。光の方向性が明快で、背景の余白の処理にも緊張感がある。現時点で、東京の美大の合格ラインには十分に達している」

集まった生徒たちの間に、微かな溜息と、それに続く張り詰めた沈黙が流れる。
佐伯先生は休むことなく、支持棒を次の絵、そしてその次の絵へと移していった。評価が下がるにつれて、彼の言葉は容赦のない刃となって、受験生たちのプライドを容赦なく切り刻んでいく。

「このへんの絵は、全部『説明』に終始している。目がここにあって、鼻がここで、口がここにあるという事実を、ただ指先だけでなぞっている。形を合わせようと必死になるあまり、お前自身の皮膚の温度や、骨の硬さが全く伝わってこないんだよ。そういう小綺麗なだけの絵は、油画科の試験では一瞬でゴミ箱行きだ。綺麗に描こうとするな。お前が今、そこに生きているという不格好な事実を、もっと画面に叩きつけろ」

小綺麗なだけの絵。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥が冷たい氷を押し付けられたように凍りついた。
それはまさに、私がこれまで「Bird_in_the_cage」としてネットの海に投稿し、何千人もの見知らぬ人々に『素晴らしい』と称賛されていた絵の、本質的な弱点そのものだったからだ。私は自分の感情を、誰かに分かりやすい記号の形に加工して、綺麗にラベルを貼って提示していただけに過ぎない。
本物の芸術の戦場では、そんな手軽な綺麗事や、誰かに見せるためのポーズなんて、何の意味も持たないのだ。

「……理央」

隣に立つ結衣が、蚊の鳴くような声で私の名前を呼んだ。彼女の視線は、下位に並べられた、佐伯先生に「ゴミ箱行き」と酷評された絵に向けられていた。その絵のいくつかは、今の私たちから見れば十分に上手で、圧倒されるほどの技術を持っているように見えた。それすらも否定される世界。私たちが足を踏み入れてしまった場所の恐ろしさが、彼女の小さな肩を微かに震わせていた。

けれど、結衣の瞳は、決して絶望に曇ってはいない。むしろ、強烈な不条理に対する激しい怒りと、それを捩じ伏せてやろうという闘争心の炎が、その奥でチリチリと音を立てて燃え盛っているのを、私は隣で確かに感じていた。

「講評は以上だ。明日からは、いよいよ一週間の本格的な実技講習が始まる。課題は『自画像と手の構成デッサン』だ。新しく入った二人は、そこの道具棚から画板と木炭紙、それから木炭一式を揃えておきな。……宮下、香川。お前たちがこれまでどんな『お山の大将』だったかは知らないが、明日からはそのプライドを全部捨てて、泥水をすする覚悟で描きなさい」

佐伯先生はそう言い残すと、背を向けて講師室へと消えていった。

その日の帰り道、駅へ向かう商店街の街灯の下を、私と結衣は無言で歩いていた。
夕食時の家庭から漂うカレーや焼き魚の匂いが、私たちの現実の胃袋を刺激する。けれど、私たちの頭の中は、さっき見た無数の自画像の残像と、木炭の強烈な匂いで完全に支配されていた。

「ねえ、理央」

踏切の手前で足が止まったとき、結衣が不意に口を開いた。赤信号の光が、彼女の顔を横から赤く染めている。

「私、今、猛烈にワクワクしてる」

「え……?」

「学校のクラスにいるときはね、みんなが同じ教科書を見て、同じテストを受けて、どれだけミスをしないかっていう減点方式のパズルをやってるみたいで、本当につまらなかった。でも、さっきの場所は違う。自分の剥き出しのバカさ加減とか、狂気とか、そういうものをどれだけ画面に叩きつけられるかの戦いでしょう? 私、あそこにいる連中を、全員引きずり下ろしてやりたい」

結衣はカチカチと音を立てて鳴る踏切の警報機を見つめながら、ゾッとするほど美しい笑顔を浮かべた。
彼女はもう、私の背中を追いかけるだけの少女ではない。彼女自身の内側にある「表現への渇望」が、あの予備校の熱気によって、完全に覚醒してしまったのだ。

「うん。私も、負けないよ」

私は鞄の紐をきつく握りしめ、前を向いた。
遮断機が上がり、私たちは新しい光の中へと歩き出した。

翌朝、午前九時。
美大進学ゼミの第一画室は、すでに三十人近い受験生たちの熱気で満たされていた。
部屋の中央には、一人一台のイーゼルが円状に配置され、その中央には姿見の鏡が何枚も置かれている。受験生たちはその鏡に映る自分の顔と、自分の左手をモチーフにして、三日間で一枚の木炭デッサンを仕上げるのだ。

「カシャカシャ、カシャカシャ」

画室のあちこちから、木炭を細かく削るカッターナイフの音が響く。
私も結衣も、指示された場所にイーゼルを立て、真っ白な木炭紙を画板にクリップで固定した。まだ誰も何も描いていない、圧倒的な白。その白さが、今の私の未熟さを嘲笑っているかのように思えて、一瞬だけ筆を持つ手が躊躇う。

「始め」

佐伯先生の短い合図とともに、画室全体の空気が一瞬で張り詰めた。
次の瞬間、ザッ、ザッ、という、木炭が紙を激しく擦る音が、地鳴りのように室内に響き渡った。周りの受験生たちは、躊躇うことなく太い木炭を画用紙に叩きつけ、体全体を使って大きな明暗の調子(トーン)をつけ始めている。その手の速さ、迷いのなさに、私は圧倒されそうになる。

『落ち着け、私。鏡を見ろ。そこにいるのは、誰の正解でもない、ただの私だ』

私は鏡の中の自分を真っ直ぐに見つめた。
寝不足で少し弛んだ瞼、きつく結ばれた唇、そして、何かに怯えながらも、決して視線を逸らそうとしない、17歳の宮下理央の顔。

私は太い木炭を一本手に取り、恐る恐る紙の上に最初の線を引いた。
カサリ、と頼りない音が響く。周りの受験生たちの力強い音に比べたら、それはまるで、嵐の中で震える小鳥の羽ばたきのように微弱なものだった。

『こんな線じゃダメだ。もっと、強く。もっと、深く』

私は指先に力を込め、鏡の中の自分の頭の骨格、肩のライン、そして前に突き出した左手の位置を捉えようと、必死に手を動かし続けた。
けれど、描けば描くほど、画面の絵は現実の私から遠ざかっていく。形を追おうとすると線が固くなり、影をつけようとすると、ただ画面が汚く黒ずんでいくだけ。

「シュッ、シュッ」

右隣のイーゼルからは、結衣が激しい勢いで木炭を擦りつける音が聞こえていた。
チラリと彼女の画面を盗み見ると、そこにはすでに、彼女特有の、中世の拷問具のような鋭利で攻撃的な線が、画面全体を縦横無尽に駆け巡っていた。彼女は自分の顔を美化することなく、まるで剥製の獣を解剖するかのような冷徹さで、その明暗を捉えようとしていた。

(すごいな、結衣は……もう、自分の色を見つけてる)

焦りが、私の指先をさらに狂わせていく。
私は何度も食パン(木炭デッサン用の消しゴムとして使われる)で画面を擦り、せっかく描いた形を消し去った。木炭紙の表面が毛羽立ち、灰色の粉が床にボロボロと落ちていく。私の手は、あっという間に真っ黒になり、爪の間には消えない黒が深く刻み込まれていった。

「宮下」

背後から、予告もなく佐伯先生の声がした。
私はビクッとして振り返る。先生はポケットに手を突っ込んだまま、私の描きかけの、ひどく濁ってしまった画面を冷ややかな目で見つめていた。

「お前の絵は、嘘をついている」

先生の一言は、鋭い針のように私の鼓動を突き刺した。

「嘘……ですか?」

「そうだ。お前は鏡の中の自分を見ているようで、実は『人からどう見られたいか』という、自分の中の都合の良いイメージを描いている。その目の描き方、その輪郭の処理、全部どこかで見たような、安いイラストの記号の延長線上だ。そんな風に自分をガードしているうちは、油画科の絵は絶対に描けないぞ」

佐伯先生は、私の手から木炭をひょいと奪い取ると、私の絵の、綺麗に描こうとしていた目の部分に向かって、太い木炭を斜めに叩きつけるようにして真っ黒な斜線を引いた。

「あ……!」

「形が崩れるのを恐れるな。お前が今、進路に迷い、親と揉め、学校で孤立しているそのドロドロした現実のすべてを、この鏡の中の顔に叩きつけろ。綺麗な優等生の宮下理央なんて、ここには必要ないんだよ」

先生は木炭を私の足元に放り投げると、そのまま次の生徒のところへと歩き去っていった。

真っ黒に塗りつぶされた、私のデッサンの目。
私はその場に立ち尽くし、激しい悔しさと、それ以上に、自分の本質を完璧に見透かされたことへの恐怖で、全身の血が逆流するような感覚を覚えていた。

私は、まだ鳥籠の中にいたのだ。
アカウントを消し、親に本音をぶつけ、学校のレールを降りた気になっていたけれど、私の描く絵は、まだ「誰かに嫌われないための、綺麗な優等生」の殻を、一ミリも破ることができていなかった。

画室の窓の外では、夏の強烈な太陽が、アスファルトの陽炎を激しく揺らしていた。
私は床に落ちた木炭を拾い上げ、真っ黒に汚れた指先で、もう一度鏡の中の自分を睨みつけた。

『壊してやる。こんな綺麗なだけの、偽物の自分なんて、今ここで、私の手で完全に叩き壊してやる』

私は食パンを握りしめ、自分の描いた絵を、激しい勢いで擦り潰し始めた。画面全体が、混沌とした灰色の闇へと変わっていく。その闇の中から、本当の私の色彩を引っ張り出すための、本当の戦いが、今度こそ始まろうとしていた。