『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

七月に入ると、校舎を包む空気は一気に重苦しい湿気を帯び、蝉の声が降るように響き始めた。
特進クラスの教室は、目前に迫った夏休み――実質的には「地獄の夏期講習」に向けて、異様な熱気に満ちていた。黒板の隅には、共通テストまでの残り日数が赤いチョークで刻まれ、毎日のように模擬試験の成績表が配られる。

そんな中、私と結衣の周囲だけは、相変わらず奇妙な空白地帯のままだった。
私が美大受験を正式に表明し、結衣が美術部に入部してから、クラスメイトたちの視線は「腫れ物」から「脱落者」を見るものへと変わっていた。進学実績がすべてとされるこのクラスにおいて、美大を目指す私は、すでに同じレースを走る競争相手ですらなくなっていたのだ。

「宮下、これ」

昼休み、隣の席の女子生徒が、視線を合わせないまま一枚のプリントを私の机に置いた。夏期の「難関国公立大対策講座」の申込書だった。

「あ、ありがとう。でも私、これ受けないから、阿部先生に返しておくね」

「……ふーん、そっか」

彼女はそれだけ言うと、すぐに自分のグループの方へと戻っていった。
以前の私なら、その一言に含まれた微かな冷笑や安堵に、胸をキリキリと痛めていただろう。でも今の私は、自分の鞄の底にある予備校のパンフレットの重みを感じながら、ただ静かに微笑むことができた。

私は、地元の国立大のレールを完全に降りた。
その代わりに私が選んだのは、東京にある美術大学の油画科。倍率が十倍を超えることも珍しくない、本当の修羅の道だった。

「理央、お弁当食べたら、すぐに美術室行こう」

結衣が私の机の前に立ち、声をかけてきた。
彼女の手には、購買で買った焼きそばパンと、世界史の一問一答の参考書が握られていた。現実の勉強を利用すると言った通り、彼女は美術部での活動時間を確保するために、休み時間のすべてを勉強に費やしていた。かつての「空っぽの人形」の面影はどこにもなく、その瞳には明確な野心が宿っている。

「うん、すぐ行く。結衣、今日からだよね? 予備校の夏期講習の申し込み」

「そう。駅前の『美大進学ゼミ』。あそこ、県内では一番実績があるから。……正直、学費のことで親とかなり揉めたけどね。最終的には、私の世界史の模試の偏差値を盾にして、無理やり納得させたわ」

結衣は不敵に笑った。
私たちは、それぞれ別の方法で現実の壁と戦っていた。私は親との対話を選び、結衣は親の望む「結果」を人質に取ることで、自分の自由を勝ち取ったのだ。どちらが正しいかなんて分からない。けれど、どちらも必死であることだけは間違いなかった。

放課後、私たちは駅前にある雑居ビルの四階へと向かった。
錆びついたエレベーターを降りると、そこには学校の美術室とは全く違う、異様な熱気と匂いが立ち込めていた。
壁一面に貼られた、過去の合格者たちの圧倒的なデッサンや油絵。床には木炭の粉や乾いた絵の具の跡が散らばり、いくつもの大きなイーゼルが整然と並んでいる。

「美大進学ゼミ」

そこは、私たちがこれまでいた「優しい箱庭」とは違い、同じ夢を持つ者たちが互いの才能を喰らい合う、本当の戦場だった。

「新規の夏期講習の申し込みだね。宮下さんと、香川さん」

受付に出てきたのは、無精髭を生やし、ヨレヨレ Tシャツを着た三十代半ばほどの男だった。この予備校の講師であり、自身も画家として活動しているという、佐伯先生という人だった。
佐伯先生は、私たちが提出した申込書に目を落とし、それから眼鏡の奥の鋭い光で、私たちの全身を品定めするように見つめた。

「特進クラスの現役生か。学科の心配はなさそうだけど、実技の経験は?」

「……学校の美術室で、少しデッサンを始めたばかりです」

私が正直に答えると、佐伯先生はふっと鼻で笑った。

「なるほど、典型的な『夏から始めるお気楽受験生』ってわけだ。いいかい、油画科の倍率を分かってる? ここにいる連中は、中学の頃から毎日何時間も石膏像と向き合ってきた化け物ばかりだ。学校の部活レベルの絵なんて、一日で木っ端微塵に打ち砕かれるよ」

先生の言葉は、阿部先生の正論とはまた違う、本物の「現場の冷酷さ」を持っていた。
結衣の身体が、隣で微かに強張るのが分かった。

「それでも、やります」

私は一歩前に出て、佐伯先生の目を真っ直ぐに見つめた。

「下手くそなのは分かっています。でも、私は自分の絵で、自分の正解を見つけたいんです。どんなに打ち砕かれても、ここを動くつもりはありません」

佐伯先生は私の言葉を聞き、しばらく無言で私の顔を見つめていた。
やがて、彼は面倒くさそうに頭を掻くと、奥の画室へと顎をしゃくった。

「へえ。口だけは一人前だ。……じゃあ、中に入りな。ちょうど今、講習生たちのコンクールの講評会をやってる。自分たちがどれだけ底辺にいるのか、その目で確かめてくるといい」

私たちは促されるまま、大きなガラス扉の向こうにある第一画室へと足を踏み入れた。

その瞬間、私たちの肌を刺したのは、強烈な「青い熱」だった。
室内の床には、五十枚を超える自画像デッサンがズラリと並べられていた。そのどれもが、学校の美術室で私が描いたあのリンゴの絵とは比較にならないほどの、圧倒的な描写力と、狂気にも似た自己主張を放っていた。

絵の中に描かれた受験生たちの目は、どれも飢えた獣のように鋭く、画面から飛び出してきそうなほどの生々しさでこちらを睨みつけていた。

『……すごい』

私は声が出なかった。
ネットの海で、匿名のアカウントでチヤホヤされていた自分が、どれだけ狭い世界で踊っていたのかを、改めて思い知らされた。ここにいる全員が、本気で、命懸けで、自分の色彩を掴み取ろうとしているのだ。

結衣は並べられた絵の前で、拳を白くなるほど握りしめていた。
彼女の瞳に灯ったのは、恐怖ではなく、激しい「嫉妬」と「闘争心」の炎だった。その横顔を見た瞬間、私は確信した。

私たちは間違っていない。
この過酷な戦場こそが、私たちがずっと探し求めていた、本当の生きる場所なのだ。

受験の夏が、いよいよ幕を開けようとしていた。
圧倒的な才能の洪水の真ん中で、私たちは自分の不格好な筆を握り直し、最初の一歩を踏み出す覚悟を決めていた。