『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

カーテンの隙間から滑り込んできた薄明の光が、結衣の部屋の床に敷かれたカーペットを淡い灰色に染め上げていく。夜と朝の境界線は、私たちが気づかないほど静かに、そして容赦なく現実の時間を塗り替えていた。

ベッドの上で微かに寝返りを打った結衣の髪が、サラリとシーツに擦れる音がする。彼女はまだ眠っていなかった。ただ、新しく訪れる一日をじっと見つめるように、天井の灯具を見つめている。

「ねえ、理央」

結衣が静かに声を張り上げた。その響きは、夜の間に張り詰めていた鋭利なトーンを失い、どこか遠くの街の鐘の音のように穏やかだった。

「何?」

「私たち、これからどうなるんだろうね。ネットの海にいた『K』も、君を崇拝していた何千人ものフォロワーも、もうどこにもいない。ただの、成績だけが取り柄の冴えない女子高生二人きりになっちゃった」

彼女の言葉に、私は小さく笑った。

「それでいいんじゃないかな。誰の期待も背負っていないってことは、これから何にだってなれるってことだから」

『そうだ、私はもう、誰かのために筆を握る必要はないんだ』

胸の奥で、その確信が冷たい鎖をパチンと断ち切るような音を立てた。

午前六時を回った頃、私は結衣の家を出ることにした。
一階へ下りると、結衣の母親がすでに台所に立っており、トースターからパンの焼ける香ばしい匂いが漂っていた。彼女は私の姿を見ると、昨夜の不安そうな表情とは打って変わって、心底ホッとしたような優しい笑みを浮かべた。

「理央ちゃん、ありがとうね。あの子、さっき部屋から出てきて『今日から学校に行く』って、自分からお弁当箱を出してきたのよ。本当に、あなたのおかげだわ」

「いいえ、叔母さん。私の方こそ、結衣に救われたんです。……それじゃ、一度家に帰って着替えてきます」

玄関を出ると、朝の澄んだ空気が肺いっぱいに広がった。
アスファルトにはまだ昨夜の結露が残っていて、朝日に照らされてキラキラと光っている。私は自分の家へと続く道を、少しだけ駆け足で進んだ。

我が家のドアを開けると、母がリビングのテーブルで熱いコーヒーを飲んでいた。私が戻った音に気づき、母は静かに顔を上げた。その目には、昨日までの過剰なまでの狼狽や詮索の色はなく、ただ一人の人間として私を信頼しようとする、静かな覚悟のようなものが感じられた。

「結衣ちゃんのところに行っていたのね」

「うん。ちゃんと話してきた。……お母さん、私、今日も学校へ行くよ。美大の実技対策のことも、先生にちゃんと伝えてきたから」

母はコーヒーカップを置き、小さく頷いた。

「分かったわ。あなたの人生だもの。私たちは、あなたが選んだ道を見守るしかないものね。……でも、ご飯だけはしっかり食べなさい。体力がなければ、絵だって描けないでしょう?」

「うん、ありがとう」

自室に戻り、昨日とは違う、洗いたての制服に袖を通す。
鏡の前に立つと、寝不足のせいで顔色は少し悪かったけれど、その瞳の奥には、濁りのない一本の芯が通っているのが見えた。

『もう、逃げない』

駅のホームへ向かう足取りは、昨日よりもずっと確かだった。
電車に揺られながら、私はスマホの画面を見つめた。アプリの通知はゼロ。あの喧騒が嘘のように静まり返った世界が、妙に心地よかった。

学校の校門をくぐり、昇降口へ向かう。
周囲の生徒たちのヒソヒソ話は、今日もまだ続いていた。特進クラスの優等生が家出し、さらに進路を巡って担任と大喧嘩したという噂は、尾ひれがついて校内を駆け巡っているようだった。

「ほら、やっぱり来たよ」
「昨日、進路指導室から怒鳴り声が聞こえたってマジ?」

彼らの言葉は、今の私にとってはただの背景音に過ぎなかった。
教室のドアを開け、自席へと向かう。
そして、私は息を呑んだ。

右斜め前の席に、彼女が座っていた。

結衣は、いつも通り綺麗に整えられた制服を着て、机の上に世界史の教科書を開いていた。周囲の喧騒から孤立しているのは彼女も同じだったけれど、その背筋は驚くほど真っ直ぐに伸びていた。

私が席につくと、結衣は教科書から目を離し、ゆっくりと私の方を振り返った。
私たちは、一言も言葉を交わさなかった。ただ、視線が一瞬だけ交錯した。その刹那、彼女の唇の端が、微かに、本当に微かにだけ上がったのを、私は見逃さなかった。

『私たちは、ここから始めるんだ』

一限目のチャイムが鳴り、担任の阿部先生が教室に入ってきた。
先生の視線が私と結衣の席を順に捉え、一瞬だけ複雑そうな表情を浮かべたけれど、すぐに黒板に向かってチョークを走らせ始めた。
授業の内容は、昨日までと変わらない受験対策の詰め込み。けれど、私と結衣がノートに書き留めているものは、おそらく先生の意図とは全く違うものだった。結衣のノートの余白には、今日も静かに、彼女だけの新しい世界の線が紡がれているのだろう。

放課後、私は再び美術室へと向かった。
昨日描いたあの歪んだリンゴの絵を取り出し、イーゼルの上に固定する。
パレットに新しい絵の具を絞り出し、筆にたっぷりと水を含ませた。

コンコン、と美術室のドアが控えめに叩かれたのは、私が最初のひと塗りをキャンバスに落とした瞬間だった。

「入るよ」

入ってきたのは、結衣だった。
彼女の肩にはスクールバッグではなく、スケッチブックが一冊入った小さなトートバッグが提げられていた。

「結衣? どうしたの?」

「どうしたの、じゃないよ。私、今日から美術部に入ることにしたから。現実の勉強を利用してやるって言ったけど、やっぱり、理央が横で下手くそな絵を描いてるのを見てたら、私も我慢できなくなっちゃった」

結衣は私の隣にある空いたイーゼルを引き寄せ、自分のスケッチブックをドサリと置いた。

「言っておくけど、私は理央の美大受験の応援なんてしないからね。私は私のために、この世界で一番美しいものを見つけるために描くの。理央が途中で挫折しても、絶対に置いていってあげる」

「ふふ、望むところだよ」

私たちは並んでイーゼルの前に立った。
夕方の美術室に、二つの筆の音が重なり始める。
窓から差し込む西日は、私たちの影を床に大きく、歪に伸ばしていたけれど、その影の輪郭は、昨日までのどの瞬間よりも鮮明で、力強かった。

スマホが鳴り響く。
画面を見ると、父親からの着信だった。私は一度筆を置き、美術室のベランダへと出て、通話ボタンを押した。

「……もしもし、お父さん」

「理央か。学校はどうだ」

父の声は、いつもの事務的なトーンだったけれど、その奥に微かな気遣いが滲んでいた。

「うん。ちゃんと授業も受けてるし、今は美術室で絵を描いてるよ」

「そうか。……母さんから聞いた。お前が毎日お弁当を残さず食べていると。……週末、もし時間があるなら、美大の資料が置いてある大きな書店に、車で連れて行ってもいい。お前が本気だと言うなら、その、どんな敵が待ち受けているのかくらいは、親としても把握しておく必要があるからな」

不器用な、父なりの歩み寄りの言葉だった。
胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされていく。

「うん。ありがとう、お父さん。日曜日、よろしくね」

通話を切り、スマホをポケットにしまう。
ベランダから見下ろす街並みは、相変わらず同じような住宅が並ぶ、退屈な灰色の世界だった。けれど、その世界の片隅で、私たちは確かに自分だけの色彩を見つけ、それを広げようとしている。

美術室に戻ると、結衣がキャンバスに向かって激しく筆を動かしていた。彼女が描いているのは、あの廃校の、ガラスの割れた窓から差し込む光の絵だった。その色彩は、ひどく冷徹で、けれど圧倒されるほどの美しさを放っていた。

「結衣、やっぱり君の絵、すごいね」

「うるさいな。集中してるんだから話しかけないで」

彼女は照れ隠しのように顔を背けたけれど、その耳の端が微かに赤くなっているのを、私は見逃さなかった。

私たちは、まだ何者でもない。
17歳の夏、未完成のキャンバスを前に、私たちはただ泥臭く、不格好に、自分たちの生かった証を刻み込んでいく。この色彩が、いつか誰かに届くのか、あるいは誰にも見つからないまま消えていくのかは分からない。
けれど、私たちはもう、自分の色を隠して生きることはしない。

夕闇が迫る美術室の中で、私たちの新しい物語の筆跡は、どこまでも深く、鮮やかに輝き続けていた。