『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

結衣の涙は、堰を切ったように彼女の細い肩を揺らし続け、私の制服の胸元をぐっしょりと濡らしていった。その涙の温かさと、私の背中に回された彼女の指先の震えが、痛いほどに私の皮膚を通じて心臓へと伝わってくる。
私は何も言わずに、ただ彼女の頭を優しく撫で続けた。部屋の隅にあるデジタル時計の数字が、無機質に時間を進めていく。午前二時、午前三時。外界のすべての営みが深い眠りについたこの時間帯だけが、私たちに許された唯一の避難所のようだった。

やがて、結衣の激しい嗚咽は、小さく断続的なため息のような呼吸へと変わっていった。彼女はゆっくりと私の胸から顔を上げ、濡れた睫毛の隙間から、私の膝の上にあるスケッチブックを見つめた。

「……ずるいよ、理央は」

結衣の声は、泣き疲れてひどく掠れていた。彼女は自分の袖で乱暴に涙を拭い、自嘲気味に口元を歪めた。

「そんな下手くそな絵を見せられて、私はなんて言えばいいの? 『頑張って』って励ませばいい? それとも『一緒に諦めよう』って言えばいい? 理央はいつでもそうやって、私の一歩先で、私には見えない景色を見つけて、それを勝手に私に突きつけてくる」

彼女はベッドから足を下ろし、床に転がっていたスマートフォンを拾い上げた。液晶画面には、まだいくつかのSNSのアプリのアイコンが、通知のバッジを灯したまま並んでいる。

「理央がアカウントを消したこと、すぐに気づいたよ。夜中にふと画面を見たら、君のページが影も形もなくなってた。その瞬間、私の中の『K』も、本当に死んだんだなって思った」

結衣はスマホを両手で包み込むようにして、愛おしそうに、そして同時にひどく忌々しそうに見つめた。

「『K』でいるときだけは、私は理央の一番近くにいる特別な存在になれた。理央の本当の苦しみを知っていて、理央の魂を形作っているあの絵の一番の理解者になれた。現実の私は、ただの『宮下理央の幼馴染』でしかなくて、クラスの誰も、親だって、私の本当の顔なんて見ていなかったのに」

彼女の独白は、静かに私の胸の奥へと沈み込んでいく。
私たちはいつから、これほどまでに互いを歪んだ鏡にしてしまっていたのだろう。私が「周囲の期待」という檻に苦しんでいた裏側で、結衣は「誰からも特別視されない」という透明な檻の中で、じわじわと窒息しかけていたのだ。

「私ね、小学生の頃、理央と一緒にあの廃校を見つけたとき、本当はすごく怖かったんだよ」

結衣がふと、遠い目をしながら呟いた。

「理央はボロボロの校舎を見て、『ここに秘密基地を作って、誰も見たことがない大きな絵を描くんだ』って目を輝かせてた。あのとき、私は理央が遠い世界に行ってしまうような気がして、怖くてたまらなかった。だから、理央の服の裾をギュッと握りしめて、『帰ろう』って言ったの。理央を現実の世界に引き留めておきたかった。私と同じ、普通の女の子のままでいてほしかったから」

結衣の口から語られる過去の記憶は、私の知っている記憶とは全く違う色を帯びていた。私にとっては単なる楽しい思い出の一幕だったあの瞬間が、結衣にとっては、私という存在に対する「劣等感」と「執着」の始まりの場所だったのだ。

「中学生になって、高校生になって、理央が特進クラスでトップの成績を取るようになっても、私はどこかで安心してた。『理央は頭が良いから、きっと親の言う通りに手堅い進路を選ぶ。私と同じように、普通の大人になってくれる』って。そうやって自分を納得させて、理央の背中を追いかけて勉強してた。……でも、違ったんだよね。理央は最初から、あの廃校の教室に魂を置き去りにしたままだったんだ」

結衣はスマホの画面をタップし、設定画面を開いた。彼女の指先が、いくつかの操作を経て、一つのアカウントの消去画面を呼び出す。
画面には、あの無数の鍵を描いた『K』のプロファイルが表示されていた。

「これを消したら、私は本当に何者でもなくなる。明日から学校に行って、また誰も私を見ない現実に戻らなきゃいけない。それが、たまらなく怖いの」

結衣の瞳に、再びじわりと涙が溜まっていく。
私はベッドから立ち上がり、結衣の机の上に置かれていた一冊のノートを手に取った。それは、彼女が授業中に使っている世界史のノートだった。

ノートをめくると、そこには綺麗に整頓された文字で、歴史の年号や重要ワードがびっしりと書き込まれていた。しかし、そのページの端々、余白の部分に、小さな、けれど驚くほど細密なペン画が描かれているのを見つけた。
それは、中世のヨーロッパの街並みだったり、想像上の不思議な動植物だったりした。どれも、授業の退屈しのぎに描かれたものにしては、あまりにも執念と情熱が籠もっているように見えた。

「結衣」

私はノートを結衣に見せた。

「結衣は、空っぽなんかじゃないよ。私の背中を見るために勉強してたって言ったけど、このノートを見てよ。結衣は、結衣だけの世界を、ちゃんとここに持っているじゃない」

結衣はハッとしたように目を見開いた。

「私はね、結衣が描いた『K』のあの鍵の絵を見たとき、本当に魂が震えたんだよ。あれは、私を騙すための道具なんかじゃなかった。結衣の中にある、言葉にできない叫びが、あの線になって現れていたんだよ。結衣は私の理解者になろうとしていたかもしれないけれど、私にとっても、結衣のあの絵だけが、唯一の救いだったんだよ」

私はノートを静かに机の上に戻し、結衣の前にしゃがみ込んだ。

「学校の誰も結衣を見ていなくても、親が結衣に普通を求めても、私は結衣を見ているよ。アカウント名が結衣じゃなくても、Kじゃなくても、私は結衣の描く線が好きだし、結衣の紡ぐ言葉が欲しい。だから、お願いだから、自分を『名前だけの存在』なんて言わないで」

結衣は、私の言葉を一つ一つ噛み締めるようにして、じっと聞き入っていた。
彼女の指が、スマホの画面の上で静止している。
数秒の沈黙の後、彼女は小さく息を吐き出し、画面の『アカウントを完全に削除する』というボタンを、力強くタップした。

画面が一度だけ暗転し、それから初期のログイン画面へと戻る。
これで、私たちの『17歳の逃避行』は、完全に終わりを迎えた。ネットの海に構築された、嘘と本音が入り混じったあの歪んだ楽園は、もうどこにも存在しない。

「……あーあ、消しちゃった」

結衣はスマホをベッドの上に放り出し、両手を大きく広げて後ろに倒れ込んだ。天井を見つめる彼女の顔からは、さっきまでの張り詰めた狂気や絶望は消え去り、ただの、少し夜更かしをして疲れただけの、等身大の17歳の少女の表情が戻っていた。

「理央。私ね、明日から学校に行くよ」

結衣は天井を見つめたまま、静かに言った。

「でも、もう理央の背中を見るために勉強するのはやめる。私は、私が世界中の美術館に行くために、そのための手段として、現実の勉強を利用してやるの。親が『普通の大学に行け』って言うなら、行ってあげる。でも、そこを足がかりにして、私は絶対にこの街から飛び出してやるんだから」

彼女の言葉には、かつての「K」のような冷徹な響きはなかった。けれど、現実と戦うための、泥臭くて力強い「彼女自身の正解」が、確かに宿っていた。

「うん。それでいいよ。それがいい」

私は微笑みながら、結衣の隣に並んでベッドに仰向けになった。
閉め切られたカーテンの隙間から、かすかに外の空気が白み始めているのが分かった。
長い、本当に長い17歳の夜が、ようやく終わろうとしていた。

私たちは、お互いに誰かの正解になることを辞めた。
これからは、それぞれの足で、それぞれの不完全な道を歩いていく。その道がどこかで交わるのか、あるいは完全に離れてしまうのかは、今の私たちには分からない。
けれど、あの廃校の教室で、そしてこの薄暗い部屋で交わした魂の傷跡は、私たちがこれからどんな現実を生きていくとしても、消えない北極星のように、私たちの行く手を照らし続けてくれるはずだ。

窓の外から、朝一番の小鳥のさえずりが聞こえてきた。
私は静かに目を閉じ、新しく始まる、私たちの未完成な日常の不協和音に、そっと耳を澄ませていた。