『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

結衣の家は、私の家とよく似た、新興住宅街の一角に佇む二階建ての一軒家だった。
綺麗に手入れされた庭木と、玄関先に灯る温かみのある電球。そのどこから見ても「幸福な家庭」を絵に描いたような佇まいが、かえって今の私には、冷徹な檻のように見えて仕方がなかった。

私は門扉の前で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
インターホンを押す指先が、微かに震える。私がここに来たところで、結衣が会ってくれる保証はどこにもない。むしろ、激しい拒絶に遭う可能性の方が高かった。

ピンポーン、という軽い音が静かな夜の住宅街に響き渡る。
数十秒の沈黙の後、玄関のドアがゆっくりと開き、中から結衣の母親が顔を出した。彼女は私の姿を見るなり、驚いたように目を見開いた。

「あら、理央ちゃん……? どうしたの、こんな夜遅くに」

「叔母さん、こんばんは。すみません、遅い時間に。あの、結衣は……結衣はいますか?」

結衣の母親の顔に、一瞬だけ翳りが走った。彼女は困ったように視線を泳がせ、それから小さく溜息をついた。

「結衣なら、部屋にいるわよ。ただね……昨日からずっと学校を休んでいて、部屋に閉じこもったままなの。ご飯もあんまり食べてくれなくて。理央ちゃん、何か学校で結衣とあったの?」

母親の問いかけに、私は言葉に詰まった。学校であったのではない。学校の外の、世間からは見えない真っ暗な場所で、私たちは互いの魂を削り合うような決別をしたのだ。

「……少し、進路のことで口喧嘩をしちゃって。だから、謝りに来ました」

私は半分だけ本当のことを言った。
母親は私の言葉を聞いて、少しだけ安心したように表情を和らげた。

「そうだったの。あの子、最近ずっと進路のことでピリピリしていたから……。理央ちゃんから話しかけてくれれば、きっとあの子も気持ちが楽になるわ。上がって、結衣の部屋に行ってあげて」

私は靴を脱ぎ、結衣の家の階段を上がった。
二階の突き当たりにある、結衣の部屋。ドアの前に行くと、中からは何の音も聞こえてこなかった。まるで、誰もいない空間のように静まり返っている。

私はドアを軽く二回、ノックした。

「結衣、私だよ。理央。……入るよ」

返事を待たずに、私はゆっくりとドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。

部屋の中は、カーテンが閉め切られ、液晶画面の薄青い光だけが部屋を照らしていた。
ベッドの上に、結衣は膝を抱えて座っていた。彼女の視線は、手元にあるスマートフォンの画面に固定されており、私の侵入に対して、ピクリとも身じろぎをしなかった。

「……何しに来たの」

結衣の声は、驚くほど平坦で、感情の起伏が一切なかった。

「現実のレールに戻るって、昨日言ったはずだよ。私はもう、君の知っている『K』じゃないし、君を救う人格でもない。ただの、名前だけの結衣だよ」

私は部屋に入り、ドアを静かに閉めた。
結衣の部屋には、勉強机の上に参考書や問題集が山積みにされており、その様子は彼女が「正しい受験生」を演じようとしていた痕跡そのものだった。けれど、その部屋の空気は、あの廃校の教室と同じくらい、冷たくて息が詰まるような絶望に満ちていた。

「結衣、私はね、謝りに来たわけじゃないよ」

私はベッドの脇まで歩み寄り、彼女の顔を覗き込んだ。薄青い光に照らされた彼女の横顔は、ひどく青白く、目の周りには濃い影ができていた。

「じゃあ、何のために来たの。私のことを笑いに来たの? 偉そうに『自分の正解を見つけた』って、自慢しに来たの?」

「違うよ」

私は鞄から、さっき美術室で描いた、あの歪んだリンゴのデッサンが描かれたスケッチブックを取り出した。
そして、結衣の膝の上に、それをそっと置いた。

「これ、見てほしくて」

結衣は怪訝そうに眉をひそめ、視線をスマホからスケッチブックへと移した。
彼女の指が、ゆっくりとページに触れる。月光とスマホの光が混ざり合う中で、彼女は私が描いた下手くそなリンゴの絵を、じっと見つめ続けた。

「……何これ。下手くそ。昔の理央の絵の方が、もっと綺麗だったし、もっと鋭かったよ」

結衣の口から漏れたのは、辛辣な批評だった。けれど、その声には、さっきまでの冷徹な拒絶ではなく、確かな感情の灯火が宿り始めていた。

「うん。下手くそだよね」

私はベッドの端に腰掛け、小さく笑った。

「技術も何もないの。これが、Kっていう幻想を消した、現実の私の本当の実力。美大に行くなんて、今の私にはおこがましいくらい、何もできない。……でもね、結衣。私はこの下手くそな絵を描いているとき、生まれて初めて、自分のために息をしてるって思えたんだよ」

結衣の指先が、リンゴの歪んだ輪郭線をそっとなぞった。

「結衣は、空っぽの人形なんかじゃないよ。結衣が『K』として私にぶつけてくれた言葉は、全部本物だった。現実を生きるのが苦しくて、誰かの正解になり合おうとして、必死にもがいていた結衣の魂そのものだったんだよ」

私は結衣の、冷たくなった手をそっと握りしめた。

「私は結衣を許さないし、結衣も私を許さなくていい。私たちは、お互いを傷つけ合った最低の友達だよ。……でもね、私は結衣がいない現実なんて、つまらないと思う。現実のレールに戻るなら、戻ればいい。でも、死んだみたいに生きるのは、もうやめてよ」

結衣の身体が、一瞬だけ大きく震えた。
手元からスマートフォンが滑り落ち、床の上で転がったけれど、彼女はそれを拾おうとはしなかった。
彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出し、私のスケッチブックの、歪んだリンゴの絵の上に点々とシミを作っていった。

「理央……私、怖いよ。明日から、どんな顔をして生きていけばいいのか、本当に分からないんだよ……」

結衣は私の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き崩れた。
私は彼女の小さな背中を、何度も、何度も静かに叩き続けた。

17歳の私たちの夜は、どこまでも深くて、どこまでも不完全だった。
けれど、その暗闇の中で、私たちはようやく、誰の正解でもない、お互いの本当の体温に触れることができたような気がしていた。