授業開始を告げるチャイムの余韻が消え去ると、教室内には教科書をめくる乾いた音と、チョークが黒板を激しく叩く音だけが響くようになった。
私の右斜め前に置かれた結衣の机は、五限目が始まってもなお、ぽっかりと空いた空白のままだった。窓から差し込む午後の強い日差しが、主のいない机の天板を白く焼き付け、そこだけが教室の中で切り取られた異空間のように見えた。
ノートの隅に、私は無意識のうちに鉛筆で幾何学的な模様を描き殴っていた。
数式や歴史の年号が教師の口から吐き出され、生徒たちの耳を通り抜けていく。そのすべてが、大学受験という巨大な「正解」に向かうためのパーツだった。昨日までの私なら、そのパーツを一つでも多く拾い集めようと必死になっていたはずだ。けれど今の私には、そのどれもが色褪せた記号にしか見えなかった。
(結衣は、本当に現実のレールに戻ったのかな)
彼女が最後に言った言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。
『私は現実のレールに戻る。それが私にできる、唯一の「正しい生き方」だから』
彼女は自分を空っぽの人形だと言った。私の歪んだ叫びを養分にして、辛うじて息をしていたと。もし、彼女が本当に「普通の結衣」に戻るために学校を休んでいるのだとしたら、それは私との関係を完全に断ち切るための、彼女なりの準備期間なのかもしれない。
昼休みになり、教室が再び騒がしさを取り戻しても、私の周囲にだけは誰も近づいてこなかった。
いつもなら結衣と二人で購買のパンを食べながら、くだらない芸能人のニュースや、今週の宿題の多さについて文句を言い合っていた時間。私は一人、自席で母親が作ってくれたお弁当の蓋を開けた。一口ごとに、静寂が喉を通り過ぎていく。周囲のグループから時折、私の方をチラチラと盗み見る視線を感じたけれど、私は気づかないフリをして箸を動かし続けた。
孤立している。その事実は、想像していたよりもずっと冷たくて、肌を刺すような痛みを伴っていた。
誰の正解にも従わないと決めた代償は、こうして「集団からの排除」という形で即座に現れる。学校という狭い箱庭において、みんなと同じ方向を向かない者は、それだけで秩序を乱す異分子なのだ。
放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、私は誰よりも早く鞄をまとめ、教室を飛び出した。
向かったのは、校舎の最上階にある美術室だった。我が校の美術部は部員が少なく、進学実績を重視する特進クラスの生徒が立ち入ることは滅多にない場所だ。
美術室の重い引き戸を開けると、油絵の具と木炭の懐かしい匂いが私を迎え入れた。
部屋の隅には無数の石膏像が並び、夕方の斜光を浴びて不気味な影を床に落としている。放課後の美術室には誰もいなかった。顧問の教師も、他の部員もいない。ただ、静まり返った空間だけがそこにあった。
私は窓際のイーゼルの一つの前に立ち、鞄から新しいスケッチブックを取り出した。
そして、備え付けのバケツから水を汲み、固形水彩をパレットに広げる。
私は、デッサンを始めることにした。
これまで私が描いてきたのは、感情をぶちまけるための、形を持たない抽象的なイラストばかりだった。美大の実技試験に合格するためには、正確な描写力や、空間を捉える技術が絶対に必要になる。今の私の技術では、受験生の底辺にも届かないことくらい、自分でも分かっていた。
目の前にある、埃をかぶったリンゴの模型をモチーフに選ぶ。
鉛筆を握り、画用紙に向かう。
シュッ、シュッ、と芯が紙を擦る音が、静かな室内に響き渡る。
リンゴの輪郭線を引くだけで、自分の手の震えが紙に伝わっていくのが分かった。思い通りの線が引けない。光と影の境界線が、うまく捉えられない。技術の未熟さを、これでもかというほど突きつけられて、胸の奥がキュッと締め付けられる。
(全然、描けない……)
ネットの海で、何千人もの人々に『救われた』とチヤホヤされていた私の絵。けれど、現実の美術の世界において、私の実力なんて、まだスタートラインにすら立っていないのだ。Kという幻想を剥ぎ取られた私は、ただの不器用で、技術もない、17歳の無力な少女に過ぎなかった。
それでも、私は筆を止めなかった。
涙が画用紙に落ちて、水彩の絵の具を滲ませそうになるのを必死で堪えながら、何度も何度も線を弾き直した。
誰かに褒められるためじゃない。誰かの正解になるためでもない。ただ、私が私であるために、この不格好なリンゴを、私の手で完成させなければならなかった。
どれほどの時間が経っただろう。窓の外の空が、完全に燃えるような茜色から、深い夜の藍色へと移り変わっていく。
私はようやく鉛筆を置き、大きく息を吐き出した。
スケッチブックの上に残されたのは、歪んでいて、お世辞にも上手とは言えない、けれど必死にそこに存在しようとしているリンゴの絵だった。
「……下手くそだな、私」
小さく呟いた言葉に、自嘲のニュアンスはなかった。むしろ、自分の弱さと未熟さを真っ直ぐに受け入れられたことに、奇妙な清々しさを覚えていた。ここから始めればいい。何もない真っ白な場所から、一歩ずつ、私の色彩を積み上げていけばいいのだ。
美術室を片付け、鞄を肩にかけて校舎を出た。
夜の校庭は、ひんやりとした風が吹き抜けていて、火照った私の頬を優しく冷ましてくれた。
校門へと続く坂道を下りながら、私はスマホを取り出した。アカウントを消去した画面には、もう何の通知も表示されない。世界は驚くほど静かだった。
駅へ向かう途中、私はある決意を固めていた。
このまま結衣の不在から目を背け続けることはできない。彼女がKであったとしても、彼女が私を騙していたとしても、彼女が私の隣で苦しんでいたことは紛れもない事実なのだから。
私は電車の行き先を、自宅とは逆の方向へと変えた。
結衣の家がある、隣町の住宅街。
現実のレールに戻ると決めた彼女が、今、どんな顔をして夜を迎えているのか。それを確かめるために、私は夜の街へと歩き出した。
私の右斜め前に置かれた結衣の机は、五限目が始まってもなお、ぽっかりと空いた空白のままだった。窓から差し込む午後の強い日差しが、主のいない机の天板を白く焼き付け、そこだけが教室の中で切り取られた異空間のように見えた。
ノートの隅に、私は無意識のうちに鉛筆で幾何学的な模様を描き殴っていた。
数式や歴史の年号が教師の口から吐き出され、生徒たちの耳を通り抜けていく。そのすべてが、大学受験という巨大な「正解」に向かうためのパーツだった。昨日までの私なら、そのパーツを一つでも多く拾い集めようと必死になっていたはずだ。けれど今の私には、そのどれもが色褪せた記号にしか見えなかった。
(結衣は、本当に現実のレールに戻ったのかな)
彼女が最後に言った言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。
『私は現実のレールに戻る。それが私にできる、唯一の「正しい生き方」だから』
彼女は自分を空っぽの人形だと言った。私の歪んだ叫びを養分にして、辛うじて息をしていたと。もし、彼女が本当に「普通の結衣」に戻るために学校を休んでいるのだとしたら、それは私との関係を完全に断ち切るための、彼女なりの準備期間なのかもしれない。
昼休みになり、教室が再び騒がしさを取り戻しても、私の周囲にだけは誰も近づいてこなかった。
いつもなら結衣と二人で購買のパンを食べながら、くだらない芸能人のニュースや、今週の宿題の多さについて文句を言い合っていた時間。私は一人、自席で母親が作ってくれたお弁当の蓋を開けた。一口ごとに、静寂が喉を通り過ぎていく。周囲のグループから時折、私の方をチラチラと盗み見る視線を感じたけれど、私は気づかないフリをして箸を動かし続けた。
孤立している。その事実は、想像していたよりもずっと冷たくて、肌を刺すような痛みを伴っていた。
誰の正解にも従わないと決めた代償は、こうして「集団からの排除」という形で即座に現れる。学校という狭い箱庭において、みんなと同じ方向を向かない者は、それだけで秩序を乱す異分子なのだ。
放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、私は誰よりも早く鞄をまとめ、教室を飛び出した。
向かったのは、校舎の最上階にある美術室だった。我が校の美術部は部員が少なく、進学実績を重視する特進クラスの生徒が立ち入ることは滅多にない場所だ。
美術室の重い引き戸を開けると、油絵の具と木炭の懐かしい匂いが私を迎え入れた。
部屋の隅には無数の石膏像が並び、夕方の斜光を浴びて不気味な影を床に落としている。放課後の美術室には誰もいなかった。顧問の教師も、他の部員もいない。ただ、静まり返った空間だけがそこにあった。
私は窓際のイーゼルの一つの前に立ち、鞄から新しいスケッチブックを取り出した。
そして、備え付けのバケツから水を汲み、固形水彩をパレットに広げる。
私は、デッサンを始めることにした。
これまで私が描いてきたのは、感情をぶちまけるための、形を持たない抽象的なイラストばかりだった。美大の実技試験に合格するためには、正確な描写力や、空間を捉える技術が絶対に必要になる。今の私の技術では、受験生の底辺にも届かないことくらい、自分でも分かっていた。
目の前にある、埃をかぶったリンゴの模型をモチーフに選ぶ。
鉛筆を握り、画用紙に向かう。
シュッ、シュッ、と芯が紙を擦る音が、静かな室内に響き渡る。
リンゴの輪郭線を引くだけで、自分の手の震えが紙に伝わっていくのが分かった。思い通りの線が引けない。光と影の境界線が、うまく捉えられない。技術の未熟さを、これでもかというほど突きつけられて、胸の奥がキュッと締め付けられる。
(全然、描けない……)
ネットの海で、何千人もの人々に『救われた』とチヤホヤされていた私の絵。けれど、現実の美術の世界において、私の実力なんて、まだスタートラインにすら立っていないのだ。Kという幻想を剥ぎ取られた私は、ただの不器用で、技術もない、17歳の無力な少女に過ぎなかった。
それでも、私は筆を止めなかった。
涙が画用紙に落ちて、水彩の絵の具を滲ませそうになるのを必死で堪えながら、何度も何度も線を弾き直した。
誰かに褒められるためじゃない。誰かの正解になるためでもない。ただ、私が私であるために、この不格好なリンゴを、私の手で完成させなければならなかった。
どれほどの時間が経っただろう。窓の外の空が、完全に燃えるような茜色から、深い夜の藍色へと移り変わっていく。
私はようやく鉛筆を置き、大きく息を吐き出した。
スケッチブックの上に残されたのは、歪んでいて、お世辞にも上手とは言えない、けれど必死にそこに存在しようとしているリンゴの絵だった。
「……下手くそだな、私」
小さく呟いた言葉に、自嘲のニュアンスはなかった。むしろ、自分の弱さと未熟さを真っ直ぐに受け入れられたことに、奇妙な清々しさを覚えていた。ここから始めればいい。何もない真っ白な場所から、一歩ずつ、私の色彩を積み上げていけばいいのだ。
美術室を片付け、鞄を肩にかけて校舎を出た。
夜の校庭は、ひんやりとした風が吹き抜けていて、火照った私の頬を優しく冷ましてくれた。
校門へと続く坂道を下りながら、私はスマホを取り出した。アカウントを消去した画面には、もう何の通知も表示されない。世界は驚くほど静かだった。
駅へ向かう途中、私はある決意を固めていた。
このまま結衣の不在から目を背け続けることはできない。彼女がKであったとしても、彼女が私を騙していたとしても、彼女が私の隣で苦しんでいたことは紛れもない事実なのだから。
私は電車の行き先を、自宅とは逆の方向へと変えた。
結衣の家がある、隣町の住宅街。
現実のレールに戻ると決めた彼女が、今、どんな顔をして夜を迎えているのか。それを確かめるために、私は夜の街へと歩き出した。



