『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

進路指導室の重い木製のドアが閉まった瞬間、カチャリという錠前が下りる音が、まるで私の背後に下ろされたシャッターの音のように聞こえた。
部屋の中は、長年蓄積された古い書類と、安価な芳香剤の匂いが混ざり合った、特有の埃っぽい空気に満ちている。スチール製のデスクの上には、他校のパンフレットや模擬試験のデータが入ったファイルが整然と並べられており、そのすべてが「効率」と「実績」という二つの言葉を無言で肯定しているようだった。

「座りなさい」

担任の阿部先生は、事務用回転椅子の背もたれに深く身体を預けながら、短くそう言った。彼の顔には、昨日までの「期待の生徒を見る目」は一切なかった。そこにあるのは、自分の管理下から突如として飛び出し、平穏な進学実績のグラフを乱しかねない「問題児」に対する、冷徹な警戒心だった。

私は言われた通り、パイプ椅子の冷たい座面に腰を下ろした。お尻から伝わってくる硬質な冷たさが、私の背筋を強引に伸ばさせる。
阿部先生は、机の上に一枚の紙を滑らせるようにして置いた。何度も折りたたまれ、私の手のひらの汗で少しふやけてしまった、あの進路希望調査票だ。第一志望の欄は、今も真っ白なままで、ただ無機質な空白がこちらを見つめ返している。

「宮下。これがどういう意味か、分かっているな」

先生の低い声が、狭い室内で奇妙に反響する。

「お前の両親からも、昨夜遅くに連絡があった。お前が家出をして、警察に捜索願いを出そうとしていた矢先に帰ってきたと。……宮下、お前は我が校の特進クラスの中でもトップクラスの成績を維持してきた。地元の国立大学の教育学部なら、A判定を外したことは一度もない。お前の将来は、誰が見ても約束されていたんだ。それを、こんな身勝手な行動で台無しにするつもりか?」

先生の言葉は、完璧な正論だった。学校という組織において、また「生徒の将来を案じる教師」という役割において、彼の発言には一寸の狂いもない。彼は私を傷つけようとしているのではない。彼が知る限りの、最も安全で、最も確実な「幸せのルート」へ、私を連れ戻そうとしてくれているのだ。

以前の私なら、この正論の重圧に押し潰され、ただ俯いて涙を流していただろう。大人の言うことに逆らう恐怖と、自分の本音を言葉にする気力のなさが、私をいつも「都合の良い優等生」に仕立て上げていたからだ。
けれど、今の私は違った。廃校のあの薄暗い教室で、結衣と、そして自分自身と徹底的に向き合った夜を経た私は、もう正論の刃を恐れてはいなかった。

「先生」

私は静かに、けれどブレのない声で阿部先生の目をまっすぐに見つめた。

「私の将来は、誰に約束されていたんですか?」

突飛な私の問い返しに、先生は怪訝そうに眉をひそめた。眼鏡の奥の瞳が、不快感を露わにしてわずかに細くなる。

「どういう意味だ」

「国立大学に行って、教員免許を取って、安定した職に就くこと。それは確かに素晴らしい道だと思います。でも、それはお父さんや、お母さんや、先生たちが安心するための道であって、私の道じゃないんです。私は、誰かを安心させるためだけに、これからの何十年という時間を生きることはできません」

「甘えるな!」

先生が激しく机を叩いた。スチール製のデスクがガシャーンと大きな音を立て、ペン立ての中の筆記具が不快な音を立てて揺れた。

「人生を何だと思っているんだ! 『自分の道』だと? そんな青臭い夢みたいな言葉で、現実の厳しさから逃げられると思っているのか! 絵を描いて生きていく? 美大に行く? そんなものが一握りの天才だけに許された博打だということくらい、17歳のお前にも分かるだろう! 親がどれだけの思いでお前を育て、学費を払い、安定した未来を用意しようとしているのか、少しは考えたらどうなんだ!」

先生の怒声が、私の鼓動を激しく刻ませる。けれど、不思議なことに、私の心はどこまでも冷めていた。先生の言う「現実の厳しさ」は、すでに私の知っているものだった。家出をしたあの夜の、飢えと、寒さと、ネットの海から浴びせられた無数の悪意。あれ以上の厳しさが、この先にあるとしても、私はそれを自分の身体で受け止める覚悟を決めていた。

「分かっています」

私は立ち上がった。パイプ椅子が床を擦り、キィという短い悲鳴を上げる。

「分かっているから、私は自分の名前で、自分の足で歩きたいんです。失敗して、誰からも見捨てられて、食べるものに困る日が来るかもしれない。でも、誰かの言う通りの『正解』を生きて、後から『あの時こうしていれば』って、誰かのせいにして生きるよりは、ずっとマシです。私は、美大を受けます。実技の対策も、今から自分で始めます」

私は机の上の進路希望調査票を手に取り、綺麗に二つに折って鞄にしまった。

「勝手な行動をして、学校や先生に迷惑をかけたことは、本当に申し訳ありませんでした。どんな処分でも受けます。でも、私の進路を変えることはできません」

私は一礼し、先生が何かを言いかける前に、進路指導室のドアを開けて外へ出た。
背後で先生が私の名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、私は二度と振り返らなかった。

廊下に出ると、窓から差し込む初夏の光が、私の影を床に長く伸ばしていた。
胸の奥が、バクバクと激しく波打っている。大声を出したせいで、喉の奥がカラカラに渇いていた。けれど、私の心は、驚くほど澄み切っていた。自分の言葉で、自分の意志を社会に対して明確に表明した。その事実だけで、私の身体の内側から、言葉にできないほどの万能感が湧き上がってくるのを感じていた。

私は上履きの音を響かせながら、自分の教室へと向かった。
これから向かうのは、私の「かつての日常」が残されている場所だ。そこには、私の家出を知っているクラスメイトたちが待っている。そして何より、私を『K』という名前で救い、そして欺いていた結衣がいる。

教室の前にたどり着き、私は一瞬だけ足を止めた。
深呼吸をして、肺いっぱいに冷たい空気を取り込む。
私はゆっくりと手を伸ばし、教室の引き戸を横にスライドさせた。

ガラガラ、という音が教室内に響き渡る。
その瞬間、それまでガヤガヤと騒がしかった室内の空気が、まるで一瞬で凍りついたかのように静まり返った。
教壇の近くでお喋りをしていた女子生徒たち、後ろの席でふざけ合っていた男子生徒たち、その全員の視線が、一斉に私へと突き刺さった。

好奇、困惑、軽蔑、そして少しの憐れみ。
様々な感情が混ざり合った無数の視線の矢を全身に浴びながら、私は努めて平静を装い、自分の席へと歩き出した。誰も私に話しかけようとはしない。まるで、私という存在の周囲にだけ、目に見えない透明な壁がそびえ立っているかのようだった。

自分の机にたどり着き、鞄を下ろす。
そして、私は無意識のうちに、右斜め前の席へと視線を走らせた。

そこは、結衣の席だった。

結衣の机の上には、何も置かれていなかった。椅子の背もたれには制服の上着もなく、ただ主を失った木製の四角い空間が、そこにあるだけだった。
彼女は、学校に来ていなかった。

(結衣……)

胸の奥が、きゅっと締め付けられるように痛む。
昨日、あの廃校で彼女が最後に見せた、どこか諦めたような、冷たい笑顔が脳裏に蘇る。現実のレールに戻ると彼女は言った。けれど、彼女もまた、私とのあの決定的な決別を経て、心に深い傷を負っているに違いなかった。

キーンコーンカーンコーン――。
朝の予鈴のチャイムが、静まり返った教室に鳴り響いた。
生徒たちがそれぞれの席へと戻り始め、教科書を開く音がサラサラと重なる。日常は、何事もなかったかのように動き出そうとしていた。私の家出も、結衣の不在も、この巨大な学校というシステムの中では、ただの「微細なバグ」として処理されていくのだろう。

私は席に座り、前方の黒板を見つめた。
これから始まる授業の内容なんて、今の私の頭には一切入ってこないだろう。けれど、私は逃げない。この息苦しい日常の真ん中に身を置きながら、私は私だけの色彩を、この退屈な灰色の世界に、少しずつ、けれど確実に滲ませていくのだ。

17歳の夏は、まだ始まったばかりだった。