目覚まし時計の無機質なアラーム音が、午前六時の部屋に鳴り響いた。
私はすぐに手を伸ばしてそれを止め、シーツを跳ね除けた。睡眠時間はわずか三時間程度だったはずだが、頭は驚くほど冴え渡っていた。
制服に袖を通すとき、胸の奥がわずかに軋むような痛みを覚えた。昨日まで、この制服は私を「普通の高校生」という枠に閉じ込めるための拘束衣のように感じられていた。けれど今朝は、これから向かう現実という戦場に赴くための、ただの戦闘服のように思えた。
一階へ下りると、台所からトントンと包丁の音が聞こえてきた。
母はいつも通り、朝食の準備をしていた。私がリビングに入ると、母の動きが一瞬だけ止まった。その目はまだ少し赤く腫れていたけれど、私の方を振り返ると、無理に作ったような、けれど温かい笑顔を浮かべた。
「理央、おはよう。ご飯、できてるよ」
「おはよう、お母さん」
食卓には、ご飯とお味噌汁、そして卵焼きが並んでいた。昨日までの日常と、何一つ変わらない光景。けれど、父の姿はそこになかった。父はいつもより一時間も早く、すでに仕事へ出かけたのだという。それが私と顔を合わせるのを避けるためなのか、あるいは昨日の遅れを取り戻すためなのかは分からなかった。
私は無言で箸を進めた。卵焼きの塩味が、いつもより少しだけ濃く感じられた。母も何も言わずに、テレビのニュース番組を眺めている。アナウンサーが読み上げる事件や事故のニュースが、私たちの間の沈黙を埋める唯一のノイズだった。
「……理央」
私がごちそうさま、と箸を置いたとき、母が静かに私を呼んだ。
「お父さんから聞いたわ。美大に行きたいんだってね」
私は身を固くした。母は、父よりも手堅い安定を望んでいた人だ。私の家出の理由がそれだと知って、どんな反応を示すのか怖かった。
「私にはね、絵の良し悪しなんて分からないわ。お前がどんなにすごい絵を描いているのかも、それを仕事にすることがどれだけ大変なのかも、想像がつかない。……でもね、お前がそこまでして守りたかったものがあるなら、私はそれを頭ごなしに否定することはできないわ」
母は湯呑みを両手で包み込みながら、視線を落とした。
「ただ、約束して。もう二度と、あんな風にいなくならないで。お前がいなくなったあの夜、私は自分がどうにかなってしまいそうだった。お前がどんな道を選んでも、お前が私の娘であることは変わらないんだから」
母の言葉は、私の胸の奥の一番柔らかい部分を優しく揺さぶった。
大人の言う「正しさ」に反発することだけが自立だと思っていた。けれど、大人の側もまた、迷い、傷つきながら、必死に子供を守ろうとしているのだという当たり前の事実に、私は17歳になってようやく気づかされた。
「うん。約束する。もう絶対に、何も言わずにいなくなったりしない」
私は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
玄関でローファーを履き、ドアを開ける。外の空気は、昨日の雨が嘘のようにカラリと乾いていて、初夏の力強い日差しがアスファルトを白く照らし出していた。
駅までの道を歩く足取りは、決して軽くはなかった。
一歩進むごとに、学校という現実が近づいてくる。登校する他校の生徒たちの制服が視界に入るたびに、私の心臓の鼓動が少しずつ速くなっていく。
駅のホームに立つと、見慣れた景色がそこにあった。
いつも結衣と待ち合わせていた、自動販売機の前のベンチ。
当然、そこに結衣の姿はなかった。彼女はもう、私よりもずっと早い電車に乗って学校へ向かったのだろう。あるいは、今日学校を休んでいるのかもしれない。
電車に乗り込み、吊革を掴む。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。目の下には薄っすらとクマができていたけれど、その瞳には、昨日までの迷いや虚無感は消え失せていた。
(私は、私の正解を証明しに行くんだ)
学校の最寄り駅につき、校門へ続く坂道を上る。
すれ違う生徒たちの視線が、一瞬だけ私に注がれ、すぐに逸らされるのを感じた。すでに「特進クラスの宮下理央が家出した」という噂は、学校中に広まっているのだろう。彼らのヒソヒソという話し声が、風に乗って私の耳に届く。
「ねえ、あれ、宮下さんじゃない?」
「昨日、警察沙汰になったって本当かな」
「あんなに真面目そうだったのにね……」
彼らの言葉は、鋭い刃となって私の周囲を飛び交っていた。けれど、今の私には、その刃は皮膚をかすめることすらできなかった。彼らが言っているのは、彼らの都合の良い「宮下理央」という偶像が壊れたことに対する失望に過ぎない。本当の私は、最初から彼らの視界の中にはいなかったのだ。
校舎に入り、下駄箱で上履きに履き替える。
そのまま教室へ向かおうとしたとき、背後から重々しい声が響いた。
「宮下。ちょっと、進路指導室へ来なさい」
振り返ると、そこには眉間に深い皺を刻んだ担任の姿があった。彼の手には、あの図書室に置き去りにされた、私の折りたたまれた進路希望調査票が握られていた。
いよいよ、第一の戦いが始まる。
私は担任の目をまっすぐに見つめ返し、静かに「はい」と答えた。
私はすぐに手を伸ばしてそれを止め、シーツを跳ね除けた。睡眠時間はわずか三時間程度だったはずだが、頭は驚くほど冴え渡っていた。
制服に袖を通すとき、胸の奥がわずかに軋むような痛みを覚えた。昨日まで、この制服は私を「普通の高校生」という枠に閉じ込めるための拘束衣のように感じられていた。けれど今朝は、これから向かう現実という戦場に赴くための、ただの戦闘服のように思えた。
一階へ下りると、台所からトントンと包丁の音が聞こえてきた。
母はいつも通り、朝食の準備をしていた。私がリビングに入ると、母の動きが一瞬だけ止まった。その目はまだ少し赤く腫れていたけれど、私の方を振り返ると、無理に作ったような、けれど温かい笑顔を浮かべた。
「理央、おはよう。ご飯、できてるよ」
「おはよう、お母さん」
食卓には、ご飯とお味噌汁、そして卵焼きが並んでいた。昨日までの日常と、何一つ変わらない光景。けれど、父の姿はそこになかった。父はいつもより一時間も早く、すでに仕事へ出かけたのだという。それが私と顔を合わせるのを避けるためなのか、あるいは昨日の遅れを取り戻すためなのかは分からなかった。
私は無言で箸を進めた。卵焼きの塩味が、いつもより少しだけ濃く感じられた。母も何も言わずに、テレビのニュース番組を眺めている。アナウンサーが読み上げる事件や事故のニュースが、私たちの間の沈黙を埋める唯一のノイズだった。
「……理央」
私がごちそうさま、と箸を置いたとき、母が静かに私を呼んだ。
「お父さんから聞いたわ。美大に行きたいんだってね」
私は身を固くした。母は、父よりも手堅い安定を望んでいた人だ。私の家出の理由がそれだと知って、どんな反応を示すのか怖かった。
「私にはね、絵の良し悪しなんて分からないわ。お前がどんなにすごい絵を描いているのかも、それを仕事にすることがどれだけ大変なのかも、想像がつかない。……でもね、お前がそこまでして守りたかったものがあるなら、私はそれを頭ごなしに否定することはできないわ」
母は湯呑みを両手で包み込みながら、視線を落とした。
「ただ、約束して。もう二度と、あんな風にいなくならないで。お前がいなくなったあの夜、私は自分がどうにかなってしまいそうだった。お前がどんな道を選んでも、お前が私の娘であることは変わらないんだから」
母の言葉は、私の胸の奥の一番柔らかい部分を優しく揺さぶった。
大人の言う「正しさ」に反発することだけが自立だと思っていた。けれど、大人の側もまた、迷い、傷つきながら、必死に子供を守ろうとしているのだという当たり前の事実に、私は17歳になってようやく気づかされた。
「うん。約束する。もう絶対に、何も言わずにいなくなったりしない」
私は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
玄関でローファーを履き、ドアを開ける。外の空気は、昨日の雨が嘘のようにカラリと乾いていて、初夏の力強い日差しがアスファルトを白く照らし出していた。
駅までの道を歩く足取りは、決して軽くはなかった。
一歩進むごとに、学校という現実が近づいてくる。登校する他校の生徒たちの制服が視界に入るたびに、私の心臓の鼓動が少しずつ速くなっていく。
駅のホームに立つと、見慣れた景色がそこにあった。
いつも結衣と待ち合わせていた、自動販売機の前のベンチ。
当然、そこに結衣の姿はなかった。彼女はもう、私よりもずっと早い電車に乗って学校へ向かったのだろう。あるいは、今日学校を休んでいるのかもしれない。
電車に乗り込み、吊革を掴む。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。目の下には薄っすらとクマができていたけれど、その瞳には、昨日までの迷いや虚無感は消え失せていた。
(私は、私の正解を証明しに行くんだ)
学校の最寄り駅につき、校門へ続く坂道を上る。
すれ違う生徒たちの視線が、一瞬だけ私に注がれ、すぐに逸らされるのを感じた。すでに「特進クラスの宮下理央が家出した」という噂は、学校中に広まっているのだろう。彼らのヒソヒソという話し声が、風に乗って私の耳に届く。
「ねえ、あれ、宮下さんじゃない?」
「昨日、警察沙汰になったって本当かな」
「あんなに真面目そうだったのにね……」
彼らの言葉は、鋭い刃となって私の周囲を飛び交っていた。けれど、今の私には、その刃は皮膚をかすめることすらできなかった。彼らが言っているのは、彼らの都合の良い「宮下理央」という偶像が壊れたことに対する失望に過ぎない。本当の私は、最初から彼らの視界の中にはいなかったのだ。
校舎に入り、下駄箱で上履きに履き替える。
そのまま教室へ向かおうとしたとき、背後から重々しい声が響いた。
「宮下。ちょっと、進路指導室へ来なさい」
振り返ると、そこには眉間に深い皺を刻んだ担任の姿があった。彼の手には、あの図書室に置き去りにされた、私の折りたたまれた進路希望調査票が握られていた。
いよいよ、第一の戦いが始まる。
私は担任の目をまっすぐに見つめ返し、静かに「はい」と答えた。



