木造の階段を下りるたびに、軋む音が暗い校舎の奥へと吸い込まれていく。
二階から一階へ、そして昇降口へと向かう数分間は、まるで自分の人生の執行猶予が刻一刻と削り取られていくカウントダウンのようだった。
私の指先は、まだ固形水彩の乾ききらない絵の具で微かに突っ張っている。その不快とも心地よいとも言えない感触だけが、私がさっきまであの教室で「本当の自分」として存在していたことの唯一の証明だった。
割れたガラス扉の隙間から、夜の冷たい空気が校舎内へと流れ込んでくる。雨上がりの空気はひどく澄んでいて、昼間のあの重苦しい湿気やカビの匂いを綺麗に洗い流していた。
外へ出ると、長靴が濡れた雑草を踏みしめるグズ、グズ、という鈍い音が静寂に響く。
校庭の隅に停まった黒いセダンのヘッドライトが、ハイビームのまま私を真っ直ぐに照射した。あまりの眩しさに、私は思わず左手で顔を覆う。光のなかに浮遊する無数の羽虫や、まだ葉先から滴り落ちる雨粒が、まるで舞台の特殊効果のようにキラキラと輝いていた。
車のドアが開く、重々しい金属音がした。
光の向こう側から、見慣れた、しかしどこかいつもより小さく見える影が歩いてくる。
市役所の事務職として、二十年以上、毎日同じ時間に家を出て同じ時間に帰ってきていた私の父親。彼の背中には、彼が信じ、守り続けてきた「堅実さ」という名の目に見えない重荷が、いつも以上に重くのしかかっているように見えた。
「理央」
父の声は、怒りに震えているわけではなかった。むしろ、ひどく疲れ果て、擦り切れたような、聞いたこともないほど低いトーンだった。
彼は私の数歩手前で足を止めた。ヘッドライトを背に受けているため、彼の表情は暗くてよく見えない。けれど、その肩の落ち方だけで、この一日で彼がどれほどの心労を重ねてきたかが痛いほど伝わってきた。
「……心配、かけたね。ごめんなさい」
私は頭を下げた。それは、自分の意志を曲げるための謝罪ではなく、彼らが注いでくれた「親としての愛情」を結果的に裏切ってしまったことに対する、純粋な申し訳なさから出た言葉だった。
「どうして、こんな場所へ来た」
父は私の謝罪を無視するように、静かに問いかけてきた。その口調には、娘の突飛な行動を理解しようとする理性と、理解できないものに対する根源的な恐怖が混ざり合っていた。
「ここには、何もない。お前が探しているようなものは、こんな寂れた場所にはないはずだ。学校の先生からも連絡があった。進路のことで思い悩んでいたそうだな。だが、だからと言って、家を飛び出して、友達にまで迷惑をかけて、こんな真似をする理由にはならない」
父の言葉は、いつも通り理路整然としていた。非の打ち所がない、大人としての「正しさ」。
もし私がこれまでの「良い子」のままであったなら、ここで涙を流して「ごめんなさい、私が間違っていました」と言い、父の差し出す助手席のドアを開けていただろう。そして、何事もなかったかのように地元の国立大学を目指し、父と同じような「安定した正解」のレールへと戻っていったはずだ。
けれど、私の足は、一歩も動かなかった。
「お父さん」
私は顔を上げ、眩しい光の向こうにある父の影を見つめた。
「私はね、何もない場所に来たんじゃないよ。ここには、誰の『正解』もないから来たの」
「……何だと?」
「お父さんの言う通り、ここには何もない。未来も、安定も、就職先も、何もない。でもね、誰からも『こうしなさい』って言われないの。私が美大に行きたいって言ったら、お父さんはきっと『将来どうするんだ』って言うでしょ? 先生は『手堅い道を選べ』って言う。結衣だって、私の背中を見て自分の正解を探してた。みんなが私に、誰かの作った正解を押し付けてくる。それが、どうしても息が苦しかったの」
一気に言葉が溢れ出た。
父は黙って私の言葉を聞いていた。風が吹き抜け、父のネクタイが小さく揺れる。普段なら絶対に乱れることのないその衣服が、今の彼の内面の動揺を物語っているようだった。
「理央、お前はまだ若い。十七歳だ。社会がどれだけ厳しいか、絵を職にすることがどれほど無謀か、何も分かっていないんだ。私や母さんがお前に安定を勧めるのは、お前を縛りたいからじゃない。お前に苦労をしてほしくないからだ。それが、親としての責任だろう」
「分かってるよ……!」
私の声が、夜の校庭に響いた。
「分かっているから、苦しかったの。お父さんたちの言葉が、私を愛してくれているからこその言葉だって、痛いほど分かっていたから。だから、自分の『好き』を通すことが、まるで二人への裏切りみたいに思えて、ずっと自分を責めてた。でもね、誰かを安心させるために自分の人生を諦めるのが『大人になること』なら、私は一生、子供のままでいい」
私は鞄の紐をきつく握りしめた。
「私は、自分の人生で失敗したいの。お父さんの言う通りのレールを歩いて、もし不幸になったら、私はきっとお父さんたちのせいにしちゃう。そんなの、絶対に嫌だ。自分の足で歩いて、自分の選んだ道で転んで、血を流して、それでも『これが私の人生だ』って、自分の口で言いたいの」
ヘッドライトの光の中で、父が初めて、小さく息を呑む音が聞こえた。
彼にとって、私はいつも手のかからない、大人の言うことをよく聞く「透明な存在」だったはずだ。その娘が、今、泥にまみれた靴で立ち、自分の言葉で、自分の正解を激しく主張している。
沈黙が、私たちの間に重たく降り積もる。雨上がりの虫の声だけが、その沈黙を埋めるように鳴り続けていた。
父はゆっくりと天を仰ぎ、それから私を見た。彼の瞳に、車の光が反射して、微かに潤んでいるように見えたのは、私の錯覚だったのだろうか。
「……車に乗れ」
長い沈黙の後、父が告げたのは、それだけの言葉だった。
しかし、その声からは、さっきまでの「絶対的な正しさ」が、少しだけ剥がれ落ちているような気がした。
私は拒絶しなかった。自分の意志を伝えた今、現実から逃げ続ける必要はもうない。
私は静かに歩き出し、セダンの助手席のドアを開けた。
車内には、子供の頃からずっと変わらない、父の車の匂いが満ちていた。けれど、その助手席に座る私は、あの頃の、何も知らなかった無力な少女ではもうなかった。
二階から一階へ、そして昇降口へと向かう数分間は、まるで自分の人生の執行猶予が刻一刻と削り取られていくカウントダウンのようだった。
私の指先は、まだ固形水彩の乾ききらない絵の具で微かに突っ張っている。その不快とも心地よいとも言えない感触だけが、私がさっきまであの教室で「本当の自分」として存在していたことの唯一の証明だった。
割れたガラス扉の隙間から、夜の冷たい空気が校舎内へと流れ込んでくる。雨上がりの空気はひどく澄んでいて、昼間のあの重苦しい湿気やカビの匂いを綺麗に洗い流していた。
外へ出ると、長靴が濡れた雑草を踏みしめるグズ、グズ、という鈍い音が静寂に響く。
校庭の隅に停まった黒いセダンのヘッドライトが、ハイビームのまま私を真っ直ぐに照射した。あまりの眩しさに、私は思わず左手で顔を覆う。光のなかに浮遊する無数の羽虫や、まだ葉先から滴り落ちる雨粒が、まるで舞台の特殊効果のようにキラキラと輝いていた。
車のドアが開く、重々しい金属音がした。
光の向こう側から、見慣れた、しかしどこかいつもより小さく見える影が歩いてくる。
市役所の事務職として、二十年以上、毎日同じ時間に家を出て同じ時間に帰ってきていた私の父親。彼の背中には、彼が信じ、守り続けてきた「堅実さ」という名の目に見えない重荷が、いつも以上に重くのしかかっているように見えた。
「理央」
父の声は、怒りに震えているわけではなかった。むしろ、ひどく疲れ果て、擦り切れたような、聞いたこともないほど低いトーンだった。
彼は私の数歩手前で足を止めた。ヘッドライトを背に受けているため、彼の表情は暗くてよく見えない。けれど、その肩の落ち方だけで、この一日で彼がどれほどの心労を重ねてきたかが痛いほど伝わってきた。
「……心配、かけたね。ごめんなさい」
私は頭を下げた。それは、自分の意志を曲げるための謝罪ではなく、彼らが注いでくれた「親としての愛情」を結果的に裏切ってしまったことに対する、純粋な申し訳なさから出た言葉だった。
「どうして、こんな場所へ来た」
父は私の謝罪を無視するように、静かに問いかけてきた。その口調には、娘の突飛な行動を理解しようとする理性と、理解できないものに対する根源的な恐怖が混ざり合っていた。
「ここには、何もない。お前が探しているようなものは、こんな寂れた場所にはないはずだ。学校の先生からも連絡があった。進路のことで思い悩んでいたそうだな。だが、だからと言って、家を飛び出して、友達にまで迷惑をかけて、こんな真似をする理由にはならない」
父の言葉は、いつも通り理路整然としていた。非の打ち所がない、大人としての「正しさ」。
もし私がこれまでの「良い子」のままであったなら、ここで涙を流して「ごめんなさい、私が間違っていました」と言い、父の差し出す助手席のドアを開けていただろう。そして、何事もなかったかのように地元の国立大学を目指し、父と同じような「安定した正解」のレールへと戻っていったはずだ。
けれど、私の足は、一歩も動かなかった。
「お父さん」
私は顔を上げ、眩しい光の向こうにある父の影を見つめた。
「私はね、何もない場所に来たんじゃないよ。ここには、誰の『正解』もないから来たの」
「……何だと?」
「お父さんの言う通り、ここには何もない。未来も、安定も、就職先も、何もない。でもね、誰からも『こうしなさい』って言われないの。私が美大に行きたいって言ったら、お父さんはきっと『将来どうするんだ』って言うでしょ? 先生は『手堅い道を選べ』って言う。結衣だって、私の背中を見て自分の正解を探してた。みんなが私に、誰かの作った正解を押し付けてくる。それが、どうしても息が苦しかったの」
一気に言葉が溢れ出た。
父は黙って私の言葉を聞いていた。風が吹き抜け、父のネクタイが小さく揺れる。普段なら絶対に乱れることのないその衣服が、今の彼の内面の動揺を物語っているようだった。
「理央、お前はまだ若い。十七歳だ。社会がどれだけ厳しいか、絵を職にすることがどれほど無謀か、何も分かっていないんだ。私や母さんがお前に安定を勧めるのは、お前を縛りたいからじゃない。お前に苦労をしてほしくないからだ。それが、親としての責任だろう」
「分かってるよ……!」
私の声が、夜の校庭に響いた。
「分かっているから、苦しかったの。お父さんたちの言葉が、私を愛してくれているからこその言葉だって、痛いほど分かっていたから。だから、自分の『好き』を通すことが、まるで二人への裏切りみたいに思えて、ずっと自分を責めてた。でもね、誰かを安心させるために自分の人生を諦めるのが『大人になること』なら、私は一生、子供のままでいい」
私は鞄の紐をきつく握りしめた。
「私は、自分の人生で失敗したいの。お父さんの言う通りのレールを歩いて、もし不幸になったら、私はきっとお父さんたちのせいにしちゃう。そんなの、絶対に嫌だ。自分の足で歩いて、自分の選んだ道で転んで、血を流して、それでも『これが私の人生だ』って、自分の口で言いたいの」
ヘッドライトの光の中で、父が初めて、小さく息を呑む音が聞こえた。
彼にとって、私はいつも手のかからない、大人の言うことをよく聞く「透明な存在」だったはずだ。その娘が、今、泥にまみれた靴で立ち、自分の言葉で、自分の正解を激しく主張している。
沈黙が、私たちの間に重たく降り積もる。雨上がりの虫の声だけが、その沈黙を埋めるように鳴り続けていた。
父はゆっくりと天を仰ぎ、それから私を見た。彼の瞳に、車の光が反射して、微かに潤んでいるように見えたのは、私の錯覚だったのだろうか。
「……車に乗れ」
長い沈黙の後、父が告げたのは、それだけの言葉だった。
しかし、その声からは、さっきまでの「絶対的な正しさ」が、少しだけ剥がれ落ちているような気がした。
私は拒絶しなかった。自分の意志を伝えた今、現実から逃げ続ける必要はもうない。
私は静かに歩き出し、セダンの助手席のドアを開けた。
車内には、子供の頃からずっと変わらない、父の車の匂いが満ちていた。けれど、その助手席に座る私は、あの頃の、何も知らなかった無力な少女ではもうなかった。



