『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

耳元から聞こえるデジタル特有の電子音声と、目の前に立つ結衣の唇の動きが、完全に重なっていた。
その事実を脳が理解するまでに、数秒の空白が必要だった。世界からすべての音が消え去り、ただ窓を叩く激しい雨の振動だけが、床を通じて私の足の裏へと伝わってくる。

「……なんで」

私の口から漏れたのは、声にすらならない掠れた空気の塊だった。
結衣はゆっくりとスマホを耳から離し、通話切断のボタンを押した。私の手の中にある端末も、ぷつりと短い音を立てて、画面が元の薄暗いホーム画面へと戻る。

「なんで、結衣が……Kなの?」

目の前にいるのは、毎日一緒に登校し、くだらないお喋りに興じ、購買のパンの新作を分け合っていた、私の知る「普通の高校生」の結衣だ。しかし今、彼女の背後に重なって見えるのは、深夜の暗闇の中で私を肯定し、揺さぶり、世界の果てへと誘い続けたあの「K」の影だった。

「気づいてほしかったよ、理央」

結衣は、手に持っていたスマホを乱暴に床へと放り出した。古い木製の床に当たり、プラスチックのケースが鈍い音を立てて転がる。

「私がどんなに理央を見ていても、理央は現実の私を一度も見ようとしてくれなかった。いつも何かを隠して、私の前では『手堅い優等生』のフリをして。でも、理央の目が死んでいくのを、私は隣でずっと見てたんだよ」

結衣の一歩が、床板をきしませる。その音は、さっき廊下で聞いた足音よりもずっと重く、私の胸を圧迫した。

「ある日、偶然見つけたんだ。ネットの海で、理央の描いたあの鳥の絵を。名前もアカウント名も違ったけれど、一目で分かった。だって、理央が授業中に教科書の余白に描いてた線の引き方と、まったく同じだったから。そのとき、私、すごく悲しかったんだ。どうして現実の私には、そんな生々しい叫びを一つも見せてくれないんだろうって」

結衣の言葉は、非難というよりも、血を流すような告白だった。
私は一歩、また一歩と、無意識のうちに後ろへ下がっていた。背中が冷たい黒板にぶつかる。もう逃げ場はなかった。

「だから、Kになったの。現実の結衣として『美大に行きなよ』なんて言ったら、理央はきっと、また殻に閉じこもって笑顔で誤魔化したでしょう? 『そんなことないよ、私は国立に行くよ』って。だから、誰でもない匿名の人格として、理央の本当の心を暴き出したかった。理央が、誰の正解でもない、理央だけの正解を叫ぶところを見たかったの」

「そんなの……悪趣味だよ」

私は声を震わせながら、爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。

「私は本気で悩んでたんだよ!? Kの言葉に、どれだけ救われて、どれだけ必死にしがみついてたか……! それを、全部結衣が裏でコントロールしてたなんて、私を騙して面白がってただけじゃない!」

「面白がってなんかいない!」

結衣が激高した。彼女の顔は怒りと涙でぐしゃぐしゃになり、私を睨みつける瞳には、狂気にも似た痛烈な感情が宿っていた。

「救われてたのは、私の方だよ! 理央が『K』に向かって吐き出すドロドロした本音だけが、私にとってのリアルだった! 学校での私は、親の言う通りに勉強して、進路を選んで、理央の引き立て役として笑ってるだけの、空っぽの人形だった。でも、ネットの中で『K』として理央と対峙しているときだけは、私は誰かの人生に深く関わっている、生きている人間になれたんだよ!」

廃校の教室に、結衣の叫びが木霊する。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
私は、自分が被害者だと思い込んでいた。自分だけが特別な苦しみを抱え、周囲の人間は誰もそれを理解してくれないと、世界を敵に回したような気になっていた。
けれど、違った。
私のすぐ隣で、同じように「誰かの正解」に窒息しかけていた結衣は、私の歪んだ叫びを養分にして、辛うじて自分の存在を保っていたのだ。

(私たちは、二人とも狂っていたんだ)

お互いがお互いの「正解」を求め、傷つけ合い、依存し合っていた。現実の世界では決して触れ合えなかった魂の暗部が、SNSという歪んだ鏡を通じて、最悪の形で結びついていた。

「理央、もう終わりにしよう」

結衣は涙を拭い、ふっと力を抜いたように微笑んだ。その笑顔は、かつてネットの画面越しに感じた「K」の冷徹な優しさに、酷似していた。

「私は現実のレールに戻る。明日からは、また普通の結衣として、親の言う通りの大学を目指して勉強する。それが私にできる、唯一の『正しい生き方』だから。でも、理央は違うでしょう? 理央は、ここから本当に逃げなきゃいけない。私の作った『K』っていう幻想さえも振り切って、本物の独りになって、絵を描き続けなきゃいけないんだよ」

結衣は床に落ちていたスマホを拾い上げ、鞄にしまった。そして、一度も振り返ることなく、教室の入り口へと歩き出す。

「結衣、待って……!」

私が伸ばした手は、彼女の制服の袖をかすめることすらできなかった。
引き戸が静かに閉まり、廊下を遠ざかっていく足音が、激しい雨音の中に少しずつ溶けて消えていく。

教室に残されたのは、私一人だった。
机の上には、私のすべての葛藤が詰まったスケッチブック。
窓の外では、世界を灰色に塗りつぶす雨が、終わりのないビートを刻み続けている。

私はゆっくりと崩れ落ち、冷たい床に膝をついた。
Kは消えた。親友の結衣も、もう私の知る彼女ではなくなってしまった。
本当の孤独。それは、息ができないほど寒く、そして驚くほどに、透明で自由な空間だった。

私は、震える手でスケッチブックを開いた。
新しいページ。そこにはまだ、何も描かれていない。
誰の正解も、誰の期待も、誰の呪いもない、真っ白な未来が、そこにあった。