雨音が教室の静寂を暴力的に塗り替えていく中、私は入り口に立つ人物から目を離すことができなかった。
制服の肩を濡らし、少し乱れた髪の間から私をまっすぐに見つめているのは、結衣だった。
「……どうして、ここが分かったの?」
私の声は、雨の音にかき消されそうなほど震えていた。
結衣は肩で息をしながら、ゆっくりと教室の中へ入ってきた。彼女の手には、私と同じように雨で少し濡れたスマートフォンが握られている。
「理央が教えてくれたんだよ。その、スマホの中で」
結衣はそう言って、画面を私に向けた。そこに表示されていたのは、私が「Bird_in_the_cage」として投稿した最新の絵――あの、廃校の黒板を背景に描いた、自分を縛る鳥の絵だった。
「この黒板の傷、見覚えがあったの。私たちが小学校のとき、遠足で一度だけ来た、あの裏山の廃校でしょう? 理央が昔、ここで秘密基地を作りたいって言ってたの、私、ずっと覚えてたから」
結衣の言葉に、私は目を見開いた。
忘れていた。私自身ですら意識の底に沈めていた幼い頃の記憶を、結衣はまだ大切に持っていたのだ。私がSNSという匿名の海で必死に叫んでいた言葉を、彼女は現実の「理央」というフィルターを通して、誰よりも正確に受信していた。
「学校、大騒ぎだよ。おじさんもおばさんも、警察に相談するって泣いてた。……ねえ、理央。どうして何も言ってくれなかったの? 美大に行きたいなら、そう言えばよかったじゃない。私なら、絶対に味方したのに」
結衣の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙は、私に対する純粋な心配と、何も打ち明けられなかったことへの深い拒絶感からくるものだと、すぐに分かった。
「言えるわけないよ……!」
気づけば、私は叫んでいた。自分でも驚くほどの怒りが、言葉となって口から飛び出していた。
「結衣には分からないよ! 『言えばよかった』なんて、そんな簡単に言わないで! お父さんのあの期待に満ちた目が、お母さんの『手堅いのが一番』っていうあの笑顔が、どれだけ私を追い詰めていたか、結衣に何が分かるの!?」
私の怒声は、激しい雨音さえも一瞬だけ圧倒した。
結衣は怯えたように身を引いたが、その瞳からは逸らさなかった。
「私はね、結衣みたいに器用に生きられないの。親の敷いたレールの上を、疑問も持たずに歩ける結衣が、羨ましくて、同時にすごく憎かった。みんなが『それが正解だ』って言う場所に、私はどうしても行けないの。そこに行ったら、私は私じゃなくなっちゃうんだよ!」
胸の中に溜まっていたドロドロとした感情を、すべて結衣にぶちまけた。
彼女を傷つけたいわけではなかった。けれど、彼女の「正しさ」や「優しさ」が、今の私にとっては、世間が押し付けてくる「正解」の縮図のように見えて、耐えられなかったのだ。
結衣はしばらくの間、何も言わずに私の言葉を受け止めていた。雨水と涙で濡れた彼女の顔は、ひどく痛々しかった。
「……そっか。私は、理央を追い詰めてたんだね」
結衣の声は、驚くほど静かだった。
「私は、理央が優秀で、何でもできて、いつも私の先を歩いていると思ってた。だから、理央が選ぶ道なら何でもそれが『正解』なんだって、信じ込んでた。私の進路だって、理央が地元の国立に行くって言うから、私もそこを目指せば間違いないやって……そう思って、必死に単語帳をめくってたんだよ」
結衣の口から語られた事実に、私は言葉を失った。
彼女もまた、私の背中を「正解」の標識にして、迷いながら歩いていたのだ。私という存在が、彼女にとっての檻であり、道標でもあった。
「私たちは、お互いに誰かの正解になり合おうとして、勝手に苦しんでたんだね」
結衣が小さく自嘲気味に笑った。その笑顔は、どこか諦めに似ていて、そして妙に大人びて見えた。
そのとき、私のポケットの中でスマホが一度だけ短く震えた。
画面を見ると、Kからの新しいメッセージが届いていた。
『目の前にいるその少女は、君の過去であり、現実だ。理央さん、君はどうする? 彼女を巻き込んで一緒に墜落するか、それとも、彼女を突き放して本当の孤独を手に入れるか』
Kの言葉が、私の脳内で冷酷に響く。
結衣の手を掴んで、このままどこか遠くへ逃げるか。それとも、彼女を置いて、完全に一人になるか。
17歳の私に突きつけられた選択肢は、どちらを選んでも血を流すような、残酷なものばかりだった。
私はゆっくりとスケッチブックを閉じ、鞄にしまった。
雨は激しさを増し、古い校舎を完全に外界から切り離していく。この灰色の空間の中で、私と結衣の「正解」が、今まさに激しくぶつかり合い、溶け合おうとしていた。
制服の肩を濡らし、少し乱れた髪の間から私をまっすぐに見つめているのは、結衣だった。
「……どうして、ここが分かったの?」
私の声は、雨の音にかき消されそうなほど震えていた。
結衣は肩で息をしながら、ゆっくりと教室の中へ入ってきた。彼女の手には、私と同じように雨で少し濡れたスマートフォンが握られている。
「理央が教えてくれたんだよ。その、スマホの中で」
結衣はそう言って、画面を私に向けた。そこに表示されていたのは、私が「Bird_in_the_cage」として投稿した最新の絵――あの、廃校の黒板を背景に描いた、自分を縛る鳥の絵だった。
「この黒板の傷、見覚えがあったの。私たちが小学校のとき、遠足で一度だけ来た、あの裏山の廃校でしょう? 理央が昔、ここで秘密基地を作りたいって言ってたの、私、ずっと覚えてたから」
結衣の言葉に、私は目を見開いた。
忘れていた。私自身ですら意識の底に沈めていた幼い頃の記憶を、結衣はまだ大切に持っていたのだ。私がSNSという匿名の海で必死に叫んでいた言葉を、彼女は現実の「理央」というフィルターを通して、誰よりも正確に受信していた。
「学校、大騒ぎだよ。おじさんもおばさんも、警察に相談するって泣いてた。……ねえ、理央。どうして何も言ってくれなかったの? 美大に行きたいなら、そう言えばよかったじゃない。私なら、絶対に味方したのに」
結衣の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙は、私に対する純粋な心配と、何も打ち明けられなかったことへの深い拒絶感からくるものだと、すぐに分かった。
「言えるわけないよ……!」
気づけば、私は叫んでいた。自分でも驚くほどの怒りが、言葉となって口から飛び出していた。
「結衣には分からないよ! 『言えばよかった』なんて、そんな簡単に言わないで! お父さんのあの期待に満ちた目が、お母さんの『手堅いのが一番』っていうあの笑顔が、どれだけ私を追い詰めていたか、結衣に何が分かるの!?」
私の怒声は、激しい雨音さえも一瞬だけ圧倒した。
結衣は怯えたように身を引いたが、その瞳からは逸らさなかった。
「私はね、結衣みたいに器用に生きられないの。親の敷いたレールの上を、疑問も持たずに歩ける結衣が、羨ましくて、同時にすごく憎かった。みんなが『それが正解だ』って言う場所に、私はどうしても行けないの。そこに行ったら、私は私じゃなくなっちゃうんだよ!」
胸の中に溜まっていたドロドロとした感情を、すべて結衣にぶちまけた。
彼女を傷つけたいわけではなかった。けれど、彼女の「正しさ」や「優しさ」が、今の私にとっては、世間が押し付けてくる「正解」の縮図のように見えて、耐えられなかったのだ。
結衣はしばらくの間、何も言わずに私の言葉を受け止めていた。雨水と涙で濡れた彼女の顔は、ひどく痛々しかった。
「……そっか。私は、理央を追い詰めてたんだね」
結衣の声は、驚くほど静かだった。
「私は、理央が優秀で、何でもできて、いつも私の先を歩いていると思ってた。だから、理央が選ぶ道なら何でもそれが『正解』なんだって、信じ込んでた。私の進路だって、理央が地元の国立に行くって言うから、私もそこを目指せば間違いないやって……そう思って、必死に単語帳をめくってたんだよ」
結衣の口から語られた事実に、私は言葉を失った。
彼女もまた、私の背中を「正解」の標識にして、迷いながら歩いていたのだ。私という存在が、彼女にとっての檻であり、道標でもあった。
「私たちは、お互いに誰かの正解になり合おうとして、勝手に苦しんでたんだね」
結衣が小さく自嘲気味に笑った。その笑顔は、どこか諦めに似ていて、そして妙に大人びて見えた。
そのとき、私のポケットの中でスマホが一度だけ短く震えた。
画面を見ると、Kからの新しいメッセージが届いていた。
『目の前にいるその少女は、君の過去であり、現実だ。理央さん、君はどうする? 彼女を巻き込んで一緒に墜落するか、それとも、彼女を突き放して本当の孤独を手に入れるか』
Kの言葉が、私の脳内で冷酷に響く。
結衣の手を掴んで、このままどこか遠くへ逃げるか。それとも、彼女を置いて、完全に一人になるか。
17歳の私に突きつけられた選択肢は、どちらを選んでも血を流すような、残酷なものばかりだった。
私はゆっくりとスケッチブックを閉じ、鞄にしまった。
雨は激しさを増し、古い校舎を完全に外界から切り離していく。この灰色の空間の中で、私と結衣の「正解」が、今まさに激しくぶつかり合い、溶け合おうとしていた。



