『好きなこと』を職業にするのは、わがままなことなのか?

錆びついた校門をすり抜けると、足元の雑草が朝露で制服のローファーを濡らした。
かつて子供たちの歓声で満たされていたであろう廃校の敷地は、今や完全に時間の流れから見放され、深い沈黙の中に沈んでいる。ひび割れたアスファルトの隙間から逞しく伸びる名もなき草花が、まるでこの場所を人間から奪い返そうとしているかのようだった。

昇降口のガラス扉は、何年も前に貼られたきりであろう茶色く変色したガムテープでバツ印に補強されていた。引手を引いてみると、ガタガタと鈍い音を立てるだけで鍵はかかっている。私は建物の側面に回り込み、半開きになっていた一階の窓を見つけた。アルミのサッシが擦れ合う不快な金属音を立てながら、私は泥にまみれるのも構わずに校舎の中へと滑り込んだ。

一歩足を踏み入れた瞬間、鼻腔を突いたのは、古い木材と埃、そして強烈なカビの匂いだった。
廊下は薄暗く、外の眩しい太陽の光が窓ガラスの汚れに遮られて、床に淡い斑点模様を作っている。誰もいない廊下に、私の足音だけが不自然なほど大きく響いた。歩くたびに、床板がミシミシと悲鳴を上げる。その音が、まるで私という侵入者を拒絶しているようでもあり、あるいは、長い孤独から目覚めた場所が歓迎しているようでもあった。

私は階段を上がり、二階の一番奥にある教室へと向かった。
教室のドアは開け放たれていた。中には、いくつかの机と椅子が乱雑に残されており、黒板にはいつのものかもわからない「さようなら」という文字が、薄く消えかかったチョークの跡として残っていた。

私は窓際の、一番日当たりの良い席にある机に腰掛けた。埃が舞い上がり、光の粒となって空気中を浮遊する。その光景があまりにも美しくて、私はしばらく息をすることすら忘れて見入ってしまった。

(ここには、誰もいない。私のことを知っている人も、私に期待する人も、誰も)

鞄から、もう何度もめくられて端がボロボロになったスケッチブックを取り出す。
鉛筆を握る指先は、冷たかった。けれど、胸の奥にある熱は、学校を飛び出したあの瞬間から少しも衰えていない。むしろ、孤立を深めるごとに、その熱はより純度を増して、私の内側を焼き焦がそうとしていた。

私は描き始めた。
今度は、具体的な形を持たない抽象的な線だった。
鋭く尖った線が、紙の上で激しく交差する。それは私の焦燥であり、怒りであり、そしてどうしようもないほどの寂しさだった。
なぜ、普通に生きることがこれほどまでに難しいのだろう。
なぜ、親の言う「安定」という正解を受け入れるだけで、私は私を殺さなければならないのだろう。
周囲の人間が提示する「幸せの形」は、どれも模造品のように綺麗で、均一で、血が通っていないように見えた。その中に自分の身を浸すことは、緩やかな死と同義だった。

どれほどの時間が経っただろうか。
鉛筆の芯が激しく摩耗し、指先が黒く汚れるのも構わずに筆を動かし続けた。
ふと、外の光の色が変わっていることに気づく。青かった空は、いつの間にか厚い雲に覆われ、世界は急速に灰色へと染まり始めていた。遠くで、ゴロゴロと地鳴りのような雷鳴が聞こえる。雨が降るのだろう。

私は筆を止め、深く長い溜息をついた。
スケッチブックに広がっていたのは、黒い渦のような絵だった。中央には、辛うじて一筋の白い光が残されている。それが私の、最後の足掻きだった。

鞄の底に眠らせていたスマホが気になり、私は躊躇いながらも電源ボタンを押した。
数秒の沈黙の後、液晶画面が起動し、恐ろしいほどの速度で通知が画面を埋め尽くしていく。
不在着信が数十件。母から、父から、そして学校の担任から。
LINEのメッセージも、既読をつけられないほどの数が溜まっている。結衣からの「どこにいるの? 心配だよ」という文字が、私の胸をちくりと刺した。彼女の優しさは本物だ。けれど、その優しさに甘えてしまえば、私はまたあの息苦しい鳥籠へと連れ戻されてしまう。

しかし、その膨大なノイズの中に、一つだけ、私の目を引くメッセージがあった。
SNSのダイレクトメッセージ。送り主は、K。

『理央さん。君が今、どこにいるのか大体の予測はつくよ。君の絵の中に描かれている影の角度と、光の質。それは、あの街の外れにある場所だろう?』

心臓が、ドクンと大きく脈打った。
なぜ。どうしてKが、私の居場所を知っているのか。
冷や汗が背中を伝う。Kはただのネットの住人ではなかったのか。私の絵を見るだけで、私の現在地まで見抜いてしまうというのか。

『現実から逃げるのは悪くない。でもね、逃げた先にも必ず、誰かの足音が追いかけてくる。君が本当の意味で「自分だけの正解」を手に入れたいなら、その足音の主と対峙しなければならない』

メッセージの直後、廊下の奥から、かすかな音が聞こえた。
ミシ……ミシ……。
それは、古い床板が人間の体重を支えて軋む、確かな足音だった。
風の音ではない。ネズミなどの小動物の立てる音でもない。

一歩、また一歩と、その足音は確実に、私がいるこの教室へと近づいてきている。

私はスマホを握りしめたまま、立ち上がった。呼吸が浅くなり、鼓動が耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。
誰が来たのだろう。
私を連れ戻しに来た父親か。それとも、私の失踪を咎める警察か。あるいは――。

教室の入り口の引き戸が、静かに、ゆっくりと横にスライドした。
隙間から現れたその人影を見た瞬間、私は声を失った。
そこには、私が全く予想だにしていなかった人物が、激しい雨の匂いを纏って立っていた。

窓の外で、ついに大粒の雨が激しく建物を叩きつけ始めた。
灰色のカーテンコールは、最悪の、そして最高に劇的な形で、第二幕を迎えようとしていた。