森へ続く小道は、アスファルトの熱が嘘のように消え、湿った土と木々の香りに満ちていた。
私は歩きながら、自分が今何をしているのかを考えていた。家出。逃走。あるいは、ただの無責任な放棄か。どの言葉を当てはめても、今の自分の心境にはしっくりこない。
ふと、森の入り口にある古い公衆電話の前で足が止まった。
受話器を握る必要はない。携帯電話という便利な道具がある今の時代に、わざわざこれを使う理由もない。けれど、その受話器を耳に当てたとき、かつて父から言われた言葉が蘇った。
『理央、人生にはな、引き返せる地点と、引き返せない地点があるんだ。今のお前にはまだ選択の余地がある。だから、よく考えて道を選べ』
あのとき、父は私を案じてそう言ったのだろう。でも、父が言った「道」は、最初から舗装された一本道のことだったはずだ。
私は電話機を見つめ、静かに受話器を置いた。もう私には、舗装された道など必要ない。私は今、誰の足跡もない泥道を選んで歩いているのだから。
森の奥深く、陽の光が木漏れ日となって落ちる広場にたどり着くと、私は鞄からスケッチブックを取り出した。
ここには、誰の視線もない。評価も、ラベルもない。ただ、私と鉛筆と、私の中にある空虚だけが残されている。
描き始めたのは、昨夜のネットカフェで見た「自分をラベル貼りする群衆」の姿だった。無数の手が私に「正解」という名札を貼り付けようと伸びてくる。それを振り払い、自分の色で塗りつぶそうとする少女。
描いているうちに、自分の呼吸が深くなるのを感じた。
鉛筆が紙を走る音だけが、世界のすべてになる。
この瞬間だけは、私は誰でもない。ただの、存在しているだけの私だ。
そのとき、スマホが静かに震えた。着信だ。
画面には「母」の文字。
私はその画面を、じっと見つめた。
出るべきか、出ないべきか。
出れば、母は泣くだろう。そして「どうしてこんなことをしたの」「家に帰ってきて」と繰り返すだろう。その声は、私を愛しているからこその言葉であると同時に、私を「元の理央」という箱に戻すための鎖でもある。
私は画面をスワイプし、着信を拒否した。
代わりに、Kにメッセージを送った。
『K、今、森にいる。ここには私と、私の描くものしかない』
数分後、返信が届く。
『そこは、君だけの結界だね。でも、理央さん。いつまでその結界の中にいられるかな? 現実は、君が閉じこもっていても、扉を叩き続けるよ』
Kの言葉は、いつもどこか突き放しているようで、それでいて私を現実に繋ぎ止めていた。結界。そう、ここは結界だ。でも、いつかは外に出なければならないことも、私は分かっていた。
私は空を見上げた。木々の隙間から見える空は、相変わらずどこまでも青い。
この青さに、私はどんな名前を付ければいいんだろう。
社会が正解と呼ぶものとは違う、私だけの名前を。
私は立ち上がり、再び歩き始めた。森の奥には、さらに道が続いていた。
どこへつながっているのかは知らない。でも、この先に、私の探し求めている「答え」があるような気がした。
スマホの通知音がまた響く。
今度は、見知らぬ番号からの着信だった。報道関係者か、それともただの野次馬か。
私はスマホの電源を切り、鞄の底に放り込んだ。
今日この日は、誰とも繋がらない。
私の物語は、他人に語られるためのものじゃない。私が私自身のために紡ぐ、ただの個人的な独白だ。
森を抜けた先に、かつて廃校になった校舎が見えてきた。
雑草に覆われたその場所は、まるで時が止まったかのように静かだった。
ここなら、もう少し長く、自分自身の衝動と対峙できるかもしれない。
私は錆びついた門を押し、敷地の中へ足を踏み入れた。
灰色のカーテンコールは、まだ始まったばかりだ。
私は、自分自身という名の観客を前に、最初で最後の独演会を始めようとしていた。
私は歩きながら、自分が今何をしているのかを考えていた。家出。逃走。あるいは、ただの無責任な放棄か。どの言葉を当てはめても、今の自分の心境にはしっくりこない。
ふと、森の入り口にある古い公衆電話の前で足が止まった。
受話器を握る必要はない。携帯電話という便利な道具がある今の時代に、わざわざこれを使う理由もない。けれど、その受話器を耳に当てたとき、かつて父から言われた言葉が蘇った。
『理央、人生にはな、引き返せる地点と、引き返せない地点があるんだ。今のお前にはまだ選択の余地がある。だから、よく考えて道を選べ』
あのとき、父は私を案じてそう言ったのだろう。でも、父が言った「道」は、最初から舗装された一本道のことだったはずだ。
私は電話機を見つめ、静かに受話器を置いた。もう私には、舗装された道など必要ない。私は今、誰の足跡もない泥道を選んで歩いているのだから。
森の奥深く、陽の光が木漏れ日となって落ちる広場にたどり着くと、私は鞄からスケッチブックを取り出した。
ここには、誰の視線もない。評価も、ラベルもない。ただ、私と鉛筆と、私の中にある空虚だけが残されている。
描き始めたのは、昨夜のネットカフェで見た「自分をラベル貼りする群衆」の姿だった。無数の手が私に「正解」という名札を貼り付けようと伸びてくる。それを振り払い、自分の色で塗りつぶそうとする少女。
描いているうちに、自分の呼吸が深くなるのを感じた。
鉛筆が紙を走る音だけが、世界のすべてになる。
この瞬間だけは、私は誰でもない。ただの、存在しているだけの私だ。
そのとき、スマホが静かに震えた。着信だ。
画面には「母」の文字。
私はその画面を、じっと見つめた。
出るべきか、出ないべきか。
出れば、母は泣くだろう。そして「どうしてこんなことをしたの」「家に帰ってきて」と繰り返すだろう。その声は、私を愛しているからこその言葉であると同時に、私を「元の理央」という箱に戻すための鎖でもある。
私は画面をスワイプし、着信を拒否した。
代わりに、Kにメッセージを送った。
『K、今、森にいる。ここには私と、私の描くものしかない』
数分後、返信が届く。
『そこは、君だけの結界だね。でも、理央さん。いつまでその結界の中にいられるかな? 現実は、君が閉じこもっていても、扉を叩き続けるよ』
Kの言葉は、いつもどこか突き放しているようで、それでいて私を現実に繋ぎ止めていた。結界。そう、ここは結界だ。でも、いつかは外に出なければならないことも、私は分かっていた。
私は空を見上げた。木々の隙間から見える空は、相変わらずどこまでも青い。
この青さに、私はどんな名前を付ければいいんだろう。
社会が正解と呼ぶものとは違う、私だけの名前を。
私は立ち上がり、再び歩き始めた。森の奥には、さらに道が続いていた。
どこへつながっているのかは知らない。でも、この先に、私の探し求めている「答え」があるような気がした。
スマホの通知音がまた響く。
今度は、見知らぬ番号からの着信だった。報道関係者か、それともただの野次馬か。
私はスマホの電源を切り、鞄の底に放り込んだ。
今日この日は、誰とも繋がらない。
私の物語は、他人に語られるためのものじゃない。私が私自身のために紡ぐ、ただの個人的な独白だ。
森を抜けた先に、かつて廃校になった校舎が見えてきた。
雑草に覆われたその場所は、まるで時が止まったかのように静かだった。
ここなら、もう少し長く、自分自身の衝動と対峙できるかもしれない。
私は錆びついた門を押し、敷地の中へ足を踏み入れた。
灰色のカーテンコールは、まだ始まったばかりだ。
私は、自分自身という名の観客を前に、最初で最後の独演会を始めようとしていた。



