「何これって、ぼ、僕も知らないよ」
「そうなの?」
先ほど橋本先生に向けていたような、いやそれよりもっと温度を無くした冷たい目で、霧ちゃんは付箋を見ていた。汚いものでも触るかのように、親指と人差し指で端っこの方をちょんとつまんで。
「シャツの襟のとこについてた。普通つかないよねそんなとこに付箋なんて」
「うん、そうだ、ね。その通りです」
静かに圧をかけてくる霧ちゃんに、ただ賛同して頷くことしかできない。
さっきのように僕を助けてくれたこと以外で、霧ちゃんが怒っているところを見たことがなかった。怒鳴ったり叫ぶ訳ではなく、静かに怒りを出す様子は、冗談などではなく本心から苛立っていることを示している。
「っごめん。青葉のことを怒ってる訳じゃなくて……その、見覚えがあったから、この字に」
僕があまりにも気まずい顔をしていたのか、霧ちゃんはしまった、と言わんばかりに表情を変える。見覚えがあるとはどういうことだろう。少なくとも、僕はこの字を知らない。
「……青葉、なんか隠してることあるでしょ」
少しの沈黙の後、霧ちゃんはそう言って、じっと僕を見つめた。怒りというより、探るような眼差しだ。
先ほどのバッドラックの話の中には、白縫くんたちのことは入れなかった。不運と結論づけるようなことではなかったし、何より僕みたいな人間があの三人と関わっただなんて、周りの人に聞かれたら大変なことになりそうで。近くには誰もいなかったけど、念のため、自分の心の中に秘めておこうと誓ったのだ。
それなのに、その誓いが今まさに、破られようとしている。
「そんな、隠してることだなんて…………えっと、二限のことなんだけど」
言うべきか、言わないべきか。長く長く悩んだ結果、あんなに強く誓いを立てたにも関わらず、僕は話すことを決意した。
チョロいって思われてしまいそうだけど、これは言ってしまえば、霧ちゃんに対して隠し事を謀るか、己の欲望を優先させるかという選択だ。こんなにいつも助けてもらっている上で後者を選べるようなメンタルの強さは持ち合わせていない。
それに、霧ちゃんは性格的に、人から聞いた話をベラベラと他の人に喋るような人間ではない。だから秘密でお願い、と言ったら確実に守ってくれるのだ。もちろん、話の最後に「他の人には言わないでね」と付け足した。
「……ありえない」
「ははっ……だよね。白縫くんが僕を知ってたのもそうだし、しかも好きだなんて……」
「そこじゃない! うちの青葉を唆したことに怒ってんだ私は!」
「そ、唆した!?」
先ほどの冷静さはどこへやら、烈火の如く怒る霧ちゃんに、僕はあわあわとパニックになって、対応に困っていた。
「はあー……あの野郎、いつの間に……でも一応ルールは守ったか……」
霧ちゃんは深いため息を吐いた。くしゃ、と髪の毛を少し乱暴に触り、ボソボソと何かを呟く。
「……よし。青葉、悪いけどこの付箋の通り、昼休みは屋上に行ってくれないかな。癪だけど、今は”あいつ”の思惑に従った方がいい。昼飯に誘ってるだろうからお弁当も持って行って。大丈夫、私が近くで見守ってるから」
そして諭すように、尚且つ宥めるように、優しく僕の肩に手を置いてそう話した。何が大丈夫なのか、霧ちゃんの言う”あいつ”が誰なのかわからないけど、屋上に行くことぐらいなら何も問題はない。
「うん、わかった」
僕は疑うことも追及することもせずに、呑気に返事をした。
***
二限後は特段不運な出来事は起きず、穏便に乗り切り昼休みに入った。解放されたと思ったのも束の間、そうだ屋上に行かなきゃいけないんだった……と残されたタスクを思い出す。せっかくだし霧ちゃんと一緒に行こうと思って教室を見渡したけど、いつの間にか姿は消えていた。急ぐ理由があったのかな、なんて不思議に思いながら、お弁当袋を抱えて一人屋上へ向かった。
校内でも特に人気のない場所でいつもは閑散としているのに、今日は屋上へ続く階段すらも人で溢れていた。持ち前の影の薄さで人混みの中を掻い潜りながら入口を抜けると、なんと屋上は階段の倍の多さの人がごった返していた。
「やばい、生で見るの超久しぶりなんだけど」
「相変わらず発光してるよね。視力上がる気がする」
「なんで来てくれたんだろ? 気まぐれかな」
「なんだとしても嬉しいよ! はあ〜、拝めてラッキー。あそこに入りたいなあ」
「あんたじゃ到底無理だって! 存在しないよ、あの輪に入れる人間なんて」
耳をつんざくような黄色い悲鳴と、称賛の数々。姿を見るまでもなく誰のことを話しているのか理解して、僕は軽く耳を押さえながら遠い目をした。
(相変わらず大人気だなあ)
あの三人、特に白縫くんは、滅多に学校に来ない。仕事が忙しいからとか、仮に出席日数が足りず退学になったところで生きていくのに困らないからとか、色々理由はあるんだと思う。
登校率が低くてファンが減るかと思いきや、その真逆だ。女子は毎日のように「今日は白縫くん来てくれるかな?」と話しているし、確率が下がれば下がるほど、来た時は尋常じゃないくらい盛り上がる。前に来たのはGWに入る前だったと思うから、実に一ヶ月ぶりのお出ましだ。こうなるのもよくわかる。
(これぐらい盛り上がってるってことは、みんなが白縫くんたちが来てるのを知ったのは今ってことだよな。……ってことは、もしかして僕が今日の初めての会話相手だったのかな?)
毎回このような騒ぎになるのだから、少なからずストレスになっているはずだ。それを覚悟の上で来たというのに僕と会話する羽目になったなんて、いくら好意があるとしても、不運だと思ったに違いない。
そういえば、僕がコンピューター室に行った後は何をしていたんだろう、とふと疑問に思った。
授業に行くような素振りはしていなかった。あの場に残り続けていたとしたら授業後に騒がれていただろうし、途中で学校を出てどこかで暇を潰していたのだろうか。彼らほどになれば、学校が特別に許可を出す可能性も十分にあり得る。でもだとしたら、なぜわざわざ戻ってきたのだろうか。
(……うん。人気者が考えることはわからん)
頑張って考えてみたが思考を汲み取ることはできず、自分とは考え方が違うのか、と結論づけて諦める。
それにしても歓声がおさまらず、一体この量の声を浴びている彼らはどんな表情をしているのだろうかと興味が湧き、人混みの中をすり抜けた。さっきの階段といい、低い身長と地味さを駆使したこういった技は得意なのだ。今朝のこともあってなるべくバレないように、でも彼らの顔が見れる位置にまで移動して、ひょこっと顔を出す。
「うわあ……」
大袈裟でもなんでもなく、彼らは発光していた。
燈くんは顔を忙しなく動かして誰かを探しているような振る舞いを見せる。良くんはやはり優しく、名前を呼ぶ女子たちに向かって手を振るが、それが余計に声を大きくさせてしまっている。白縫くんに至っては彼女たちをいない者とでも思っているのか、全く興味を示さずに地面だけを見つめている。そんなふてぶてしい態度でも「塩対応も推せる」とか言われちゃうんだから、人気者は大変だ。
(あ、霧ちゃん)
そんな輪から五メートルほど離れたところに、霧ちゃんが座っていた。スカートを履いているにも関わらず胡座という少々危ない座り方をして、膝にお弁当箱の蓋を置き、ミートボールを刺した箸を口に運んでいる。白縫くんたちには目もくれずフェンスだけをじっと見ていて、その表情は……なんか、ちょっと不機嫌? 不貞腐れているように見える。
だんだん観察することに楽しさを感じてきた僕は、なんでここに来たのかもわからぬまま、もう少し近くで見たい! と自我を募らせた。ちょうど空いていた前の方のスペースにまで移動し、より近くで彼らの顔を目に収めようとする。
「あ」
するとなんと、首を動かした燈くんと偶然にも目が合ってしまった。漫画ならバチッという効果音が描かれるくらいにだ。これは奇跡というより、どちらかというと悲運に近しい。
燈くんは瞬く間に顔を輝かせ、腕をぶんぶんと大きく振って
「おーい! こっちだよ青っち!」
と屋上中に響き渡るような大声で僕を呼んだ。……少々、いやかなり、まずい。
「そうなの?」
先ほど橋本先生に向けていたような、いやそれよりもっと温度を無くした冷たい目で、霧ちゃんは付箋を見ていた。汚いものでも触るかのように、親指と人差し指で端っこの方をちょんとつまんで。
「シャツの襟のとこについてた。普通つかないよねそんなとこに付箋なんて」
「うん、そうだ、ね。その通りです」
静かに圧をかけてくる霧ちゃんに、ただ賛同して頷くことしかできない。
さっきのように僕を助けてくれたこと以外で、霧ちゃんが怒っているところを見たことがなかった。怒鳴ったり叫ぶ訳ではなく、静かに怒りを出す様子は、冗談などではなく本心から苛立っていることを示している。
「っごめん。青葉のことを怒ってる訳じゃなくて……その、見覚えがあったから、この字に」
僕があまりにも気まずい顔をしていたのか、霧ちゃんはしまった、と言わんばかりに表情を変える。見覚えがあるとはどういうことだろう。少なくとも、僕はこの字を知らない。
「……青葉、なんか隠してることあるでしょ」
少しの沈黙の後、霧ちゃんはそう言って、じっと僕を見つめた。怒りというより、探るような眼差しだ。
先ほどのバッドラックの話の中には、白縫くんたちのことは入れなかった。不運と結論づけるようなことではなかったし、何より僕みたいな人間があの三人と関わっただなんて、周りの人に聞かれたら大変なことになりそうで。近くには誰もいなかったけど、念のため、自分の心の中に秘めておこうと誓ったのだ。
それなのに、その誓いが今まさに、破られようとしている。
「そんな、隠してることだなんて…………えっと、二限のことなんだけど」
言うべきか、言わないべきか。長く長く悩んだ結果、あんなに強く誓いを立てたにも関わらず、僕は話すことを決意した。
チョロいって思われてしまいそうだけど、これは言ってしまえば、霧ちゃんに対して隠し事を謀るか、己の欲望を優先させるかという選択だ。こんなにいつも助けてもらっている上で後者を選べるようなメンタルの強さは持ち合わせていない。
それに、霧ちゃんは性格的に、人から聞いた話をベラベラと他の人に喋るような人間ではない。だから秘密でお願い、と言ったら確実に守ってくれるのだ。もちろん、話の最後に「他の人には言わないでね」と付け足した。
「……ありえない」
「ははっ……だよね。白縫くんが僕を知ってたのもそうだし、しかも好きだなんて……」
「そこじゃない! うちの青葉を唆したことに怒ってんだ私は!」
「そ、唆した!?」
先ほどの冷静さはどこへやら、烈火の如く怒る霧ちゃんに、僕はあわあわとパニックになって、対応に困っていた。
「はあー……あの野郎、いつの間に……でも一応ルールは守ったか……」
霧ちゃんは深いため息を吐いた。くしゃ、と髪の毛を少し乱暴に触り、ボソボソと何かを呟く。
「……よし。青葉、悪いけどこの付箋の通り、昼休みは屋上に行ってくれないかな。癪だけど、今は”あいつ”の思惑に従った方がいい。昼飯に誘ってるだろうからお弁当も持って行って。大丈夫、私が近くで見守ってるから」
そして諭すように、尚且つ宥めるように、優しく僕の肩に手を置いてそう話した。何が大丈夫なのか、霧ちゃんの言う”あいつ”が誰なのかわからないけど、屋上に行くことぐらいなら何も問題はない。
「うん、わかった」
僕は疑うことも追及することもせずに、呑気に返事をした。
***
二限後は特段不運な出来事は起きず、穏便に乗り切り昼休みに入った。解放されたと思ったのも束の間、そうだ屋上に行かなきゃいけないんだった……と残されたタスクを思い出す。せっかくだし霧ちゃんと一緒に行こうと思って教室を見渡したけど、いつの間にか姿は消えていた。急ぐ理由があったのかな、なんて不思議に思いながら、お弁当袋を抱えて一人屋上へ向かった。
校内でも特に人気のない場所でいつもは閑散としているのに、今日は屋上へ続く階段すらも人で溢れていた。持ち前の影の薄さで人混みの中を掻い潜りながら入口を抜けると、なんと屋上は階段の倍の多さの人がごった返していた。
「やばい、生で見るの超久しぶりなんだけど」
「相変わらず発光してるよね。視力上がる気がする」
「なんで来てくれたんだろ? 気まぐれかな」
「なんだとしても嬉しいよ! はあ〜、拝めてラッキー。あそこに入りたいなあ」
「あんたじゃ到底無理だって! 存在しないよ、あの輪に入れる人間なんて」
耳をつんざくような黄色い悲鳴と、称賛の数々。姿を見るまでもなく誰のことを話しているのか理解して、僕は軽く耳を押さえながら遠い目をした。
(相変わらず大人気だなあ)
あの三人、特に白縫くんは、滅多に学校に来ない。仕事が忙しいからとか、仮に出席日数が足りず退学になったところで生きていくのに困らないからとか、色々理由はあるんだと思う。
登校率が低くてファンが減るかと思いきや、その真逆だ。女子は毎日のように「今日は白縫くん来てくれるかな?」と話しているし、確率が下がれば下がるほど、来た時は尋常じゃないくらい盛り上がる。前に来たのはGWに入る前だったと思うから、実に一ヶ月ぶりのお出ましだ。こうなるのもよくわかる。
(これぐらい盛り上がってるってことは、みんなが白縫くんたちが来てるのを知ったのは今ってことだよな。……ってことは、もしかして僕が今日の初めての会話相手だったのかな?)
毎回このような騒ぎになるのだから、少なからずストレスになっているはずだ。それを覚悟の上で来たというのに僕と会話する羽目になったなんて、いくら好意があるとしても、不運だと思ったに違いない。
そういえば、僕がコンピューター室に行った後は何をしていたんだろう、とふと疑問に思った。
授業に行くような素振りはしていなかった。あの場に残り続けていたとしたら授業後に騒がれていただろうし、途中で学校を出てどこかで暇を潰していたのだろうか。彼らほどになれば、学校が特別に許可を出す可能性も十分にあり得る。でもだとしたら、なぜわざわざ戻ってきたのだろうか。
(……うん。人気者が考えることはわからん)
頑張って考えてみたが思考を汲み取ることはできず、自分とは考え方が違うのか、と結論づけて諦める。
それにしても歓声がおさまらず、一体この量の声を浴びている彼らはどんな表情をしているのだろうかと興味が湧き、人混みの中をすり抜けた。さっきの階段といい、低い身長と地味さを駆使したこういった技は得意なのだ。今朝のこともあってなるべくバレないように、でも彼らの顔が見れる位置にまで移動して、ひょこっと顔を出す。
「うわあ……」
大袈裟でもなんでもなく、彼らは発光していた。
燈くんは顔を忙しなく動かして誰かを探しているような振る舞いを見せる。良くんはやはり優しく、名前を呼ぶ女子たちに向かって手を振るが、それが余計に声を大きくさせてしまっている。白縫くんに至っては彼女たちをいない者とでも思っているのか、全く興味を示さずに地面だけを見つめている。そんなふてぶてしい態度でも「塩対応も推せる」とか言われちゃうんだから、人気者は大変だ。
(あ、霧ちゃん)
そんな輪から五メートルほど離れたところに、霧ちゃんが座っていた。スカートを履いているにも関わらず胡座という少々危ない座り方をして、膝にお弁当箱の蓋を置き、ミートボールを刺した箸を口に運んでいる。白縫くんたちには目もくれずフェンスだけをじっと見ていて、その表情は……なんか、ちょっと不機嫌? 不貞腐れているように見える。
だんだん観察することに楽しさを感じてきた僕は、なんでここに来たのかもわからぬまま、もう少し近くで見たい! と自我を募らせた。ちょうど空いていた前の方のスペースにまで移動し、より近くで彼らの顔を目に収めようとする。
「あ」
するとなんと、首を動かした燈くんと偶然にも目が合ってしまった。漫画ならバチッという効果音が描かれるくらいにだ。これは奇跡というより、どちらかというと悲運に近しい。
燈くんは瞬く間に顔を輝かせ、腕をぶんぶんと大きく振って
「おーい! こっちだよ青っち!」
と屋上中に響き渡るような大声で僕を呼んだ。……少々、いやかなり、まずい。
