「遅いぞ唐橋ぃ!!」
「すみません」
コンピューター室の扉を開けるや否や、ものすごい剣幕で叱られる。そうだった……今月は再放送してるんだった……と気づき、気分が落ちた。
情報担当の橋本先生は普段はとってもいい人なのだけど、一定の周期で性格が急変する。その周期とは、大好きだという80年代の学園ドラマが再放送される時だ。
どうやら橋本先生は、昭和の教師像というものに憧れているらしい。煙草を燻らせ、竹刀を振り回して教鞭を執る。そんな古い時代の男を見て教師になったという先生は、昔のドラマを見る度に、心が昭和の男になる。
だが今の倫理やモラル的に、煙草を吸うことや竹刀を持つことなど絶対にできない。だからせめて口調でなりきっているということらしいが、それによって苦しめられるのは生徒の方なのだから、本当にやめてほしい。
「聞いてんのか唐橋ぃ! お前を思って言ってんだぞ!」
「は、はい! 聞いてます」
キャンキャンという甲高い声に思わず背筋が伸びる。「お前を思って」なんて、昭和の体罰教師の常套句じゃないか。それにあの表情、完全に”遅刻した不真面目な生徒を熱心に躾ける親身な教師”という絵に酔いしれている。
「よおし! じゃあこの問題を解いてみろ!」
自らの世界に没頭する先生は、そう僕に指図してチョークをカアン! と強く黒板に打ちつけた。パラパラと砕けた粉が舞い落ちる一方で、僕は何の答えも浮かばず、ただ書かれている文章を見つめて立ち尽くしていた。
(知らないよこんな問題……!)
黒板に書いてあるのは、きっと教科書に出てくる例題をさらに難しくした、応用の中でも応用の問題だ。教科書を持っているならまだしも、教室のロッカーに取りに行く余裕もなく直接ここに出向いた僕は、何も持っていない。それなのにこれを解けだなんて、無理ゲーにもほどがある。
「どうしたあ? 俺の愛の鞭に応えられないってか!!」
先生はさらにカアン! とチョークを黒板に叩きつける。それでも僕が固まり続けていると、次第に教室中から笑い声が聞こえた。
「遅れて登場するとか主人公気取りかよ」
「でも答えれないんじゃ意味なくね笑」
「横山だけじゃなくて橋本の授業にも遅れるとか、災難なやつ」
「急げば間に合ったっしょ。とろいから駄目なんだよ」
聞こえてくる言葉はどれも僕をさらに臆病にして、どんどん背中も丸まる。
ぐるぐると視界が回り、気持ち悪さが口を出そうになった時。
「31です」
僕の左耳に、ドスの効いた声が入ってきた。僕が立っているすぐ横の机を陣取り、閉じたままの教科書を堂々と置き、腕組みをして座っている、何とも威圧感のある女子からだ。
一気に静まり返った教室に、彼女は牽制するかのようにして、
「31って言ってました。他の人がうるさくて聞こえなかったようですけど」
とクラスメイトをチラリと一瞥しながら苛立った様子で言い放った。そんな彼女に、僕は情けないながらもひどく安心感を覚えた。
(霧ちゃん……!)
彼女は僕のいとこ、霧ちゃんこと麻野霧香だ。いつも僕を助けてくれる、ヒーローのような存在だ。
「おお、そうか。唐橋、ほんとに言ったのか?」
さっきまであれほどフリーダムに教室を支配していた橋本先生も霧ちゃんの圧には耐えられなかったのか、面食らった様子で僕に聞いてくる。
「あ、え、えっと」
「言ってました。私がこの耳でしっかり捉えました。教師ならちゃんと聞き取ってください」
言い淀む僕に変わって、霧ちゃんは尚も苛立った様子で話す。ダメ押しのように非難も付け加えて。
さすがの橋本先生も「すまなかった。正解だ」としか言わず、黒板に赤いチョークで大きな丸を描く。気まずい空気が流れている間に、授業終了のチャイムが鳴った。
「よし、それじゃあ今日はここまで。唐橋、次は遅れるんじゃないぞ?」
「は、はい」
一礼し、「ちぇっ」「当てんのかよ」といった言葉を吐き捨て教室を出ようとするクラスメイト達。霧ちゃんは「チッ」と大きく舌打ちをし、彼らを鋭く睨みつける。僕は申し訳ないという思いで眉を下げながら、彼女に声をかけた。
「霧ちゃん〜! ごめんね、助かったよ、ありがとね」
「任せなさい」
僕の謝罪も感謝も気に留めず、「さっきの橋本の顔見た?」と悪戯っぽい笑みを浮かべる霧ちゃんに、僕はキュウウ……と心臓が収縮するのを感じた。
(ほんとにかっこいいな霧ちゃんは。助けられてばっかだ)
男だから、女だからで人を見るのは良くないけど。それでも、霧ちゃんは女の子で、僕は男で、なのに助けられているという構図に、不甲斐なさと情けなさをずっと感じている。
「にしても、青葉が遅刻するなんて珍しいじゃん。なんかあったの?」
教科書と筆箱を抱える霧ちゃんと並んで教室を出て、廊下を歩きながら今朝からのバッドラックを洗いざらい話した。こんな風に気取らず話せるのは校内で霧ちゃんしかいないから、つい細かく話したくなってしまう。霧ちゃんが一つも嫌な顔をせず聞いてくれるから、余計にだ。
「まじか、青葉朝超苦手なのにね。新しいやつ買うの?」
「ううん。おじいちゃんに買ってもらったやつだから買い換えるのも申し訳なくてさ。ちょっと時間はかかるけど、修理に出そうかなって思ってる」
「はあ、青葉。優しいのは良いことだけど、自分を最優先にしなきゃ身がもたないよ? おじいちゃんに言って新しいもの買ってもらえばいいじゃん、大喜びするよ青葉におねだりされたら」
霧ちゃんはため息を吐いて、僕を諭した。壊れたら新しいものを買えばいいとか、大人におねだりしたらいいとか、間違ってないしそう考えるのが普通なんだろうけど、僕はずっとそういう考え方が身につかない。
「そう、かなあ」
「絶対そうだよ。お正月に会った時嘆いてたからね? 青葉くんにもっと色んなもの買ってあげたいのに、気を遣ってるのか何も言ってくれない、って」
「え、そうだったの?」
そうだよ、と何の気なしに話す霧ちゃんに対して、僕は自責の念に駆られていた。
(うわ、気を遣わせないようにと思ってたのに逆に気を遣わせちゃってるじゃん……! おじいちゃんそんなこと思ってくれてたのか、僕に言ってこないってことは相当溜め込んでるってことだよな……)
「あーちょっと、さてはまたネガティブ思考になってるな?」
考えなくてもわかる、とでも言うように、霧ちゃんは僕の思考を読み取った。そして、教科書や筆箱を脇に挟み、僕の脇腹をこちょこちょ、とくすぐってきた。
「あはっ! ちょっと霧ちゃん、くすぐったいよ」
「青葉昔からここ弱いもんね」
思わず笑みをこぼすと霧ちゃんも満面の笑みを浮かべた。しかし手を止める素振りはない。
「あははっ、だから、霧ちゃん、くすぐったいってば」
止まらぬくすぐり攻撃に白旗を揚げようとすると。
バサバサッ! と大きな音を立てて、霧ちゃんの腕から荷物が落ちた。
「え、あ、ごめん」
「ううん、青葉のせいじゃないよ。ちょっと調子に乗りすぎた」
慌てて謝ると、霧ちゃんはまたもその謝罪を受け取らず、むしろ申し訳なさそうに眉を顰めた。
霧ちゃんはただ僕を元気づけようとしてくれただけなのに、とさらに罪悪感が募って、せめて拾うぐらいはしなきゃ、と僕は床に膝をつけて教科書を拾い、周辺に落ちているペンも拾って筆箱に戻した。
「よし、これで全部かな。はい、霧ちゃーー」
「青葉。何これ」
霧ちゃんに渡そうとした時。冷たい声が、頭上から降ってきた。
戸惑いながら顔をあげる僕に霧ちゃんが見せてきたのは、淡い桃色の付箋だった。
“昼休み、屋上で待ってる”
知らない字体で、そう書いてあった。
「すみません」
コンピューター室の扉を開けるや否や、ものすごい剣幕で叱られる。そうだった……今月は再放送してるんだった……と気づき、気分が落ちた。
情報担当の橋本先生は普段はとってもいい人なのだけど、一定の周期で性格が急変する。その周期とは、大好きだという80年代の学園ドラマが再放送される時だ。
どうやら橋本先生は、昭和の教師像というものに憧れているらしい。煙草を燻らせ、竹刀を振り回して教鞭を執る。そんな古い時代の男を見て教師になったという先生は、昔のドラマを見る度に、心が昭和の男になる。
だが今の倫理やモラル的に、煙草を吸うことや竹刀を持つことなど絶対にできない。だからせめて口調でなりきっているということらしいが、それによって苦しめられるのは生徒の方なのだから、本当にやめてほしい。
「聞いてんのか唐橋ぃ! お前を思って言ってんだぞ!」
「は、はい! 聞いてます」
キャンキャンという甲高い声に思わず背筋が伸びる。「お前を思って」なんて、昭和の体罰教師の常套句じゃないか。それにあの表情、完全に”遅刻した不真面目な生徒を熱心に躾ける親身な教師”という絵に酔いしれている。
「よおし! じゃあこの問題を解いてみろ!」
自らの世界に没頭する先生は、そう僕に指図してチョークをカアン! と強く黒板に打ちつけた。パラパラと砕けた粉が舞い落ちる一方で、僕は何の答えも浮かばず、ただ書かれている文章を見つめて立ち尽くしていた。
(知らないよこんな問題……!)
黒板に書いてあるのは、きっと教科書に出てくる例題をさらに難しくした、応用の中でも応用の問題だ。教科書を持っているならまだしも、教室のロッカーに取りに行く余裕もなく直接ここに出向いた僕は、何も持っていない。それなのにこれを解けだなんて、無理ゲーにもほどがある。
「どうしたあ? 俺の愛の鞭に応えられないってか!!」
先生はさらにカアン! とチョークを黒板に叩きつける。それでも僕が固まり続けていると、次第に教室中から笑い声が聞こえた。
「遅れて登場するとか主人公気取りかよ」
「でも答えれないんじゃ意味なくね笑」
「横山だけじゃなくて橋本の授業にも遅れるとか、災難なやつ」
「急げば間に合ったっしょ。とろいから駄目なんだよ」
聞こえてくる言葉はどれも僕をさらに臆病にして、どんどん背中も丸まる。
ぐるぐると視界が回り、気持ち悪さが口を出そうになった時。
「31です」
僕の左耳に、ドスの効いた声が入ってきた。僕が立っているすぐ横の机を陣取り、閉じたままの教科書を堂々と置き、腕組みをして座っている、何とも威圧感のある女子からだ。
一気に静まり返った教室に、彼女は牽制するかのようにして、
「31って言ってました。他の人がうるさくて聞こえなかったようですけど」
とクラスメイトをチラリと一瞥しながら苛立った様子で言い放った。そんな彼女に、僕は情けないながらもひどく安心感を覚えた。
(霧ちゃん……!)
彼女は僕のいとこ、霧ちゃんこと麻野霧香だ。いつも僕を助けてくれる、ヒーローのような存在だ。
「おお、そうか。唐橋、ほんとに言ったのか?」
さっきまであれほどフリーダムに教室を支配していた橋本先生も霧ちゃんの圧には耐えられなかったのか、面食らった様子で僕に聞いてくる。
「あ、え、えっと」
「言ってました。私がこの耳でしっかり捉えました。教師ならちゃんと聞き取ってください」
言い淀む僕に変わって、霧ちゃんは尚も苛立った様子で話す。ダメ押しのように非難も付け加えて。
さすがの橋本先生も「すまなかった。正解だ」としか言わず、黒板に赤いチョークで大きな丸を描く。気まずい空気が流れている間に、授業終了のチャイムが鳴った。
「よし、それじゃあ今日はここまで。唐橋、次は遅れるんじゃないぞ?」
「は、はい」
一礼し、「ちぇっ」「当てんのかよ」といった言葉を吐き捨て教室を出ようとするクラスメイト達。霧ちゃんは「チッ」と大きく舌打ちをし、彼らを鋭く睨みつける。僕は申し訳ないという思いで眉を下げながら、彼女に声をかけた。
「霧ちゃん〜! ごめんね、助かったよ、ありがとね」
「任せなさい」
僕の謝罪も感謝も気に留めず、「さっきの橋本の顔見た?」と悪戯っぽい笑みを浮かべる霧ちゃんに、僕はキュウウ……と心臓が収縮するのを感じた。
(ほんとにかっこいいな霧ちゃんは。助けられてばっかだ)
男だから、女だからで人を見るのは良くないけど。それでも、霧ちゃんは女の子で、僕は男で、なのに助けられているという構図に、不甲斐なさと情けなさをずっと感じている。
「にしても、青葉が遅刻するなんて珍しいじゃん。なんかあったの?」
教科書と筆箱を抱える霧ちゃんと並んで教室を出て、廊下を歩きながら今朝からのバッドラックを洗いざらい話した。こんな風に気取らず話せるのは校内で霧ちゃんしかいないから、つい細かく話したくなってしまう。霧ちゃんが一つも嫌な顔をせず聞いてくれるから、余計にだ。
「まじか、青葉朝超苦手なのにね。新しいやつ買うの?」
「ううん。おじいちゃんに買ってもらったやつだから買い換えるのも申し訳なくてさ。ちょっと時間はかかるけど、修理に出そうかなって思ってる」
「はあ、青葉。優しいのは良いことだけど、自分を最優先にしなきゃ身がもたないよ? おじいちゃんに言って新しいもの買ってもらえばいいじゃん、大喜びするよ青葉におねだりされたら」
霧ちゃんはため息を吐いて、僕を諭した。壊れたら新しいものを買えばいいとか、大人におねだりしたらいいとか、間違ってないしそう考えるのが普通なんだろうけど、僕はずっとそういう考え方が身につかない。
「そう、かなあ」
「絶対そうだよ。お正月に会った時嘆いてたからね? 青葉くんにもっと色んなもの買ってあげたいのに、気を遣ってるのか何も言ってくれない、って」
「え、そうだったの?」
そうだよ、と何の気なしに話す霧ちゃんに対して、僕は自責の念に駆られていた。
(うわ、気を遣わせないようにと思ってたのに逆に気を遣わせちゃってるじゃん……! おじいちゃんそんなこと思ってくれてたのか、僕に言ってこないってことは相当溜め込んでるってことだよな……)
「あーちょっと、さてはまたネガティブ思考になってるな?」
考えなくてもわかる、とでも言うように、霧ちゃんは僕の思考を読み取った。そして、教科書や筆箱を脇に挟み、僕の脇腹をこちょこちょ、とくすぐってきた。
「あはっ! ちょっと霧ちゃん、くすぐったいよ」
「青葉昔からここ弱いもんね」
思わず笑みをこぼすと霧ちゃんも満面の笑みを浮かべた。しかし手を止める素振りはない。
「あははっ、だから、霧ちゃん、くすぐったいってば」
止まらぬくすぐり攻撃に白旗を揚げようとすると。
バサバサッ! と大きな音を立てて、霧ちゃんの腕から荷物が落ちた。
「え、あ、ごめん」
「ううん、青葉のせいじゃないよ。ちょっと調子に乗りすぎた」
慌てて謝ると、霧ちゃんはまたもその謝罪を受け取らず、むしろ申し訳なさそうに眉を顰めた。
霧ちゃんはただ僕を元気づけようとしてくれただけなのに、とさらに罪悪感が募って、せめて拾うぐらいはしなきゃ、と僕は床に膝をつけて教科書を拾い、周辺に落ちているペンも拾って筆箱に戻した。
「よし、これで全部かな。はい、霧ちゃーー」
「青葉。何これ」
霧ちゃんに渡そうとした時。冷たい声が、頭上から降ってきた。
戸惑いながら顔をあげる僕に霧ちゃんが見せてきたのは、淡い桃色の付箋だった。
“昼休み、屋上で待ってる”
知らない字体で、そう書いてあった。
