隣のクラスの白縫くんに好きだと言われました

メラメラと太陽が燃える。ちょうど午後二時を過ぎたところだから、外は格別暑くなっているだろう。カーテン越しからの光だけでも成立するぐらい室内は明るいけれど、わざわざシーリングライトも点けている。この方が問題集の文字が読みやすいからだ。



「問六の答えわかった?」

「たぶん三番だと思うけど、一応答え確認するね」



 退屈そうに頬杖をつく霧ちゃんに聞かれ、ノートに書かれた自分の答えを読み上げた後、別冊の解答も確認した。



「あ、合ってる。三番だよ」

「はあ、まじか。一生当てられないわこの類の問題」



 ぶつくさと文句を言いながら赤ペンで大きくチェックマークをつけ、正解の番号と式を写す霧ちゃん。普段なら式どころか正解すらも書かないのにこうしているのは、これが夏休みの課題で、初回登校日に提出しなければいけないからだ。



「ほんっと解説読んでもピンとこない。よく当てられるね青葉、天才なんじゃない?」

「そんなことないよ。たしかに難しいけど、コツさえ掴めば後は手順に沿うだけで」

「そのコツが掴めないのよ。もういいや。私文系だもん、数学なんて試験科目入ってないからやりませーん」



 霧ちゃんは拗ねたような口調でそう言い、開いたままの問題集を裏返して机に突っ伏させた。その置き方は本が痛むからやらない方が……と言いそうになったけど、今の彼女のストレス度合いはMAXだろうから下手に刺激しない方がいいと思って、その言葉は飲み込んだ。



「理科はいけんのよ、どんな計算問題でも。数学だけ全っ然ダメなんだよね〜昔から。まあ青葉にはさんざん愚痴ってるから知ってると思うけど」



 知っている。霧ちゃんは基本的に何でもできるが、唯一数学には猛烈な苦手意識と憎悪を持っているのだ。振り返れば小学生の時からそうだった気がする。漢字のテストも社会のテストも毎回僕に大差をつけて勝利していたのに、算数のテストだけいつも僕に惜敗していた。



「不思議だよね。霧ちゃん何でもできるのに、数学だけできないの」

「私も不思議に思ってた。でもこの前判明したの、私の数学に対する苦手意識は遺伝だったってこと」

「遺伝?」

「親に聞いてみたのよ、学生時代の苦手科目。そしたら二人とも数学って言ってて」

「え、そんなことあるんだ」

「でしょ、びっくりでしょ? そんで思い返してみれば、私ちっちゃい頃から子ども用の教材とかで勉強させられてたけど算数だけは悪い点数取っても怒られなくて。たぶん親も必要性を感じてないんだと思う、だから麻野家全体で数学は日本の未来に必要なのか論を提唱します」

「ふふっ、なんか選挙演説みたい」



 既視感のある力強いガッツポーズに思わず笑ってしまった。もしかしたら霧ちゃんは苛立ちをぶつけているだけに見えて、その実、数式で疲れた僕の気分を晴らそうとしてくれているのかもしれない。



「ほんと知らなかった、たしかおじさんおばさんって高校時代の同級生って言ってたよね?」

「そうそう。数学苦手って話題で盛り上がって仲良くなったんだって。だから数学嫌いも悪いことばっかじゃないのよ、私も嫌いだからこそイケメンと結ばれるかもしれない」

「霧ちゃんイケメン嫌いじゃん」

「そんなことないよ。好きだよ普通に」

「え? 嫌いって言ってたよ、去年の五月ぐらいに。おばさんの帰りが遅くなるからってうちで夜ご飯食べることになって、一緒にバラエティ番組見てた時。誰か忘れちゃったけどかっこいい俳優さん映ってさ、イケメンと関わると厄介なことになるって言ってた」

「……ああ〜! あれね! 思い出したわ」



 霧ちゃんは記憶を辿るように忙しなく視線を動かした。そして思い出した瞬間妙に高いテンションになった。



「なんかあったの? って聞いてもなんも答えてくれなくてさ、ちょっと心配してたんだよ」

「ごめんねごめんね! いやなんというか、ちょうどその時人間関係が忙しくてさ」

「友達と?」

「いや、違う断じて違う。あんなの友達じゃない」

「あ、あんなの」



 そんな断言してしまったらその人が悲しむんじゃないだろうかと、見ず知らずのその人を憐れんだ。



「友達じゃなかったら何なの? まさか、危ない人とか?」

「いや、そういうのじゃなくて! うーんと、お互いの、利益のための関係、ってところかな」

「利益」

「って、こんな話はどうでもいいの! そうだ、ちょうどいいし昨日の話聞かせてよ。一旦勉強やめにしてさ」



 ほら、三十分まで休憩にしよ、と霧ちゃんはシャーペンで卓上時計をくいくいと指した。参考書には申し訳ないけど、やっと本題がきた、と僕は気分が上がった。

 勉強は嫌いではないが好きでもない。だから今日の勉強会なんて、半分昨日の報告会のようなものだ。日程自体は、凪那くんと夏祭りに行くことが確定してすぐに、今日にセッティングした。きっと霧ちゃんに話すことがたくさんあるだろうなという予想の上だったのだが、それが抜群に功を奏してくれたという訳だ。



「えっと、何が聞きたいかな」

「全部に決まってんでしょ。合流してから解散するまで全部。言っとくけど、隠そうなんて無駄な足掻きはしない方がいいよ。私に嘘が通じないことわかってるだろうから」

「うん、わかってる。霧ちゃんには着付けをしてくれた恩があるし、隠し事はしないって決めてるから。じゃあ……話します」



 この瞬間を待ち望んでいたのに、いざ話すとなると緊張してしまうのが僕だ。そして昨日の行いは、褒められたものばかりではないということは存分にわかっている。だからこそ、なぜそのような行いに至ったのか、因果関係を意識して話をした。



***



「で、帰ってきたと」

「はい」

「手をつないだまま」

「……はい。あでも、帰る時はまたお面をつけたから、バレてはない……と思う。たぶん」

「ふーん。ねえ青葉、あいつの家どこかわかる?」



 お望み通り包み隠さずすべてを話し終えると、霧ちゃんは不穏な相槌をした後、さらに不穏な言葉を続けた。一応、僕は理由を聞いた。



「知らないけど……なんで?」

「あいつの家、カチコミに行くわ」



 彼女の返答は僕の想定内のものだった。がしかし、本当に行動に移すとまでは思わなかった。机に膝をぶつけても、その衝撃でガラスのコップに入ったカフェオレがノートに跳ねてもお構いなしに立ち上がって扉に向かおうとした霧ちゃんを、僕は脚やら腹部やらに縋りついて止めた。女性の体をこんな風に触るなんて非常識極まりないけど、今だけは許してほしい。



「ちょ、ストップストップ! タンマ!」

「いや、知らなくてもいけるか。あいつの名字珍しいもんね。一軒一軒当たってけば必ず見つかる」

「一回落ち着こう霧ちゃん!」

「止めないで青葉。私はやるべきことをやるだけだから」

「だから止まってって……なんだこの馬鹿力!?」



 座ったままの状態だと負けてしまうから、膝立ちになって全力で彼女を止めた。さすがはバスケ部、パワーに満ち溢れている。

 僕の全力の妨げの甲斐あって、霧ちゃんは体を止め、もとの位置に戻り座ってくれた……が、目が笑っていない。完全に凪那くんのことを敵として認識した目だ。



「あ……あの、その」

「私はね」

「は、はい」

「あいつと青葉がくっつくのが嫌で怒ってる訳じゃないの。まだ付き合ってないのに手を出したことに怒ってるの」

「あの、お言葉ですけど、接触はキスまでなので、手を出したってことにはならないというか……」

「出してんだよ。純粋無垢な青葉をたらしめてる。お面をつけてたって言ったけど、それも青葉に気遣わせて人がいないところに行かせようって魂胆でしょどうせ。あいつ、暑いって何回も言ってなかった?」

「言っ、てた。暑いなあ、お面の中汗でめっちゃ蒸れてるよ〜って」

「はいビンゴ」



 勉強という心を荒れさせるものから目を背けたいがためにこの話になったのに、勉強よりも荒れさせてしまってるなあ……と思った。現に霧ちゃんは体を傾けて胡座をかきながら頬杖をつくという、将軍のようなポーズをとっている。眉間には皺を寄せて、右手でカチカチとノックし続けるシャーペンからは、凶器になりそうなぐらい長い芯が出ている。



「……」



 エアコンの音と、コップに入った氷がカランと溶ける音しか聞こえなくなった。とても気まずいけど、気まずすぎるけど、今僕が言えることは何もない。説明ならし終えたし、凪那くんを庇うのも霧ちゃんに共感するのも不自然だ。だから黙っているしかない。



「青葉はさ、あいつと付き合いたいって思う?」

「えっ」

「いずれ考えなきゃいけない……ことでもないけど。別にあれを無視し続けるでもいいんだけど、それは青葉が望んでないだろうから。今青葉は、二つの選択に迫られてるんだよ。あいつと付き合うか、付き合わないか」

「付き合うか、付き合わないか」

「急だって思うかもしんないけど、でも恋愛って結局これだけだからね。向こうから告白されて付き合いたいって思ったら付き合う。付き合いたくないって思ったら付き合わない。それ以外の経験はしてほしくないから、青葉が選べるのはどっちか一つ」



 二者択一みたいなもんだよ、と霧ちゃんはノートを捲り、左側に「付き合う」右側に「付き合わない」と大きく書いた。僕は二者択一が一番苦手だ。



「今までは、まああいつの押しが強すぎたのもあって、ちゃんと考えられなかったと思う。でもこれからは違う。アワアワするんじゃなくて、こいつのこの言葉にときめけるのかどうか、この行動を自分もしたいと思えるのかどうか、そういう目で見なきゃいけない。すごい厳しいこと言ってるって自覚はあるよ。でもなあなあで返事をして不幸になりました、なんてことになってほしくないの」



 霧ちゃんの顔は真剣だ。練習問題を解いている時よりも、ずっと。



「それに……こんなこと言っても青葉を焦らせるだけだけど、あまり吟味してる時間もないと思う。ほらこれ、今日の早朝に出たやつ」



 霧ちゃんは自身のスマホでニュースアプリを開き、僕の目の前に示した。近すぎる画面に映っていたタイトルは、こうだ。



“ネクストブレイク俳優白縫凪那、人気若手女優神野蜜希(かんのみつき)とW主演報道 すれ違いをテーマにしたラブストーリー”



 ざわ……と心に不穏な波が立った。