突然だが、僕は本当に運が悪い。
朝が弱い僕にとって必須アイテムである目覚まし時計がよりによって今朝壊れてしまって、そのせいで登校が遅れ、移動と着替えが間に合わず一限目の体育に遅れ。規則は絶対! が口癖のTHE体育会系の横山先生に怒られ、罰としてグラウンド三周を走らされ、それも遅いとして授業後の片付けも任され。
今時一人の生徒に厳しくするのも良くないと思うけど、とはいえ悪いのは圧倒的に僕だ。逆らう理由を考えるどころか、そもそも意見を言うことすらできずに、爽やかな汗をかいて更衣室に戻るクラスメイトを眺めながら、のろのろと一人で器具を倉庫に戻した。
「次からは遅れないように」という最後の一言で解放された僕が更衣室に行けたのは、ちょうど予鈴が鳴った時。カーディガンを腰に巻くとか、ちょっと時間がかかるからシャツの第一ボタンは開けたままにするとか、そういう最大限効率の良いやり方で着替えたもののやはり間に合わせることはできず、本鈴が鳴り終わった頃に急いで更衣室を出た。
「はあ……はあ……けほっ」
運動が得意な人が見たら小走りと思いそうな速さで、でも僕は一生懸命に、中央階段に続くひたすらまっすぐな廊下を走っていた。途中途中に存在する教室ではすでに授業が始まっているから、見られる訳にはいかない。扉のカーテンが閉まっていないところは身をかがめて通り抜けるようにして、その場を凌いだ。
大層な距離を走っているのね、なんて思われるかもしれないけど全くそんなことはない。更衣室から階段を十としたら、今僕がいるのは四と五の間ぐらい。もともと運動が苦手な僕にとっては、これだけの距離でも瀕死になるレベルで疲れるのだ。
それに、急いでいたから起きてからろくに食べ物も飲み物も摂取していない。渇ききった喉からは咳が出てくるし、奥から段々と鉄の味が込み上げてくる。口内に入ってくる空気には冷たさを感じるほどだ。体はすでに、限界を迎えている。
(よりによって、なんで次が情報なんだよ……!)
息苦しさを覚えながら、今年の時間割を恨めしく思った。
元々この学校は立地が悪くて面積が狭く、その分高さを出すことでたくさんの教室を持てている。
地下一階から地上五階、そして屋上を含めた全七階建て。今僕がいるのが一階で、コンピューター室や家庭科室などの特別教室は五階にある。
つまり、そういうことだ。この疲弊しまくった体で、今から四階分の階段を登らなければいけない。
「いや、無理」
あまりに絶望的な現実に直面して僕はぱたりと足を止め、呆然と立ち尽くした。もう誰から見られても構わない。というか、気にしていられない。
「っは、はあ、はあ」
走り続けることでどうにか認識させていなかった分の疲労まで、止まったことにより体が認識せざるを得なくなる。こんな状態じゃまともに上ることもできないだろうし、上りきったところで待ち構えているのは退屈な授業だ。行くことすら躊躇ってしまう。
(いっそのことサボっちゃおうかな……いやでも後が怖いし…………あ)
悪魔のような囁きと、天使のような良識。二つが抗争を繰り広げる中で、とある案を思いついた。
「”あっち”の階段を使えば早く行けるかも……?」
一応誰にも聞こえないようにそっと呟いて、僕は踵を返して来た道を戻った。
「よし……ここだ」
戻ること、更衣室まで。さっきの走りが全て無駄になってしまったけど、だとしてもこっちの方が効率的だと思った。
いつも使っている着替えのスペースを抜けて、テニスラケットやら野球のヘルメットやら、部活用の道具が大量に置かれているスペースも抜けて、最奥にたどり着く。
「非常時以外立ち入り禁止」と書かれた看板と目を合わせながら、意を決してハンドルを回し、重い扉を押した。キイィ……という不気味な音に顔をしかめると同時に、涼しい風が体中を撫でていった。
「気持ちいい……」
火照った体を冷やしてくれているようで、思わず目を閉じて感嘆の声を漏らした。
そう、僕が使うのは非常階段だ。
通常はもちろん使用は禁止されている。でも非常事態のために、常に鍵はかかっていない。そのため、クラスの自称陽キャ集団は、授業に遅れそうになった時はこの階段を使うらしい。武勇伝のように話しているのを小耳に挟んだことがあるから知っていた。だから今回のアイデアにつながったのだ。
それに、校舎の構造的にも、こっちの方が圧倒的に早く着く。
断面図で見た時、コンピューター室は更衣室のほぼ真上にある。なのに本来使うべき中央階段は先ほど僕が諦めた長い長い廊下の先にあるから、行って上って戻って、というとてつもなくめんどくさい行き方をしなければいけない。もちろんいつもは中央階段を使っているけど、休み時間の十分をほとんど消費して辿り着く、といったところだから、今回のような非常事態には思いっきり不向きなのだ。
でも非常階段を使えば、まっすぐ五階まで上がることができて、すぐに教室に入れる。絶賛遅刻中の僕には願ったり叶ったりの方法だ。これを使うしかないと思って、勢いよく階段に足を踏み入れ、扉を閉めた。
「うう……思ったより怖いな」
そこまで高くないとはいえ、鉄骨まる出しの階段は思いの外頼りなく、恐怖を感じさせた。さっきは涼しいと思った風も、ホラー映画の演出かのようにびゅうびゅうと激しい音を立てて、僕を怖がらせているように聞こえる。こんなとこで立ち止まっていたら見つかる可能性があって逆に危ない、ということはわかっているのに、足が進むのには時間を要した。
無理矢理にでも体を進めようと錆びて塗装が剥がれ落ちている手すりを掴むが、掌に貼り付く感覚があり瞬時に離す。強い鉄の匂いを感じながら、これは己の足で上るしかない、と覚悟して、急ぎ足で上った。
「やっと、ついた……よね」
掠れた声を出して、ようやく足を止めた。
風が吹いて幾分気持ちいいとはいえ、室内の階段と段数は同じだ。三階付近から段々と呼吸が活発になり、今はまともに立つことすらもできず、膝に手をついて荒い息を吐いている。
でもまあ、色んなことがあったけど、着くことはできた。あとはこのドアを開けて教室に向かうだけだ。
些か前向きな気持ちになりドアノブに手をかけ、再びキイィ……という軋む音を聞きながら、自分が通れるギリギリの隙間を作った。一階と違って、変に音を立てたら気づかれる可能性がある。そろそろとカニ歩きで隙間をくぐり抜け、音を立てないようゆっくりと扉を閉める。少しキィと鳴っただけで、どうにか静かに閉めることに成功した。
「よかった、ついたあ……!」
安心するのはまだ早いが、上っている最中誰にも見られなかったこと、授業を受ける体力が本当にギリギリだけどあと少し残っていることに安堵した。力が抜け、扉の方に体を向けながらへにゃへにゃとその場に座り込む。
「はあ、よかった、でも疲れた、もう授業行かなくてもよくないか?」
なんて、達成感と疲労から独り言が止まらなくなる。
そうやって放心しきっていた僕は、気づかなかった。それを見ている存在がいたことに。
「ええっとお……唐橋くん、だよね?」
「ひゃ、ひゃい!?」
急に名前を呼ばれ、ビクッと体が震える。同時に、今の独り言が聞かれていた可能性に気づき、かあっと顔が熱くなる。
「す、すみません、今のは忘れてくだしゃい……って、も、もしかして」
時間差で気づいた、特徴的な声。ゆっくりと振り返って、僕は声の主を見た。
「は、はわ……」
なんで気づかなかったんだと、自分を責める。
そこには、発光してるんじゃないかと見間違うほどに美しい顔が、”三つ”並んでいた。
朝が弱い僕にとって必須アイテムである目覚まし時計がよりによって今朝壊れてしまって、そのせいで登校が遅れ、移動と着替えが間に合わず一限目の体育に遅れ。規則は絶対! が口癖のTHE体育会系の横山先生に怒られ、罰としてグラウンド三周を走らされ、それも遅いとして授業後の片付けも任され。
今時一人の生徒に厳しくするのも良くないと思うけど、とはいえ悪いのは圧倒的に僕だ。逆らう理由を考えるどころか、そもそも意見を言うことすらできずに、爽やかな汗をかいて更衣室に戻るクラスメイトを眺めながら、のろのろと一人で器具を倉庫に戻した。
「次からは遅れないように」という最後の一言で解放された僕が更衣室に行けたのは、ちょうど予鈴が鳴った時。カーディガンを腰に巻くとか、ちょっと時間がかかるからシャツの第一ボタンは開けたままにするとか、そういう最大限効率の良いやり方で着替えたもののやはり間に合わせることはできず、本鈴が鳴り終わった頃に急いで更衣室を出た。
「はあ……はあ……けほっ」
運動が得意な人が見たら小走りと思いそうな速さで、でも僕は一生懸命に、中央階段に続くひたすらまっすぐな廊下を走っていた。途中途中に存在する教室ではすでに授業が始まっているから、見られる訳にはいかない。扉のカーテンが閉まっていないところは身をかがめて通り抜けるようにして、その場を凌いだ。
大層な距離を走っているのね、なんて思われるかもしれないけど全くそんなことはない。更衣室から階段を十としたら、今僕がいるのは四と五の間ぐらい。もともと運動が苦手な僕にとっては、これだけの距離でも瀕死になるレベルで疲れるのだ。
それに、急いでいたから起きてからろくに食べ物も飲み物も摂取していない。渇ききった喉からは咳が出てくるし、奥から段々と鉄の味が込み上げてくる。口内に入ってくる空気には冷たさを感じるほどだ。体はすでに、限界を迎えている。
(よりによって、なんで次が情報なんだよ……!)
息苦しさを覚えながら、今年の時間割を恨めしく思った。
元々この学校は立地が悪くて面積が狭く、その分高さを出すことでたくさんの教室を持てている。
地下一階から地上五階、そして屋上を含めた全七階建て。今僕がいるのが一階で、コンピューター室や家庭科室などの特別教室は五階にある。
つまり、そういうことだ。この疲弊しまくった体で、今から四階分の階段を登らなければいけない。
「いや、無理」
あまりに絶望的な現実に直面して僕はぱたりと足を止め、呆然と立ち尽くした。もう誰から見られても構わない。というか、気にしていられない。
「っは、はあ、はあ」
走り続けることでどうにか認識させていなかった分の疲労まで、止まったことにより体が認識せざるを得なくなる。こんな状態じゃまともに上ることもできないだろうし、上りきったところで待ち構えているのは退屈な授業だ。行くことすら躊躇ってしまう。
(いっそのことサボっちゃおうかな……いやでも後が怖いし…………あ)
悪魔のような囁きと、天使のような良識。二つが抗争を繰り広げる中で、とある案を思いついた。
「”あっち”の階段を使えば早く行けるかも……?」
一応誰にも聞こえないようにそっと呟いて、僕は踵を返して来た道を戻った。
「よし……ここだ」
戻ること、更衣室まで。さっきの走りが全て無駄になってしまったけど、だとしてもこっちの方が効率的だと思った。
いつも使っている着替えのスペースを抜けて、テニスラケットやら野球のヘルメットやら、部活用の道具が大量に置かれているスペースも抜けて、最奥にたどり着く。
「非常時以外立ち入り禁止」と書かれた看板と目を合わせながら、意を決してハンドルを回し、重い扉を押した。キイィ……という不気味な音に顔をしかめると同時に、涼しい風が体中を撫でていった。
「気持ちいい……」
火照った体を冷やしてくれているようで、思わず目を閉じて感嘆の声を漏らした。
そう、僕が使うのは非常階段だ。
通常はもちろん使用は禁止されている。でも非常事態のために、常に鍵はかかっていない。そのため、クラスの自称陽キャ集団は、授業に遅れそうになった時はこの階段を使うらしい。武勇伝のように話しているのを小耳に挟んだことがあるから知っていた。だから今回のアイデアにつながったのだ。
それに、校舎の構造的にも、こっちの方が圧倒的に早く着く。
断面図で見た時、コンピューター室は更衣室のほぼ真上にある。なのに本来使うべき中央階段は先ほど僕が諦めた長い長い廊下の先にあるから、行って上って戻って、というとてつもなくめんどくさい行き方をしなければいけない。もちろんいつもは中央階段を使っているけど、休み時間の十分をほとんど消費して辿り着く、といったところだから、今回のような非常事態には思いっきり不向きなのだ。
でも非常階段を使えば、まっすぐ五階まで上がることができて、すぐに教室に入れる。絶賛遅刻中の僕には願ったり叶ったりの方法だ。これを使うしかないと思って、勢いよく階段に足を踏み入れ、扉を閉めた。
「うう……思ったより怖いな」
そこまで高くないとはいえ、鉄骨まる出しの階段は思いの外頼りなく、恐怖を感じさせた。さっきは涼しいと思った風も、ホラー映画の演出かのようにびゅうびゅうと激しい音を立てて、僕を怖がらせているように聞こえる。こんなとこで立ち止まっていたら見つかる可能性があって逆に危ない、ということはわかっているのに、足が進むのには時間を要した。
無理矢理にでも体を進めようと錆びて塗装が剥がれ落ちている手すりを掴むが、掌に貼り付く感覚があり瞬時に離す。強い鉄の匂いを感じながら、これは己の足で上るしかない、と覚悟して、急ぎ足で上った。
「やっと、ついた……よね」
掠れた声を出して、ようやく足を止めた。
風が吹いて幾分気持ちいいとはいえ、室内の階段と段数は同じだ。三階付近から段々と呼吸が活発になり、今はまともに立つことすらもできず、膝に手をついて荒い息を吐いている。
でもまあ、色んなことがあったけど、着くことはできた。あとはこのドアを開けて教室に向かうだけだ。
些か前向きな気持ちになりドアノブに手をかけ、再びキイィ……という軋む音を聞きながら、自分が通れるギリギリの隙間を作った。一階と違って、変に音を立てたら気づかれる可能性がある。そろそろとカニ歩きで隙間をくぐり抜け、音を立てないようゆっくりと扉を閉める。少しキィと鳴っただけで、どうにか静かに閉めることに成功した。
「よかった、ついたあ……!」
安心するのはまだ早いが、上っている最中誰にも見られなかったこと、授業を受ける体力が本当にギリギリだけどあと少し残っていることに安堵した。力が抜け、扉の方に体を向けながらへにゃへにゃとその場に座り込む。
「はあ、よかった、でも疲れた、もう授業行かなくてもよくないか?」
なんて、達成感と疲労から独り言が止まらなくなる。
そうやって放心しきっていた僕は、気づかなかった。それを見ている存在がいたことに。
「ええっとお……唐橋くん、だよね?」
「ひゃ、ひゃい!?」
急に名前を呼ばれ、ビクッと体が震える。同時に、今の独り言が聞かれていた可能性に気づき、かあっと顔が熱くなる。
「す、すみません、今のは忘れてくだしゃい……って、も、もしかして」
時間差で気づいた、特徴的な声。ゆっくりと振り返って、僕は声の主を見た。
「は、はわ……」
なんで気づかなかったんだと、自分を責める。
そこには、発光してるんじゃないかと見間違うほどに美しい顔が、”三つ”並んでいた。
