冷酷な皇子と、記憶を売る后

深い静寂が清涼殿を支配していた。
嵐が去った後の夜明けは、残酷なほどに澄み渡っている。

寝台の上で、私は静かに目を開けた。
頭の中が、真っ白な霧に包まれているような感覚。自分の名前は覚えている。雪乃、という音。けれど、それ以外の何かが、まるで最初から存在しなかったかのように抜け落ちていた。

ふと、視界の端に誰かの姿があることに気づく。
寝台のすぐ傍で、男がうずくまっていた。彼は私の手を握りしめ、まるでその手が離れることを恐れるかのように、額を押し付けている。
酷くやつれた顔。その頬には、乾いた涙の跡が痛々しく残っていた。

「……あの、どちら様で……?」

私が小さく呟いた瞬間、男の肩が激しく震えた。
彼はゆっくりと顔を上げた。琥珀色の瞳には、底なしの絶望と、それにも勝る狂おしいまでの執着が渦巻いている。その瞳に見つめられただけで、背筋に冷たいものが走った。

「……私の名を、呼べ」

掠れた声だった。
彼は私を問い詰めるのではなく、乞うようにしてそう言った。その声の響きに、胸の奥がチリリと焼けるような感覚を覚える。知らないはずなのに、この声を聞いただけで、喉の奥が熱くなる。

「申し訳ございません。存じ上げません……。私は、どうしてここに?」

私が身を引こうとすると、彼は逃さないと言わんばかりの力で私を抱き寄せた。彼の腕は異常に熱い。その熱さが、どこか懐かしく、同時にひどく恐ろしい。

「雪乃、私だ。蒼真だ。……お前が愛した、私だ」

蒼真……。
その名を口に出した瞬間、私の心臓が早鐘を打った。
記憶はない。だが、私の細胞の一つひとつが、その名に拒絶と同時に、抗いがたい熱烈な恋慕を返している。

「嘘よ。あなたは、とても冷たい人……」

無意識に出た言葉に、彼が苦笑した。それは壊れそうなほど脆い、悲痛な笑みだった。

「ああ、そうだ。私はお前を突き放し、傷つけ、器としてしか見ていなかった。……だが、今のお前が忘れてしまった半年間、私はお前を誰よりも求めた。お前の命を、お前のすべてを、この手で奪おうとしていたんだ」

彼は私の頬を撫でる。その指先が触れる場所が、熱を帯びる。
私は彼を恐れるべきなのに、彼の手から逃れようとすることが、まるで自分の心臓を抉り出すことのように思えた。

「……思い出せ。思い出さなくていい。だが、私の傍から消えることだけは、絶対に許さない」

彼は私の唇に、力なく、けれど切実に口づけを落とした。
その感触で、私の脳裏に一瞬だけフラッシュバックが走る。
硝子のように冷たい月夜、互いの痛みを分かち合った夜、そして――彼が私に愛を囁いた瞬間の、あのあまりに甘美な絶望。

「……あ」

零れ落ちた涙の理由が分からない。ただ、彼の琥珀色の瞳に宿る深い孤独が、かつての私自身のものと重なって見える。
記憶を失っても、魂の傷跡は消えないのだ。

清涼殿の扉の外では、皇位継承を祝う祝祭の音が響き始めている。
彼は新しい皇帝として玉座に就く。けれど、その玉座の隣には、記憶のない私という『空白』が置かれている。
私たちが紡いできた愛のない契約は、今、記憶を失ったことで、新たな狂気の鎖へと形を変えていた。

「もう二度と、私の視界から消えるな。雪乃。お前が私を忘れても、私が何度でも、お前を地獄の淵まで迎えに行ってやる」

その言葉は、もはや愛の告白というよりも、呪いに似た誓約だった。
私は彼の手を握り返す。記憶という鎖を失った今、私を彼に繋ぎ止めているのは、本能という名の抗えない情愛だけだった。