その夜、嵐は物理的にも、運命的にも訪れた。
外では激しい雷雨が後宮の屋根を叩き、内部では皇太子派と反体制派による、隠密な権力闘争の火蓋が切られていた。しかし、清涼殿の寝室は、外の喧騒を遮断したかのような、奇妙な静寂に包まれていた。
私の意識は、すでに明滅を繰り返している。
契約の期限——それは物理的な時間の経過ではなく、私の中に蓄積された『彼への情愛』が、呪いの排出限界を超えた時に訪れる強制的な忘却の刻(とき)だった。
「雪乃、顔を上げろ。私を見ろ」
蒼真様は寝台の傍らに跪き、私の頬を包み込んでいる。彼の瞳は、かつての冷たさが嘘のように燃え滾るような情熱を宿していた。だが、その瞳の奥には、彼自身も制御できないほどの『恐怖』が揺れている。
「……殿下、とても美しい夜ですね」
私は掠れた声で微笑んだ。視界がぼやけていく。
あと数分で、私は彼の記憶から消える。私の名前も、彼と過ごしたこの半年間の記憶も、すべてが泡のように消滅するのだ。そして代わりに、彼の中に残るのは、名もなき記憶の断片と、拭い去れない喪失感だけになる。
「馬鹿を言うな。雨の音しか聞こえないだろう。……頼む、意識を保て。私を忘れるな。私がお前を忘れないのと同じように、お前も私を刻み込め!」
彼は私の手を取り、自分の心臓の上に押し当てた。
激しく打つ鼓動が、掌から伝わってくる。それは紛れもなく、彼が生きている証であり、私を求めている証だった。
「……私の名前を、呼んでくれ」
彼の声が震えている。
冷徹な皇子として、敵を排除し、国を導くことしか考えてこなかった男が、今、一人の女の救いを求めて泣き出しそうなほど切実に懇願している。
「蒼真様……」
私は彼の手の甲に額を預け、最期の力を振り絞ってその名を呼んだ。
「愛しています。この呪いも、あなたの苦しみも、すべて……あなたという人間そのものを」
その瞬間、私の中にあった『契約』の楔(くさび)が、音を立てて砕け散った。
それは解放であると同時に、終焉だった。
私の魂から、彼と過ごした記憶が、走馬灯のように駆け巡る。初めて会った時の凍てついた視線、不器用に私の食事を気遣った夜、そして、この寝台で交わした言葉の数々。
「雪乃! 雪乃!」
彼の叫び声が、遠い海の底から聞こえてくるような感覚だった。
ああ、行かないで。彼の鼓動を、もう少しだけ感じていたい。そう思った時には、すでに私の意識は白い霧の中へと溶け出していた。
私の指先が、彼の頬から滑り落ちる。
最後に見たのは、絶望に顔を歪めながらも、必死に私を抱きしめようとする、彼のあまりにも人間らしい姿だった。
――ごめんなさい、蒼真様。
私の記憶が消えても、どうか、あなたが呪いから解き放たれますように。
雷鳴が轟き、清涼殿の寝室を稲妻が白く照らした。
帳の奥で、蒼真様の慟哭だけが、終わりのない雨音にかき消されていった。
二人の契約は、愛という名の泥沼へ、完全に沈み込んだのだ。
外では激しい雷雨が後宮の屋根を叩き、内部では皇太子派と反体制派による、隠密な権力闘争の火蓋が切られていた。しかし、清涼殿の寝室は、外の喧騒を遮断したかのような、奇妙な静寂に包まれていた。
私の意識は、すでに明滅を繰り返している。
契約の期限——それは物理的な時間の経過ではなく、私の中に蓄積された『彼への情愛』が、呪いの排出限界を超えた時に訪れる強制的な忘却の刻(とき)だった。
「雪乃、顔を上げろ。私を見ろ」
蒼真様は寝台の傍らに跪き、私の頬を包み込んでいる。彼の瞳は、かつての冷たさが嘘のように燃え滾るような情熱を宿していた。だが、その瞳の奥には、彼自身も制御できないほどの『恐怖』が揺れている。
「……殿下、とても美しい夜ですね」
私は掠れた声で微笑んだ。視界がぼやけていく。
あと数分で、私は彼の記憶から消える。私の名前も、彼と過ごしたこの半年間の記憶も、すべてが泡のように消滅するのだ。そして代わりに、彼の中に残るのは、名もなき記憶の断片と、拭い去れない喪失感だけになる。
「馬鹿を言うな。雨の音しか聞こえないだろう。……頼む、意識を保て。私を忘れるな。私がお前を忘れないのと同じように、お前も私を刻み込め!」
彼は私の手を取り、自分の心臓の上に押し当てた。
激しく打つ鼓動が、掌から伝わってくる。それは紛れもなく、彼が生きている証であり、私を求めている証だった。
「……私の名前を、呼んでくれ」
彼の声が震えている。
冷徹な皇子として、敵を排除し、国を導くことしか考えてこなかった男が、今、一人の女の救いを求めて泣き出しそうなほど切実に懇願している。
「蒼真様……」
私は彼の手の甲に額を預け、最期の力を振り絞ってその名を呼んだ。
「愛しています。この呪いも、あなたの苦しみも、すべて……あなたという人間そのものを」
その瞬間、私の中にあった『契約』の楔(くさび)が、音を立てて砕け散った。
それは解放であると同時に、終焉だった。
私の魂から、彼と過ごした記憶が、走馬灯のように駆け巡る。初めて会った時の凍てついた視線、不器用に私の食事を気遣った夜、そして、この寝台で交わした言葉の数々。
「雪乃! 雪乃!」
彼の叫び声が、遠い海の底から聞こえてくるような感覚だった。
ああ、行かないで。彼の鼓動を、もう少しだけ感じていたい。そう思った時には、すでに私の意識は白い霧の中へと溶け出していた。
私の指先が、彼の頬から滑り落ちる。
最後に見たのは、絶望に顔を歪めながらも、必死に私を抱きしめようとする、彼のあまりにも人間らしい姿だった。
――ごめんなさい、蒼真様。
私の記憶が消えても、どうか、あなたが呪いから解き放たれますように。
雷鳴が轟き、清涼殿の寝室を稲妻が白く照らした。
帳の奥で、蒼真様の慟哭だけが、終わりのない雨音にかき消されていった。
二人の契約は、愛という名の泥沼へ、完全に沈み込んだのだ。



