冷酷な皇子と、記憶を売る后

蒼真様の宣言は、後宮という閉ざされた世界に巨大な波紋を投げかけた。
契約を破棄する——それは皇太子である彼にとって、自らの政治的な信用と、帝位継承権という絶対的な正当性を天秤にかけるに等しい暴挙だった。だが、今の彼は、そんな理屈など微塵も顧みないほどに、私という存在に執着していた。

「雪乃、今日からはこの部屋で休め。儀式などは二度とさせない」

彼は私を自分の執務机の奥にある、皇帝専用の寝台へと運んだ。
豪奢な絹の帳が下ろされ、後宮の監視の目から私たちを隔離する。そこは、私たちが共有する唯一の聖域だった。

しかし、私の内側では別の悲鳴が上がっていた。呪いを吸い上げる儀式を止めたことで、私の魂に溜まっていた『負の感情』が、逆流を始めていたのだ。器である私が毒を排出しなければ、その毒は私の魂を内側から食い破る。

「……っ」

喉元までせり上がる血の味を、私は必死に飲み込んだ。
私の顔色が日に日に悪くなっていることを、彼は当然気づいているはずだ。それなのに、彼は私を抱きしめる腕を強めるばかりで、根本的な解決策から目を逸らしていた。

「雪乃、なぜそんなに震えている。……まだ痛むのか?」

私の背中を撫でる彼の掌が、あまりに温かい。
その温もりが、今の私には耐えがたいほどに痛々しい。私は彼の胸元に顔を埋め、涙を堪えながら小さく首を振った。

「いいえ。殿下のお側でいられるだけで、私は幸せです」

「……嘘をつくな」

蒼真様は私の顎を指先で掬い上げ、無理やり自分の方へ向かせた。
彼の瞳は苦悩に満ちている。私が強がれば強がるほど、彼は自分の無力さを突きつけられているような顔をする。

「お前は、呪いの器などではない。……私を救うために、命を削る聖女でもない。ただの、私と同じ一人の人間だ。それなのに、なぜ自分の命をそこまで軽く扱う!」

「軽くなど……一度も、思ったことはございません」

私は彼の手を握り返した。
もう、言葉で彼を納得させることはできないと悟っていた。彼は合理的な人間だ。だからこそ、私が「死の淵に立っている」という事実に気づいた時、彼は狂気にも似た手段に打って出るだろう。

実際、後宮では不穏な噂が流れ始めていた。
皇太子が、契約相手である私に溺れ、政務を放棄しているという噂。そして、私の出自を疎む者たちが、毒薬を送りつけてきているという現実。

「雪乃、明日の夜は私の側を離れるな。……例え、何があろうと」

彼が私の耳元で囁く声は、甘美な誓いというよりも、逃れられない呪詛の響きを帯びていた。
彼はすでに、帝位よりも私を選ぼうとしている。その選択が、どれほど残酷な嵐を招くのか、彼も、そして私も、心のどこかでは理解していた。

「殿下、もし、嵐が訪れたら……」

「嵐? そんなもの、私が全て薙ぎ払う。誰一人として、お前には指一本触れさせない」

彼の自信に満ちた言葉が、かえって痛々しい。
私は窓の外に広がる、月夜に濡れた後宮の庭を眺めた。明日の夜、私の魂の期限が切れる。契約の魔法が解けた時、彼は私を『私ではない誰か』として記憶に留めてしまうのだろうか。

「殿下、あなたを愛しています」

初めて口にした、偽りのない言葉だった。
それは、彼が一番聞きたかったはずの言葉であり、一番聞いてはいけない言葉だった。
蒼真様の動きが止まる。
彼の瞳の中に、初めて『絶望』と『歓喜』が同時に混ざり合う、歪んだ愛の輝きが灯った。

「ああ……そうか。お前も、私と同じ地獄に落ちる覚悟を決めたんだな」

彼は私を強く抱きしめ、その唇を私の首筋に埋めた。
その熱は、もはや契約などという生易しいものではなく、互いの魂を焼き切るような、禁断の儀式へと変わっていく。
中庭の梅の木が、冷たい風に吹かれて音を立てた。
私たちの愛が完成するのと同時に、崩壊へのカウントダウンが始まったことを告げるかのように。