冷酷な皇子と、記憶を売る后

季節は春から初夏へと移ろい、後宮の木々は濃い緑を深めていた。
だが、私の体調は回復の兆しを見せず、むしろ日ごとに昏い眠りに落ちる時間が長くなっていた。

あれ以来、蒼真様は儀式を執拗に拒んでいる。
私の体調を案じるあまり、彼は自らの内で膨れ上がる呪いを、力任せに押さえ込もうとしているのだ。だが、それは火に油を注ぐ行為に等しい。彼は日中、執務室で誰に対しても鋭い刃のような言葉を投げつけ、夜は激しい頭痛に耐えながら、一人冷たい寝台で身を丸めている。

私は、彼のその苦しみを扉越しに聞きながら、ただ祈るしかできなかった。
契約の終わりまで、あと三ヶ月。
私が彼のために捧げた記憶の代償が、いよいよ私の魂を削り取ろうとしていた。

「雪乃、下がっていろ」

その夜も、彼は私を見るなり眉間に皺を寄せ、突き放すような口調で言った。
彼の背中には、黒い霧が渦を巻いている。彼が我慢すればするほど、その闇は濃く、禍々しく膨れ上がっている。

「……殿下。もう、お隠しになっても無駄ですわ」

私は静かに歩み寄り、彼が執務机に置いた手を両手で包み込んだ。
触れた瞬間、指先が凍りつくような悪寒が走る。彼の怒り、焦り、そして私に対する――名付けようのない複雑な『執着』が、奔流となって押し寄せてきた。

「なぜ……なぜ、お前はそこまで自分を追い詰める。……お前が壊れていくのを見るくらいなら、私はこの呪いとともに滅びた方がどれほどマシか!」

蒼真様は私を突き飛ばすようにして立ち上がり、執務机を激しく蹴った。
ガタリ、と重い木材が揺れる。彼の目は充血し、普段の冷静さなど跡形もなくなっていた。

「私は、お前を『器』としてしか見ていなかったはずだ! それなのに、今では……お前が消えることを想像するだけで、心臓が握り潰されるような錯覚を覚える。……これは呪い以上に、私を狂わせる毒だ!」

彼は荒い息を吐きながら、私に背を向けて立ち尽くす。
その背中は、かつての誰よりも孤独に見えた。

「雪乃、答えろ。お前は何者だ。なぜ、これほどまでに私の汚れた心を癒そうとする。……お前の目的は何だ? まさか、この私に愛を教え、その上で記憶を消して消え去るつもりか?」

その問いかけに、私は胸が締め付けられる思いがした。
彼には、私が望んでいる『結末』が見透かされているのかもしれない。

「……違います」

私は立ち上がり、彼の背中にそっと額を押し当てた。
絹の衣服越しに伝わる彼の熱が、私の冷え切った体温を少しだけ温めてくれる。

「私はただ、あなたのすべてを肯定したかっただけなのです。あなたが帝位を継ぐまでの道のりで、誰にも愛されず、誰の温もりも知らずに歩むことなど、あってはならない。……あなたの心に触れられるのは、この契約の期間だけ。それだけで、私は十分なのです」

「十分だと……? 冗談ではない!」

彼は振り返り、私の肩を力任せに掴んだ。
その瞳には、かつての冷淡さではなく、私を食い入るように求める濃密な色が宿っていた。

「契約など、今すぐ破棄してやる。お前が記憶を失うことも、私のもとを去ることも、すべて……この私が許さない」

彼の言葉に、私は息を呑んだ。
それは、彼が自らの手で運命を捻じ曲げようとする、最初の反逆だった。
愛のない契約から始まったこの物語は、今、二人の意志によって、予定されていた破滅の先へと踏み出そうとしていた。

「もし、私が記憶を失い、あなたを忘れてしまったら……」

私が問うと、彼はその震える唇を私の額に重ねた。

「その時は、何度だって。……何度だって、お前にこの愛を証明してやる。たとえ、お前が私を憎むようになっても、私は決して手放さない」

清涼殿の月明かりが、二人の影を長く、深く引き伸ばす。
彼の瞳の中に映る私は、もう『掃除屋』の顔などしていなかった。ただ、一人の男を愛し、その愛に飲み込まれようとしている女の顔をしていた。

この瞬間、契約の効力は終わり、本当の『情愛』が幕を開けた。