観桜会が近づくにつれ、清涼殿の周囲はにわかに騒がしくなっていた。後宮の女官たちの間では、私の「奇跡の生還」を巡り、様々な憶測が飛び交っている。かつて私が身を削って皇子を救ったこと、そして冷酷だった蒼真様が、今では私を一歩も離そうとしないほど溺愛していること。
そんな噂など、今の私たちには些細なことだった。けれど、皇太后たちの悪意は静かに、そして確実に蝕むように広がっていた。
「雪乃、今夜は離宮へ行こう」
ある日の夜、蒼真様が私を抱き寄せながら囁いた。
皇帝の私的な避暑地である離宮。そこには後宮の冷たい視線も、執拗な監視の目も届かない。
「離宮、ですか?」
「ああ。二人だけで、静かに春を迎えたい。……ここには、私とお前を分け隔てるものが多すぎる」
彼の提案は、公務を抱える皇帝としては異例のことだ。しかし、彼にとっては、私と平穏な時間を過ごすことこそが、最も優先すべき『政務』のようだった。
私たちは夜陰に紛れ、ひっそりと離宮へと向かった。
月明かりの下、馬車に揺られながら、私は彼の手を握りしめていた。契約の呪縛があった頃、彼はいつも何かを警戒し、眉間に皺を寄せていた。けれど今の彼は、ただ隣にいる私を確かめるように、穏やかに微笑んでいる。
「雪乃。ずっと聞きたかったことがある」
「何でしょうか?」
彼は少しだけ照れくさそうに、私の指先に口づけを落とした。
「あの日、お前が私を救い出してくれた時。私を呼ぶ声が聞こえた気がした。……お前は、あの時、私を愛していると言ったのか?」
私は胸が熱くなるのを感じた。
記憶を失っていたあの日、私が心から彼を求めた瞬間。それは契約の形を借りてはいたけれど、紛れもなく私の本心だった。
「……はい。あの時だけではなく、ずっと前から。……たとえ記憶を失っても、私の魂はいつもあなたを探していました」
彼は深く息を吐き出し、私を抱きすくめた。その腕の力強さが、彼の喜びを物語っている。
「……良かった。本当に、良かった。お前が私を選んでくれて、私は何度救われたことか」
離宮に到着すると、そこは満開の夜桜に包まれていた。
風に舞う花びらが、月光を反射して銀色に輝いている。私たちは桜の木の下で、手を取り合って夜の庭を歩いた。もう、呪いに怯える必要はない。誰に遠慮することもなく、ただ互いの存在を慈しむ。
けれど、離宮の窓から庭を見下ろした時、私は見てしまった。
夜桜の中に紛れ込んだ、黒い影。それは明らかに、私を狙う刺客の気配だった。
「……蒼真様、伏せて!」
私は反射的に彼を突き飛ばした。
次の瞬間、闇から放たれた鋭い矢が、先ほどまで彼が立っていた場所に突き刺さる。
静寂が切り裂かれた。離宮の美しさが一瞬にして、戦場へと変貌する。
「雪乃!」
蒼真様が腰の剣を抜き放ち、私を庇うように立ち塞がる。彼の瞳は、かつての冷徹な戦士の眼光を取り戻していた。けれどその表情は、私を傷つけさせないという、強い決意に満ちている。
「逃がさない。私を害そうとする者は、誰であろうと容赦はしない」
彼が激しい怒りに燃えるのを感じた。
契約は終わったけれど、私たちの愛を守るための闘いは、皮肉にもここからが本番だった。桜の花びらが舞い散る中、私たちは初めて、互いの背中を守りながら戦いに挑むことになる。
この刺客の背後にいるのは、誰なのか。皇太后か、あるいは帝位を狙う他の皇族か。
私は彼を一人にはさせない。愛のない契約から始まったこの絆は、今、血よりも濃い情愛の鎖となって、二人を一つに結びつけているのだ。
そんな噂など、今の私たちには些細なことだった。けれど、皇太后たちの悪意は静かに、そして確実に蝕むように広がっていた。
「雪乃、今夜は離宮へ行こう」
ある日の夜、蒼真様が私を抱き寄せながら囁いた。
皇帝の私的な避暑地である離宮。そこには後宮の冷たい視線も、執拗な監視の目も届かない。
「離宮、ですか?」
「ああ。二人だけで、静かに春を迎えたい。……ここには、私とお前を分け隔てるものが多すぎる」
彼の提案は、公務を抱える皇帝としては異例のことだ。しかし、彼にとっては、私と平穏な時間を過ごすことこそが、最も優先すべき『政務』のようだった。
私たちは夜陰に紛れ、ひっそりと離宮へと向かった。
月明かりの下、馬車に揺られながら、私は彼の手を握りしめていた。契約の呪縛があった頃、彼はいつも何かを警戒し、眉間に皺を寄せていた。けれど今の彼は、ただ隣にいる私を確かめるように、穏やかに微笑んでいる。
「雪乃。ずっと聞きたかったことがある」
「何でしょうか?」
彼は少しだけ照れくさそうに、私の指先に口づけを落とした。
「あの日、お前が私を救い出してくれた時。私を呼ぶ声が聞こえた気がした。……お前は、あの時、私を愛していると言ったのか?」
私は胸が熱くなるのを感じた。
記憶を失っていたあの日、私が心から彼を求めた瞬間。それは契約の形を借りてはいたけれど、紛れもなく私の本心だった。
「……はい。あの時だけではなく、ずっと前から。……たとえ記憶を失っても、私の魂はいつもあなたを探していました」
彼は深く息を吐き出し、私を抱きすくめた。その腕の力強さが、彼の喜びを物語っている。
「……良かった。本当に、良かった。お前が私を選んでくれて、私は何度救われたことか」
離宮に到着すると、そこは満開の夜桜に包まれていた。
風に舞う花びらが、月光を反射して銀色に輝いている。私たちは桜の木の下で、手を取り合って夜の庭を歩いた。もう、呪いに怯える必要はない。誰に遠慮することもなく、ただ互いの存在を慈しむ。
けれど、離宮の窓から庭を見下ろした時、私は見てしまった。
夜桜の中に紛れ込んだ、黒い影。それは明らかに、私を狙う刺客の気配だった。
「……蒼真様、伏せて!」
私は反射的に彼を突き飛ばした。
次の瞬間、闇から放たれた鋭い矢が、先ほどまで彼が立っていた場所に突き刺さる。
静寂が切り裂かれた。離宮の美しさが一瞬にして、戦場へと変貌する。
「雪乃!」
蒼真様が腰の剣を抜き放ち、私を庇うように立ち塞がる。彼の瞳は、かつての冷徹な戦士の眼光を取り戻していた。けれどその表情は、私を傷つけさせないという、強い決意に満ちている。
「逃がさない。私を害そうとする者は、誰であろうと容赦はしない」
彼が激しい怒りに燃えるのを感じた。
契約は終わったけれど、私たちの愛を守るための闘いは、皮肉にもここからが本番だった。桜の花びらが舞い散る中、私たちは初めて、互いの背中を守りながら戦いに挑むことになる。
この刺客の背後にいるのは、誰なのか。皇太后か、あるいは帝位を狙う他の皇族か。
私は彼を一人にはさせない。愛のない契約から始まったこの絆は、今、血よりも濃い情愛の鎖となって、二人を一つに結びつけているのだ。



