冷酷な皇子と、記憶を売る后

雪が解け、後宮にも柔らかな日差しが降り注ぐ季節となった。
あの一夜以来、清涼殿の空気は劇的に変わった。かつてのような張り詰めた緊張感は消え、代わりに、そこには穏やかな暖かさが満ちている。

私は、以前と同じようにこの部屋で執務を支えている。けれど、その意味は全く違っていた。契約のために毒を吸い上げる「器」としてではなく、皇帝の妻として、彼と共にこの国を治めるための。

「雪乃、無理をするなと言ったはずだ。休んでいろと、あれほど」

執務机に向かっていた蒼真様が、ペンを置いて私を振り返る。
彼の瞳には、かつての冷徹な光は微塵もなく、ただ私を慈しむような深い愛情だけが湛えられている。以前はあんなに怖かったこの琥珀色の瞳が、今では私にとって世界で一番安らげる場所になっていた。

「いいえ。陛下が頑張っていらっしゃるのですもの。私も、あなたの隣で支えになりたいのです」

私が微笑むと、彼は執務机から立ち上がり、私の傍まで歩み寄ってきた。彼は私の髪をそっと撫で、愛おしそうに頬に手を添える。

「……お前が生きている。その事実だけで、私は毎日が奇跡のように感じる」

彼は私の額に優しく口づけを落とす。その温もりは、もう呪いを中和するための儀式ではなく、純粋な愛の証。
私たちの間には、もう「契約」なんて必要ない。そう分かっていても、時折、あの契約の夜のことを思い出して、胸がキュンと鳴る。

ただ、後宮という場所は、やはり一筋縄ではいかない。
私が「生きて戻った」ことは、皇太后をはじめとする反体制派にとっては、計算外の出来事だったようだ。私たちが愛し合い、呪いから解き放たれたことで、彼らが利用しようとしていた「皇帝の弱み」は完全に消滅した。

その日の午後、皇太后の使いが清涼殿を訪れた。
用件は、近々行われる『春の観桜会』の準備について。しかし、その老女の目は、私を射抜くような鋭い敵意に満ちていた。

「雪乃様。お身体が戻られたとは言え、まだ予断を許さない身。華やかな場所は、あなたには荷が重いのではございませんか?」

それは、明らかな牽制だった。
彼女たちは、私たちが「愛のない契約結婚」を続けていれば、いずれ私が壊れることを期待していた。それが今や、互いに深く愛し合い、帝位も安泰となれば、面白いはずがない。

私は背筋を伸ばし、かつてのような震える心ではなく、強い意志を瞳に宿して答えた。

「ご心配には及びませんわ。私は、陛下のお側で季節の移ろいを楽しむことを、何よりも望んでおりますから」

皇太后の使いが不機嫌そうに去った後、私は深いため息を吐いた。
契約は終わった。けれど、私たちが夫婦としてこの後宮で生き抜くための戦いは、まだ始まったばかりなのだ。

「……雪乃。何かあったのか?」

背後から抱きしめられ、蒼真様の体温が伝わってくる。
彼の胸に身を預け、私は首を横に振った。

「いいえ。ただ、これからの二人の日々が、とても幸せなものになるのだと、改めて感じておりました」

彼は私の耳元で小さく笑う。その笑顔が、私のすべてを肯定してくれている。
私たちは今、ようやく本当の意味で「夫婦」になったのだ。