後宮の奥深くに位置する『清涼殿』は、いつもひどく冷え切っている。
凍てつくような冬の夜、皇太子・蒼真(そうま)の私室に呼び出された私は、ただ静かに床に額を擦りつけていた。華やかな入内儀式の余韻など、ここには欠片も存在しない。あるのは、男の凍てついた視線と、空気を震わせるような重苦しい沈黙だけだ。
「顔を上げろ」
低く、地を這うような声。私は言われるがままに顔を上げた。
目の前に立つ蒼真は、その美しい貌(かお)を氷のような冷淡さで塗り固めている。この国で最も権力に近い場所にいながら、彼は誰よりも孤独で、誰よりも人を信じていない。
「お前が今回、私の妻として選ばれた『器』か」
妻ではない。『器』。
その呼び名に、胸の奥が小さく痛んだが、私は表情を崩さなかった。そう、私はただの器に過ぎない。実家の窮地を救うために、一族の忌まわしい記憶を売り、そしてこの男の『汚れ』を引き受けるためにここにいるのだから。
蒼真は机の上に置かれた古びた羊皮紙を、指先で無造作に弾いた。
「契約の内容は理解しているな。期限は半年。私が帝位を継承するまでの間、お前は私の『負の感情』をすべて肩代わりし、この身に蓄積される呪いを吸い上げる」
彼は冷たく言い放つ。
「代償としてお前の一族の借金はすべて肩代わりしてやる。だが、勘違いするな。お前に期待しているのは、毒を吸い出すだけの『汚れた掃除屋』としてだ。愛情など期待するな。お前のような無価値な女に、私の心など微塵も触れさせはしない」
彼の予想通り、普通の娘であればここで恐怖に震えるか、あるいは慈悲を乞うのかもしれない。あるいは、もっと『妻らしい』扱いを求めて泣き出すのか。
けれど、私は静かに立ち上がり、彼の目の前までゆっくりと歩み寄った。
蒼真が驚きにわずかに眉を寄せたのが分かった。私の歩みに、怯えの色が一つもなかったからだ。
「殿下」
私は彼を見上げ、ふわりと、この場所には不釣り合いなほど穏やかな微笑を浮かべた。
「お言葉ですが、私は掃除屋などではありませんわ」
「……なんだと?」
「私はあなたの『鏡』です」
戸惑い、警戒心を露わにする彼の瞳の奥を見つめ返す。
「あなたがどれほど冷酷に振る舞おうとも、どれほど私を蔑もうとも、この契約を結んだ瞬間から、私たちの魂は繋がっております。……あなたが抱える痛みも、絶望も、私にとっては――」
私は一歩踏み込み、冷え切った彼の胸元にそっと手を添えた。
「――この上なく美しい、救済の機会(チャンス)に過ぎないのですから」
予想を覆されたのは、蒼真の方だった。
彼の瞳が大きく見開かれ、背筋を凍らせるような冷気が一瞬にして熱を帯びたような混乱に変わる。
彼は私の手を乱暴に振り払おうとしたが、その指先はわずかに震えていた。
「お前……自分がいったい何を言っているのか分かっているのか。私に触れることは、死に近い苦痛を伴うぞ」
「存じております。ですが、その苦痛の先にあるあなたの『真実』を知れるのなら、私は喜んで捧げましょう」
私はただ、静かに彼を見つめ続けた。
これから始まる半年間の地獄のような日々が、二人にとってどのような意味を持つようになるのか。この時の彼はまだ、知る由もなかったのだ。
凍てつくような冬の夜、皇太子・蒼真(そうま)の私室に呼び出された私は、ただ静かに床に額を擦りつけていた。華やかな入内儀式の余韻など、ここには欠片も存在しない。あるのは、男の凍てついた視線と、空気を震わせるような重苦しい沈黙だけだ。
「顔を上げろ」
低く、地を這うような声。私は言われるがままに顔を上げた。
目の前に立つ蒼真は、その美しい貌(かお)を氷のような冷淡さで塗り固めている。この国で最も権力に近い場所にいながら、彼は誰よりも孤独で、誰よりも人を信じていない。
「お前が今回、私の妻として選ばれた『器』か」
妻ではない。『器』。
その呼び名に、胸の奥が小さく痛んだが、私は表情を崩さなかった。そう、私はただの器に過ぎない。実家の窮地を救うために、一族の忌まわしい記憶を売り、そしてこの男の『汚れ』を引き受けるためにここにいるのだから。
蒼真は机の上に置かれた古びた羊皮紙を、指先で無造作に弾いた。
「契約の内容は理解しているな。期限は半年。私が帝位を継承するまでの間、お前は私の『負の感情』をすべて肩代わりし、この身に蓄積される呪いを吸い上げる」
彼は冷たく言い放つ。
「代償としてお前の一族の借金はすべて肩代わりしてやる。だが、勘違いするな。お前に期待しているのは、毒を吸い出すだけの『汚れた掃除屋』としてだ。愛情など期待するな。お前のような無価値な女に、私の心など微塵も触れさせはしない」
彼の予想通り、普通の娘であればここで恐怖に震えるか、あるいは慈悲を乞うのかもしれない。あるいは、もっと『妻らしい』扱いを求めて泣き出すのか。
けれど、私は静かに立ち上がり、彼の目の前までゆっくりと歩み寄った。
蒼真が驚きにわずかに眉を寄せたのが分かった。私の歩みに、怯えの色が一つもなかったからだ。
「殿下」
私は彼を見上げ、ふわりと、この場所には不釣り合いなほど穏やかな微笑を浮かべた。
「お言葉ですが、私は掃除屋などではありませんわ」
「……なんだと?」
「私はあなたの『鏡』です」
戸惑い、警戒心を露わにする彼の瞳の奥を見つめ返す。
「あなたがどれほど冷酷に振る舞おうとも、どれほど私を蔑もうとも、この契約を結んだ瞬間から、私たちの魂は繋がっております。……あなたが抱える痛みも、絶望も、私にとっては――」
私は一歩踏み込み、冷え切った彼の胸元にそっと手を添えた。
「――この上なく美しい、救済の機会(チャンス)に過ぎないのですから」
予想を覆されたのは、蒼真の方だった。
彼の瞳が大きく見開かれ、背筋を凍らせるような冷気が一瞬にして熱を帯びたような混乱に変わる。
彼は私の手を乱暴に振り払おうとしたが、その指先はわずかに震えていた。
「お前……自分がいったい何を言っているのか分かっているのか。私に触れることは、死に近い苦痛を伴うぞ」
「存じております。ですが、その苦痛の先にあるあなたの『真実』を知れるのなら、私は喜んで捧げましょう」
私はただ、静かに彼を見つめ続けた。
これから始まる半年間の地獄のような日々が、二人にとってどのような意味を持つようになるのか。この時の彼はまだ、知る由もなかったのだ。



