5
生徒指導室で、尚人は猪田と向かい合っていた。その顔は腫れており、明らかに誰かに殴られたのだと分かる痕がついている。
「この学校は、オレのプライベートなことでも『指導』しようとするんすか」
「その顔で登校してきた生徒を見て、なにも聞かない教師はいないだろ」
猪田はいつものように声を張ることも、冗談めかして笑うこともなかった。尚人の頬から口元へかけて残った腫れを見ているが、怪我を詳しく確かめるために顔を近づけてくるようなことはしなかった。
「喧嘩か?」
「……まあ、そんなとこっす」
解釈次第では、嘘ではなかった。そう思うと、滑らかに言葉が出てきた。
あの日、尚樹が寝静まったのを確認してから、尚人はこっそりと家を出た。予想通り、柴崎は真弓の店にいて酒を飲んでいた。甘い声で真弓と話し、笑い声を上げている柴崎を見ると、全身が熱くなって、こみ上げてくる怒りはおさまらなかった。
店の中で、尚人は柴崎に飛びかかった。他に客がいなかったのが幸いだったのか、それとも尚人の行動を助長させたのかは分からなかったが、アルコールのせいで判断が鈍っている柴崎の顔を思いっきり殴った。柴崎は自分がなにをされたのか、咄嗟に分からなかったような表情をしていたが、痛みで脳が覚醒したのか、やがて逆上した。悲鳴を上げる真弓を尻目に、ふたりは感情のままにつかみ合い、殴り合った。
父親でもない男との争いは、他人同士の喧嘩として定義出来るのだろうか。それとも籍を入れてなくとも、母親の交際相手ならば、家族として認めなければならないのだろうか。
「……弟を守っただけっす」
一瞬、猪田の顔に憐れみの色がよぎった。同情なんてものは要らない。ほんとうの気持ちなんて分からないくせに、ありきたりな言葉で慰めようとするなと、尚人は思った。
「お前が傷ついて、弟くんは守れたのか?」
尚人はごくりと唾を飲み込んだ。猪田の言葉は、尚人しか知らない現実を、あらためて突きつけてきた。
翌朝、頬を腫らしている兄を見た尚樹は、驚きに目を丸くしたあと、なにも見なかったことにしたみたいだったが、聡い弟は、尚人が昨晩なにをしたのか、すべてを察したようだった。
「……わかりません」
週末、柴崎も真弓も、家に戻ってこなかった。尚人が感情のままに拳を振るったからといって、親が改心するわけでも、家の経済状況が豊かになるわけでもなかった。現状が変わらないならまだましなほうで、柴崎と尚人の関係が悪化したことによって、あの男が再び家へ戻ってきたとき、その怒りが尚樹へ向かう可能性もあった。殴り合っている最中には、そんな先のことまで考えられなかった。
尚樹の手首に残った指の痕と、腰の上に広がっていた痣が頭から離れず、柴崎にもおなじだけの痛みを味わわせなければ気が済まなかった。殴りながら、尚樹へ二度と手を出すなと怒鳴ったが、柴崎が家から姿を消したいまになってみれば、あの夜に自分が守れたものは在ったのか、尚人にも分からなかった。
家の中から怒鳴り声が消えた代わりに、玄関の外で物音がするたび、尚樹はそちらへ顔を向けるようになった。母親が戻ってくるのを待っているのか、柴崎が戻ってくるのを恐れているのか、尚人は尋ねられなかった。自分があの男を殴ったことで、家にかろうじて残っていた家族のかたちまで壊したのかもしれないと考えると、尚樹へなにも心配するなとは言えなかった。
「殴った相手は、家にいる人なのか」
「それを聞いて、どうするんすか」
「どうするかを決めるために聞いてる。お前が誰かと喧嘩をしたと言うだけなら、それがたとえ嘘でもただの喧嘩として指導することもできる。だけど、弟を守ったという言葉が出てくるなら、それだけで済ませるわけにはいかないだろう」
猪田はそう言って尚人が答えるのを待っていた。いつもの調子で、担任だからなんでも話せと押し切られたなら、尚人も反発できた。教師に話す義務はないと言い張り、そのまま黙っていればよかった。だが猪田は、なにが起きたのかを知らないままでは判断できないと言っているだけだった。知らないのは当然だ。尚人が、知られないようにしてきたのだから。
「……相手は母親の彼氏です」
口にした途端、その男が尚人の生きる世界に、当たり前にいることまで認めてしまったような気がした。柴崎は父親ではない。家賃を払っているわけでも、尚樹の食事を用意するわけでもない。それなのに母親の隣に座り、尚人の給料を要求し、自分が大河原家の中に存在しているのが当たり前であるかのような顔をしていた。
「そいつが、弟に手を出したんすよ。弟は怪我を隠して、誰にもなにも言わずにひとりで我慢してた。そんなこと知っちまったら、我慢出来なくて……」
「弟くんは、どうしてそこまでして隠したんだ」
「……オレが困るからだって」
尚人はそこで言葉を切った。口にして、ふいに泣きそうになった。どうしてまだ小学生のあいつが、そこまで気を回さないといけないのかと考えると、悔しくて悔しくて、机の下で固めた拳をぎゅっと握りしめるしかなかった。
兄がバイトを休まないように。柴崎と喧嘩をしないように。怪我をしないように。尚樹は自分の痛みより、尚人の生活が崩れないことを選んだ。
「オレが教えたんすよ。他人に家のことを聞かれても、なにもないって言えって。黙ってなきゃ守れないこともあるって」
猪田は責めなかった。尚人は視線を落とし、怒鳴られるのを待ったが、いつまで経っても声は飛んでこなかった。
「それで、大河原はその男を殴りに行ったのか」
「他にどうしろっていうんすか。先生に話したら、すぐになんとかしてくれたんですか。母親があいつを追い出して、弟がこれからもオレと一緒にいられるって、約束できたんすか」
「誰かに話すことで、大河原の望むとおりにならなかったとしても、大河原がひとりで抱え込まずに、どうするかを一緒に考えられるかもしれないだろう」
「綺麗事っすね」
「そうだな。先生も高校生の頃、友達のためだと言いながら、そいつがどうしたいのかを聞かなかったことがある」
猪田は椅子の背へ身体を預けた。学生時代の話をするときには、いつもならバドミントンの大会や練習の厳しさを持ち出すところだが、今度はそうしなかった。
「当時、先生にはいつも一緒にいた友達がふたりいた。昼飯を食うのも、帰るのも三人だった。卒業しても、ずっとそのままだと思ってたよ」
しかし、高校二年の冬に、そのふたりが互いに口を利かなくなった。原因は、片方がもう片方の家庭について、本人のいないところで余計なことを話したからだった。冗談のつもりだったのかもしれないが、言われた側は許さなかった。
「俺は、そいつらが喧嘩してることより、三人でいられなくなったことが嫌だった。片方と話せば、もう片方を裏切ってるような気がしたし、ふたりから別々に愚痴を聞かされるのも面倒だった。早く仲直りさせれば、全部元に戻ると思ったんだ」
「オレにわざわざそんな話をするってことは、仲直りなんて出来なかったんでしょ」
尚人の指摘に、猪田は苦笑してみせた。猪田の一人称が『俺』になっている。いつもは『先生』と押しつけがましく言っているくせに、過去の話をするときは素に戻るのだなと、尚人は思った。
「俺はふたりに嘘をついた。片方には、あいつが謝りたがってると言った。もう片方には、話を聞いてやってほしいと頼まれたと言った。それで放課後、三人で集まったんだ」
どちらも、相手が望んでいるならと教室へ来た。顔を合わせた途端、猪田の嘘はすぐに露見した。謝りたいなどと言っていない。話を聞いてほしいとも頼んでいない。ふたりから責められた猪田は、それでも引かなかった。
「ここまで来たんだから、ちゃんと話せ。昔からの友達なんだから、このまま終わるのはおかしい。そんなことを言ったよ。先生はあいつらのために言っているつもりだった」
話を広めた友人は謝った。だが、自分は悪気がなかった、皆も笑っていたのだから、そこまで怒ることではないとも言った。もうひとりは、その言葉を聞き終えると、仲直りするつもりはないと答えた。
「俺はそいつに、謝ったんだから許してやれと言った。誰にでも間違いはあるし、一度のことで友達をやめるなんてもったいないと思ったからな」
猪田がなおも説得しようとすると、友人は教室を出ていこうとした。その背中を追った猪田に、彼は振り返って言った。
「『お前は俺を助けたいんじゃない。自分がまた三人でいたいだけだろ』ってな」
猪田は返す言葉がなかったという。
彼の言うとおりだった。猪田が戻したかったのは、傷つけられた友人の気持ちではない。三人でつるみ、なにも考えずに笑っていた、自分にとって居心地のよい関係だった。友人が許したくないと思っていることも、相手と距離を置くことで自分を守ろうとしていることも、猪田は考えなかった。
「そのあと、三人で一緒にいることはなくなった。謝ったほうとは卒業まで一緒にいたが、もうひとりとは必要なことしか話さなくなった。俺は仲直りさせるどころか、嘘をついて、あいつが自分で決めるはずだったことまで奪っただけだった」
「先生が間に入らなくても、仲直りはしなかったんじゃないんすか」
「そうかもしれないな。だけど、仲直りしないことが間違いだと決めていたのは先生だ。あいつにとっては、俺たちと離れることが自分を守るための正解だったのかもしれない」
猪田はそこで口を閉じた。尚人を自分の友人とおなじだと言うつもりはないのだろう。家庭の中で暴力を受けた尚樹と、高校生同士の仲違いを並べられれば、尚人も黙ってはいなかった。
「先生は、それから誰かを助けるのをやめたんすか」
「教師になってるくらいだからな。相変わらず余計なこともするし、自分が正しいと思ったことを押しつけてしまうこともある」
猪田は自嘲するように笑った。
「ただ、自分のすることは相手のためだと思ったときほど、ほんとうにそうなのかを考えるようになった。そいつが望んでいることなのか。それとも、自分の考えを押しつけているだけなのか。そこまでしても、いまでも間違えることはある」
猪田は尚人の腫れた顔を見た。
「お前は、弟くんがどうなればいいと思う?」
「これからも、オレが守っていきたいに決まってるでしょ」
「それは、お前のしたいことだろ。先生が聞いてるのは、弟くんはどうしたいと言ってるのかだ。互いの言い分をちゃんと投げ合わないと、先生みたいに失敗するぞ」
すぐに答えられると思った。
尚樹は自分と一緒にいたいに決まっている。母親や柴崎より、自分を選ぶに決まっている。だからこれまで尚人は、兄弟が離れずに暮らすため、学校にも周囲の大人にも嘘をついてきた。
だが尚樹の口から、これからもあの家で暮らしたいと聞いたことはなかった。兄と一緒にいたいのか、あんな母親でも、真弓を親だと認めているのか。あるいは家族と早く縁を切りたいと思っているのか。真意は分からない。
「……聞いてないっす」
尚人が答えると、猪田は責めるでもなく、ただ頷いた。
「だったら、まず本人に聞かないとな。先生が聞くんじゃないぞ。お前がちゃんと聞くんだ」
猪田にかけられた、いままでのどんな言葉よりも、すっと腑に落ちた。これが人に助けを求めた結果ということだろうか。頭の中にずっとかかっていた靄が晴れたような感覚がした。目の前のことがすべて解決したわけではない。家族である限り、家に蔓延っている問題が根本的に解決するのは、時間を要するだろう。それでも、手探りだった道程に、ようやく指針を見つけられたかのようだった。
バイト先に、平謝りして休むと連絡した。放課後、学校に残らないといけなくなったと理由をつけた。また嘘を重ねてしまった。嘘をつくということに対して、昔ほど罪悪感は働かなくなっているのは、もうそれに慣れてしまったからだろうか。いちいちそんなことを気にしていたら、守りたいものも守れない。尚人は逸る心に、そればかりを言い聞かせた。
スーパーで夕食の買い物をして家に帰ると、尚樹は居間で宿題を片付けているところだった。玄関の扉が急に開いたために驚いたのか、目を見開いて尚人を見ている。
「兄ちゃん、今日仕事じゃないの?」
「休んだ」
「具合悪いの?」
「いや……」
話をどう切り出すべきか迷った。台所に行って、買ってきたものを冷蔵庫に入れる。水道水をコップに入れて、一気飲みをする。そうこうしているうちに、尚樹はすでに自分の宿題に戻っていたが、意識の半分はまだ、尚人に注がれたままであることはわかった。
「尚樹、ちょっといいか」
尚人は結局そう言って、尚樹の向かいに腰を下ろした。
「どうしたの?」
カタリと音がして、鉛筆が卓上に置かれた。重い雰囲気を察したのか、尚樹はピンと背筋を伸ばしている。
「……ごめんな」
その言葉が出るまでに、尚人は視線を弟の顔とテーブルのあいだを何往復もさせた。
「オレは尚樹のためだと思って、嘘もついてきたし、お前にも強要させたし、後先も考えず柴崎を殴った。でもそれはオレの勝手な考えで、尚樹には迷惑ばっかかけてたよな」
尚樹は背筋を伸ばしたまま、卓上に置いた鉛筆へ目を落としている。尚人は、その沈黙を肯定として受け取ってもいいのか分からなかった。謝れば許してもらえると思っていたわけではない。それでも、弟の口から迷惑だったと言われる覚悟が、ほんとうに出来ていたのかと問われれば、自信はなかった。
「……迷惑ばっかりじゃないよ」
やがて尚樹が言った。
「兄ちゃんがバイトしてくれなかったら、ご飯も食べられないし、学校にも行けないかもしれない。柴崎さんが怒ったときも、いつも僕を部屋に戻してくれた。だから、兄ちゃんがしてくれたことが、ぜんぶ嫌だったわけじゃないよ」
尚人は弟の顔を見た。兄を慰めるために言っているようには見えなかった。尚人のしてきたことを否定せず、そのうえで、まだ言葉の続きを探している。
「でも、僕がなにか言うと、兄ちゃんはすぐに、自分がなんとかするって言うだろ」
「……ああ」
「それで、僕は心配しなくていいって言われる。だから兄ちゃんが知らないところで、僕が困ったら、どうすればいいのか分からなかった。相談したら、また兄ちゃんが怒って、柴崎さんと喧嘩すると思ったから」
尚樹は自分の手首を見た。痣は薄くなっていたが、完全には消えていない。袖を引き、隠すような仕草をしたあと、途中で手を止めた。
「僕は、兄ちゃんに怪我してほしくなかっただけだよ」
「分かってる」
「分かってなかったから、殴りにいったんじゃん」
そのとおりだった。尚人は尚樹の傷を見つけた瞬間、自分がどうすれば気が済むのかしか考えなかった。弟がズボンを掴み、行かないでくれと訴えていたのに、その手を振りほどいた。柴崎を殴ることが尚樹を守る方法だと決め、守られるはずの本人の言葉を無視した。
「……そうだな」
尚人が認めると、尚樹は意外そうに目を瞬かせた。そんなんじゃねえと言い返されると思っていたのかもしれない。
「だから、聞きに帰ってきたんだ。尚樹は、どうしたいのか」
口にすると、答えを聞くのが怖くなった。
尚樹が母親と暮らしたいと言うかもしれない。自分と離れても、柴崎のいない場所へ行きたいと言うかもしれない。尚人が正しいと信じて維持してきたものを、尚樹は最初から望んでいなかったのかもしれない。そう考えると、問いを取り消したくなった。
だが、ここで尚人が答えを勝手に決めて、これまでどおりの生活を続ければ、なにも変わらないのだ。
「兄ちゃんと一緒にいたい」
弟は迷わずそう言った。尚人の心が安堵に緩みかけたが、尚樹の言葉はそこで終わらなかった。
「でも、柴崎さんがいる家にはいたくない。お母さんには、僕たちのことをちゃんと見てほしい。前みたいに、一緒にご飯を食べてほしい」
『前』とは、いつのことなのだろう。柴崎と出会う前か。真弓が夜の仕事をはじめる前か。尚人は、真弓や尚樹と囲んだ食卓より、尚樹とふたりで食事をするいまのほうが鮮明に思い出せた。
「あと、学校の先生に、もう嘘つきたくない」
「先生に話したいのか」
「全部じゃないよ。兄ちゃんのことまで、勝手に話したくない。でも、怪我したことを聞かれたら、公園で転んだとは言いたくない」
尚人は、猪田に問われたときよりも長く黙った。
尚樹の望みは、どれもわがままではなかった。兄と一緒にいたい。柴崎から離れたい。母親には親でいてほしい。教師へ嘘をつきたくない。ただ、そのすべてを叶える方法を、尚人は知らなかった。
「全部、そうなるとは約束できねえ」
「うん」
「先生に話したら、母さんにも知られるし、知らない大人が家のことを聞きに来るかもしれない。オレとお前が、しばらく一緒にいられなくなることもあるかもしれない」
尚樹の顔に不安が浮かんだ。尚人はそれを見ても、大丈夫だとは言えなかった。根拠もなく安心させて、あとになって違う結果を突きつけることは、守ることとは思えなかった。
「それでも、話したいか」
尚樹は唇を噛み、考え込んだ。
「兄ちゃんも一緒なら」
「分かった」
「兄ちゃんは、僕に怒らない? たとえば僕が先生に話したせいで、面倒なことになっても」
尚人は否定しかけて、言葉を呑み込んだ。これからなにが起きるのか分からない。真弓に責められ、柴崎との殴り合いを咎められれば、尚樹へ苛立ちを向けたくなる瞬間もあるかもしれない。そんな自分は絶対に存在しないと言い切ることはできなかった。
「怒りそうになったら、いまの話を思い出す。絶対に怒らないって言うより、そのほうがほんとうだろ」
「兄ちゃん、もう嘘つかないの?」
尚人は、冷蔵庫へ入れた食材を思い浮かべた。バイト先には、学校へ残ることになったと嘘をついた。明日からも、すべての人間へなにもかも正直に話して生きていけるとは思わない。尚樹を守るために、また真実を隠すこともあるだろう。
「それは無理かもしれねえ。今日だって、バイト先に嘘ついて休んだからな」
「嘘ついたの?」
「ああ。学校に残るって言った」
「駄目じゃん」
「駄目だな」
尚人が認めると、尚樹は声を立てて笑った。久しぶりに聞いた、なにかを怖がっていない笑い声だった。
「でも、もうお前に、オレを守るための嘘はつかせない。お前が話したいことまで、オレが勝手に止めるのもやめる」
「ほんと?」
「それは、ほんとだ」
尚人は立ち上がり、買ってきた食材を冷蔵庫から取り出した。今日は豚肉と野菜を炒め、味噌汁も作るつもりだった。
これからも、なにかを守るために嘘をつくことはあるのかもしれない。ほんとうのことを話したせいで、かえって大切なものを失うこともある。だから尚人は、嘘をつくことそのものが、いつも間違いだとは思わなかった。
守りたい相手がいるのなら、その人がなにを怖がり、なにを望んでいるのかを聞かなければならない。どれほど相手を大切に思っていても、その人の答えまで、自分ひとりで決めていい理由にはならない。
これからの尚樹とのことを自分だけで決めない。嘘をつくのか、ほんとうのことを話すのか。その結果、もたらされたものを受け入れる覚悟が出来るのか。尚樹の人生に関わることなら、彼の言葉を聞き、ふたりで選ぶ。
「尚樹、飯を食いながら、これからのことを話そう」
弟が頷くのを見てから、尚人はフライパンを火にかけた。
正しい答えが見つかったわけではない。それでも、自分の答えだけを弟へ押しつけることは、もうしない。
それが、尚人の見つけた正解だった。
生徒指導室で、尚人は猪田と向かい合っていた。その顔は腫れており、明らかに誰かに殴られたのだと分かる痕がついている。
「この学校は、オレのプライベートなことでも『指導』しようとするんすか」
「その顔で登校してきた生徒を見て、なにも聞かない教師はいないだろ」
猪田はいつものように声を張ることも、冗談めかして笑うこともなかった。尚人の頬から口元へかけて残った腫れを見ているが、怪我を詳しく確かめるために顔を近づけてくるようなことはしなかった。
「喧嘩か?」
「……まあ、そんなとこっす」
解釈次第では、嘘ではなかった。そう思うと、滑らかに言葉が出てきた。
あの日、尚樹が寝静まったのを確認してから、尚人はこっそりと家を出た。予想通り、柴崎は真弓の店にいて酒を飲んでいた。甘い声で真弓と話し、笑い声を上げている柴崎を見ると、全身が熱くなって、こみ上げてくる怒りはおさまらなかった。
店の中で、尚人は柴崎に飛びかかった。他に客がいなかったのが幸いだったのか、それとも尚人の行動を助長させたのかは分からなかったが、アルコールのせいで判断が鈍っている柴崎の顔を思いっきり殴った。柴崎は自分がなにをされたのか、咄嗟に分からなかったような表情をしていたが、痛みで脳が覚醒したのか、やがて逆上した。悲鳴を上げる真弓を尻目に、ふたりは感情のままにつかみ合い、殴り合った。
父親でもない男との争いは、他人同士の喧嘩として定義出来るのだろうか。それとも籍を入れてなくとも、母親の交際相手ならば、家族として認めなければならないのだろうか。
「……弟を守っただけっす」
一瞬、猪田の顔に憐れみの色がよぎった。同情なんてものは要らない。ほんとうの気持ちなんて分からないくせに、ありきたりな言葉で慰めようとするなと、尚人は思った。
「お前が傷ついて、弟くんは守れたのか?」
尚人はごくりと唾を飲み込んだ。猪田の言葉は、尚人しか知らない現実を、あらためて突きつけてきた。
翌朝、頬を腫らしている兄を見た尚樹は、驚きに目を丸くしたあと、なにも見なかったことにしたみたいだったが、聡い弟は、尚人が昨晩なにをしたのか、すべてを察したようだった。
「……わかりません」
週末、柴崎も真弓も、家に戻ってこなかった。尚人が感情のままに拳を振るったからといって、親が改心するわけでも、家の経済状況が豊かになるわけでもなかった。現状が変わらないならまだましなほうで、柴崎と尚人の関係が悪化したことによって、あの男が再び家へ戻ってきたとき、その怒りが尚樹へ向かう可能性もあった。殴り合っている最中には、そんな先のことまで考えられなかった。
尚樹の手首に残った指の痕と、腰の上に広がっていた痣が頭から離れず、柴崎にもおなじだけの痛みを味わわせなければ気が済まなかった。殴りながら、尚樹へ二度と手を出すなと怒鳴ったが、柴崎が家から姿を消したいまになってみれば、あの夜に自分が守れたものは在ったのか、尚人にも分からなかった。
家の中から怒鳴り声が消えた代わりに、玄関の外で物音がするたび、尚樹はそちらへ顔を向けるようになった。母親が戻ってくるのを待っているのか、柴崎が戻ってくるのを恐れているのか、尚人は尋ねられなかった。自分があの男を殴ったことで、家にかろうじて残っていた家族のかたちまで壊したのかもしれないと考えると、尚樹へなにも心配するなとは言えなかった。
「殴った相手は、家にいる人なのか」
「それを聞いて、どうするんすか」
「どうするかを決めるために聞いてる。お前が誰かと喧嘩をしたと言うだけなら、それがたとえ嘘でもただの喧嘩として指導することもできる。だけど、弟を守ったという言葉が出てくるなら、それだけで済ませるわけにはいかないだろう」
猪田はそう言って尚人が答えるのを待っていた。いつもの調子で、担任だからなんでも話せと押し切られたなら、尚人も反発できた。教師に話す義務はないと言い張り、そのまま黙っていればよかった。だが猪田は、なにが起きたのかを知らないままでは判断できないと言っているだけだった。知らないのは当然だ。尚人が、知られないようにしてきたのだから。
「……相手は母親の彼氏です」
口にした途端、その男が尚人の生きる世界に、当たり前にいることまで認めてしまったような気がした。柴崎は父親ではない。家賃を払っているわけでも、尚樹の食事を用意するわけでもない。それなのに母親の隣に座り、尚人の給料を要求し、自分が大河原家の中に存在しているのが当たり前であるかのような顔をしていた。
「そいつが、弟に手を出したんすよ。弟は怪我を隠して、誰にもなにも言わずにひとりで我慢してた。そんなこと知っちまったら、我慢出来なくて……」
「弟くんは、どうしてそこまでして隠したんだ」
「……オレが困るからだって」
尚人はそこで言葉を切った。口にして、ふいに泣きそうになった。どうしてまだ小学生のあいつが、そこまで気を回さないといけないのかと考えると、悔しくて悔しくて、机の下で固めた拳をぎゅっと握りしめるしかなかった。
兄がバイトを休まないように。柴崎と喧嘩をしないように。怪我をしないように。尚樹は自分の痛みより、尚人の生活が崩れないことを選んだ。
「オレが教えたんすよ。他人に家のことを聞かれても、なにもないって言えって。黙ってなきゃ守れないこともあるって」
猪田は責めなかった。尚人は視線を落とし、怒鳴られるのを待ったが、いつまで経っても声は飛んでこなかった。
「それで、大河原はその男を殴りに行ったのか」
「他にどうしろっていうんすか。先生に話したら、すぐになんとかしてくれたんですか。母親があいつを追い出して、弟がこれからもオレと一緒にいられるって、約束できたんすか」
「誰かに話すことで、大河原の望むとおりにならなかったとしても、大河原がひとりで抱え込まずに、どうするかを一緒に考えられるかもしれないだろう」
「綺麗事っすね」
「そうだな。先生も高校生の頃、友達のためだと言いながら、そいつがどうしたいのかを聞かなかったことがある」
猪田は椅子の背へ身体を預けた。学生時代の話をするときには、いつもならバドミントンの大会や練習の厳しさを持ち出すところだが、今度はそうしなかった。
「当時、先生にはいつも一緒にいた友達がふたりいた。昼飯を食うのも、帰るのも三人だった。卒業しても、ずっとそのままだと思ってたよ」
しかし、高校二年の冬に、そのふたりが互いに口を利かなくなった。原因は、片方がもう片方の家庭について、本人のいないところで余計なことを話したからだった。冗談のつもりだったのかもしれないが、言われた側は許さなかった。
「俺は、そいつらが喧嘩してることより、三人でいられなくなったことが嫌だった。片方と話せば、もう片方を裏切ってるような気がしたし、ふたりから別々に愚痴を聞かされるのも面倒だった。早く仲直りさせれば、全部元に戻ると思ったんだ」
「オレにわざわざそんな話をするってことは、仲直りなんて出来なかったんでしょ」
尚人の指摘に、猪田は苦笑してみせた。猪田の一人称が『俺』になっている。いつもは『先生』と押しつけがましく言っているくせに、過去の話をするときは素に戻るのだなと、尚人は思った。
「俺はふたりに嘘をついた。片方には、あいつが謝りたがってると言った。もう片方には、話を聞いてやってほしいと頼まれたと言った。それで放課後、三人で集まったんだ」
どちらも、相手が望んでいるならと教室へ来た。顔を合わせた途端、猪田の嘘はすぐに露見した。謝りたいなどと言っていない。話を聞いてほしいとも頼んでいない。ふたりから責められた猪田は、それでも引かなかった。
「ここまで来たんだから、ちゃんと話せ。昔からの友達なんだから、このまま終わるのはおかしい。そんなことを言ったよ。先生はあいつらのために言っているつもりだった」
話を広めた友人は謝った。だが、自分は悪気がなかった、皆も笑っていたのだから、そこまで怒ることではないとも言った。もうひとりは、その言葉を聞き終えると、仲直りするつもりはないと答えた。
「俺はそいつに、謝ったんだから許してやれと言った。誰にでも間違いはあるし、一度のことで友達をやめるなんてもったいないと思ったからな」
猪田がなおも説得しようとすると、友人は教室を出ていこうとした。その背中を追った猪田に、彼は振り返って言った。
「『お前は俺を助けたいんじゃない。自分がまた三人でいたいだけだろ』ってな」
猪田は返す言葉がなかったという。
彼の言うとおりだった。猪田が戻したかったのは、傷つけられた友人の気持ちではない。三人でつるみ、なにも考えずに笑っていた、自分にとって居心地のよい関係だった。友人が許したくないと思っていることも、相手と距離を置くことで自分を守ろうとしていることも、猪田は考えなかった。
「そのあと、三人で一緒にいることはなくなった。謝ったほうとは卒業まで一緒にいたが、もうひとりとは必要なことしか話さなくなった。俺は仲直りさせるどころか、嘘をついて、あいつが自分で決めるはずだったことまで奪っただけだった」
「先生が間に入らなくても、仲直りはしなかったんじゃないんすか」
「そうかもしれないな。だけど、仲直りしないことが間違いだと決めていたのは先生だ。あいつにとっては、俺たちと離れることが自分を守るための正解だったのかもしれない」
猪田はそこで口を閉じた。尚人を自分の友人とおなじだと言うつもりはないのだろう。家庭の中で暴力を受けた尚樹と、高校生同士の仲違いを並べられれば、尚人も黙ってはいなかった。
「先生は、それから誰かを助けるのをやめたんすか」
「教師になってるくらいだからな。相変わらず余計なこともするし、自分が正しいと思ったことを押しつけてしまうこともある」
猪田は自嘲するように笑った。
「ただ、自分のすることは相手のためだと思ったときほど、ほんとうにそうなのかを考えるようになった。そいつが望んでいることなのか。それとも、自分の考えを押しつけているだけなのか。そこまでしても、いまでも間違えることはある」
猪田は尚人の腫れた顔を見た。
「お前は、弟くんがどうなればいいと思う?」
「これからも、オレが守っていきたいに決まってるでしょ」
「それは、お前のしたいことだろ。先生が聞いてるのは、弟くんはどうしたいと言ってるのかだ。互いの言い分をちゃんと投げ合わないと、先生みたいに失敗するぞ」
すぐに答えられると思った。
尚樹は自分と一緒にいたいに決まっている。母親や柴崎より、自分を選ぶに決まっている。だからこれまで尚人は、兄弟が離れずに暮らすため、学校にも周囲の大人にも嘘をついてきた。
だが尚樹の口から、これからもあの家で暮らしたいと聞いたことはなかった。兄と一緒にいたいのか、あんな母親でも、真弓を親だと認めているのか。あるいは家族と早く縁を切りたいと思っているのか。真意は分からない。
「……聞いてないっす」
尚人が答えると、猪田は責めるでもなく、ただ頷いた。
「だったら、まず本人に聞かないとな。先生が聞くんじゃないぞ。お前がちゃんと聞くんだ」
猪田にかけられた、いままでのどんな言葉よりも、すっと腑に落ちた。これが人に助けを求めた結果ということだろうか。頭の中にずっとかかっていた靄が晴れたような感覚がした。目の前のことがすべて解決したわけではない。家族である限り、家に蔓延っている問題が根本的に解決するのは、時間を要するだろう。それでも、手探りだった道程に、ようやく指針を見つけられたかのようだった。
バイト先に、平謝りして休むと連絡した。放課後、学校に残らないといけなくなったと理由をつけた。また嘘を重ねてしまった。嘘をつくということに対して、昔ほど罪悪感は働かなくなっているのは、もうそれに慣れてしまったからだろうか。いちいちそんなことを気にしていたら、守りたいものも守れない。尚人は逸る心に、そればかりを言い聞かせた。
スーパーで夕食の買い物をして家に帰ると、尚樹は居間で宿題を片付けているところだった。玄関の扉が急に開いたために驚いたのか、目を見開いて尚人を見ている。
「兄ちゃん、今日仕事じゃないの?」
「休んだ」
「具合悪いの?」
「いや……」
話をどう切り出すべきか迷った。台所に行って、買ってきたものを冷蔵庫に入れる。水道水をコップに入れて、一気飲みをする。そうこうしているうちに、尚樹はすでに自分の宿題に戻っていたが、意識の半分はまだ、尚人に注がれたままであることはわかった。
「尚樹、ちょっといいか」
尚人は結局そう言って、尚樹の向かいに腰を下ろした。
「どうしたの?」
カタリと音がして、鉛筆が卓上に置かれた。重い雰囲気を察したのか、尚樹はピンと背筋を伸ばしている。
「……ごめんな」
その言葉が出るまでに、尚人は視線を弟の顔とテーブルのあいだを何往復もさせた。
「オレは尚樹のためだと思って、嘘もついてきたし、お前にも強要させたし、後先も考えず柴崎を殴った。でもそれはオレの勝手な考えで、尚樹には迷惑ばっかかけてたよな」
尚樹は背筋を伸ばしたまま、卓上に置いた鉛筆へ目を落としている。尚人は、その沈黙を肯定として受け取ってもいいのか分からなかった。謝れば許してもらえると思っていたわけではない。それでも、弟の口から迷惑だったと言われる覚悟が、ほんとうに出来ていたのかと問われれば、自信はなかった。
「……迷惑ばっかりじゃないよ」
やがて尚樹が言った。
「兄ちゃんがバイトしてくれなかったら、ご飯も食べられないし、学校にも行けないかもしれない。柴崎さんが怒ったときも、いつも僕を部屋に戻してくれた。だから、兄ちゃんがしてくれたことが、ぜんぶ嫌だったわけじゃないよ」
尚人は弟の顔を見た。兄を慰めるために言っているようには見えなかった。尚人のしてきたことを否定せず、そのうえで、まだ言葉の続きを探している。
「でも、僕がなにか言うと、兄ちゃんはすぐに、自分がなんとかするって言うだろ」
「……ああ」
「それで、僕は心配しなくていいって言われる。だから兄ちゃんが知らないところで、僕が困ったら、どうすればいいのか分からなかった。相談したら、また兄ちゃんが怒って、柴崎さんと喧嘩すると思ったから」
尚樹は自分の手首を見た。痣は薄くなっていたが、完全には消えていない。袖を引き、隠すような仕草をしたあと、途中で手を止めた。
「僕は、兄ちゃんに怪我してほしくなかっただけだよ」
「分かってる」
「分かってなかったから、殴りにいったんじゃん」
そのとおりだった。尚人は尚樹の傷を見つけた瞬間、自分がどうすれば気が済むのかしか考えなかった。弟がズボンを掴み、行かないでくれと訴えていたのに、その手を振りほどいた。柴崎を殴ることが尚樹を守る方法だと決め、守られるはずの本人の言葉を無視した。
「……そうだな」
尚人が認めると、尚樹は意外そうに目を瞬かせた。そんなんじゃねえと言い返されると思っていたのかもしれない。
「だから、聞きに帰ってきたんだ。尚樹は、どうしたいのか」
口にすると、答えを聞くのが怖くなった。
尚樹が母親と暮らしたいと言うかもしれない。自分と離れても、柴崎のいない場所へ行きたいと言うかもしれない。尚人が正しいと信じて維持してきたものを、尚樹は最初から望んでいなかったのかもしれない。そう考えると、問いを取り消したくなった。
だが、ここで尚人が答えを勝手に決めて、これまでどおりの生活を続ければ、なにも変わらないのだ。
「兄ちゃんと一緒にいたい」
弟は迷わずそう言った。尚人の心が安堵に緩みかけたが、尚樹の言葉はそこで終わらなかった。
「でも、柴崎さんがいる家にはいたくない。お母さんには、僕たちのことをちゃんと見てほしい。前みたいに、一緒にご飯を食べてほしい」
『前』とは、いつのことなのだろう。柴崎と出会う前か。真弓が夜の仕事をはじめる前か。尚人は、真弓や尚樹と囲んだ食卓より、尚樹とふたりで食事をするいまのほうが鮮明に思い出せた。
「あと、学校の先生に、もう嘘つきたくない」
「先生に話したいのか」
「全部じゃないよ。兄ちゃんのことまで、勝手に話したくない。でも、怪我したことを聞かれたら、公園で転んだとは言いたくない」
尚人は、猪田に問われたときよりも長く黙った。
尚樹の望みは、どれもわがままではなかった。兄と一緒にいたい。柴崎から離れたい。母親には親でいてほしい。教師へ嘘をつきたくない。ただ、そのすべてを叶える方法を、尚人は知らなかった。
「全部、そうなるとは約束できねえ」
「うん」
「先生に話したら、母さんにも知られるし、知らない大人が家のことを聞きに来るかもしれない。オレとお前が、しばらく一緒にいられなくなることもあるかもしれない」
尚樹の顔に不安が浮かんだ。尚人はそれを見ても、大丈夫だとは言えなかった。根拠もなく安心させて、あとになって違う結果を突きつけることは、守ることとは思えなかった。
「それでも、話したいか」
尚樹は唇を噛み、考え込んだ。
「兄ちゃんも一緒なら」
「分かった」
「兄ちゃんは、僕に怒らない? たとえば僕が先生に話したせいで、面倒なことになっても」
尚人は否定しかけて、言葉を呑み込んだ。これからなにが起きるのか分からない。真弓に責められ、柴崎との殴り合いを咎められれば、尚樹へ苛立ちを向けたくなる瞬間もあるかもしれない。そんな自分は絶対に存在しないと言い切ることはできなかった。
「怒りそうになったら、いまの話を思い出す。絶対に怒らないって言うより、そのほうがほんとうだろ」
「兄ちゃん、もう嘘つかないの?」
尚人は、冷蔵庫へ入れた食材を思い浮かべた。バイト先には、学校へ残ることになったと嘘をついた。明日からも、すべての人間へなにもかも正直に話して生きていけるとは思わない。尚樹を守るために、また真実を隠すこともあるだろう。
「それは無理かもしれねえ。今日だって、バイト先に嘘ついて休んだからな」
「嘘ついたの?」
「ああ。学校に残るって言った」
「駄目じゃん」
「駄目だな」
尚人が認めると、尚樹は声を立てて笑った。久しぶりに聞いた、なにかを怖がっていない笑い声だった。
「でも、もうお前に、オレを守るための嘘はつかせない。お前が話したいことまで、オレが勝手に止めるのもやめる」
「ほんと?」
「それは、ほんとだ」
尚人は立ち上がり、買ってきた食材を冷蔵庫から取り出した。今日は豚肉と野菜を炒め、味噌汁も作るつもりだった。
これからも、なにかを守るために嘘をつくことはあるのかもしれない。ほんとうのことを話したせいで、かえって大切なものを失うこともある。だから尚人は、嘘をつくことそのものが、いつも間違いだとは思わなかった。
守りたい相手がいるのなら、その人がなにを怖がり、なにを望んでいるのかを聞かなければならない。どれほど相手を大切に思っていても、その人の答えまで、自分ひとりで決めていい理由にはならない。
これからの尚樹とのことを自分だけで決めない。嘘をつくのか、ほんとうのことを話すのか。その結果、もたらされたものを受け入れる覚悟が出来るのか。尚樹の人生に関わることなら、彼の言葉を聞き、ふたりで選ぶ。
「尚樹、飯を食いながら、これからのことを話そう」
弟が頷くのを見てから、尚人はフライパンを火にかけた。
正しい答えが見つかったわけではない。それでも、自分の答えだけを弟へ押しつけることは、もうしない。
それが、尚人の見つけた正解だった。



