4
ほどなくして尚人のアルバイトは、学校側に正式に認められた。
尚人は当初、保護者欄の署名を自分でしようと思っていた。だが、それが発覚すれば、無許可で働いていたこと以上の問題になる。考え直した末、酒に酔って半ばまともに話を聞いていなかった真弓へ用紙を差し出し、自分の言うがままに署名させた。判子は、真弓が寝入ったあとに尚人が押した。
翌朝、その申請書を提出すると、猪田は勤務先や勤務時間にひと通り目を通したあと、保護者欄で手を止めた。尚人はなにも言わず、疑われたときの答えを頭の中で用意したが、猪田は署名について尋ねなかった。
「これ、先生がお前から受け取ったあと、提出するのを忘れてたことにするから」
尚人は、猪田がなにを言ったのか理解するまでに時間がかかった。
「それ、先生が怒られるんじゃないんすか」
「まあ、怒られるかもしれないな」
「じゃあ、なんで」
「お前が無許可で働いていたことを報告すれば、処分するかどうかの話から始まる。いま必要なのは、これからお前が、なんの負い目もなく、堂々と働けるようにすることだろ。大丈夫だ。先生は怒られるのには慣れてるからな」
注意されることに慣れているというのは、大人としてどうなのだろうか。猪田はたいしたことではないと言いたげに笑っているが、尚人には納得できなかった。
「先生も嘘つくんですね」
「ああ。つくことはある」
あまりにも簡単に認められ、尚人は返す言葉を失った。猪田は、自分が嘘をつくことを正当化もしなければ、尚人の嘘となにが違うのかを説明しようともしなかった。
猪田が正しいことを言うだけの人間なら、嫌うのは簡単だった。規則を破った尚人を責め、学校の決まりに従わせようとするだけなら、なにも知らない大人だと切り捨てられた。
だが猪田は、自分が責任を負う形で規則を曲げた。
——誰かを守るためなら、嘘をついてもいい。
それは尚人が選び続けてきたものと、おなじ答えだった。
アルバイトの件が、結果として猪田に庇われたことになったからといって、尚人が生活態度を改めた、ということはなかった。
ただ、以前のように、猪田のすることをなにもかも悪意として受け取ることは難しくなった。ホームルームで眠っていれば容赦なく起こされ、パーカーを見れば指定のセーターを買うまでのあいだだけだぞと念を押される。口答えをすれば、屁理屈をこねる元気があるなら起きていろとバインダーで机を叩かれた。そのどれもが腹立たしくはあったが、アルバイトを辞めさせるための材料として使われることはなかった。
猪田が申請書のことを蒸し返さなかったので、尚人も、忘れたことにしておいた。週に三日の勤務を続け、給料が入ると、約束していた五万円を真弓へ渡した。十万円を出せと、柴崎から凄まれるかと半ば覚悟していたが、あの諍いを忘れているのか、柴崎も真弓も、金が足りないとは言ってこなかった。
給料の残りから尚樹の給食費と遠足代を取り分けた。親に渡す金が膨らまなかったとはいえ、暮らしが楽になったわけではない。
ささくれのような日常がしばらく続いたあと、尚樹のランドセルから、一枚の紙が覗いていることに気づいた。
バイトのない平日の夕方だった。尚樹は居間の低いテーブルで宿題をしており、尚人は台所で米を研いでいた。真弓は帰っておらず、柴崎も外へ出ている。家の中が静かなうちに翌日の持ち物を確認しておこうと思い、ランドセルを引き寄せると、内側のポケットに折り畳まれたプリントが押し込まれていた。
広げてみると、個人面談の日程を確認するための用紙だった。担任との面談を希望する日時を書き、保護者が署名して提出するよう記されている。提出期限は三日前の日付で、希望欄には《都合がつかないため、面談は希望しません》と書かれていた。
その下には、大河原真弓という名前がある。
文字の大きさは揃っておらず、《弓》の最後の線が不自然に長かった。真弓の字ではない。母の字を見慣れている尚人でなくても、小学生が大人の文字を真似て書いたのだとわかる出来だった。
「尚樹」
呼ばれた尚樹は、鉛筆を動かしていた手を止めた。尚人が用紙を持っていることに気づくと、すぐに目を伏せ、算数の問題へ戻ろうとした。
「これ、お前が書いたのか」
「あした先生に出すやつだから、返して」
「そういうこと聞いてねえよ。母さんの名前、勝手に書いたのかって聞いてんだ」
尚樹はしばらく黙っていたが、逃げられないと諦めたらしく、小さく頷いた。
「なんでこんなことした」
「面談したら、先生が家のこと聞くかもしれないから」
「聞かれたって、普通に答えればいいだろ」
「普通って、どれを言えばいいの」
尚人は返事ができなかった。
尚樹は顔を上げず、消しゴムの角でノートの同じ場所を何度も擦っていた。紙が薄くなり、鉛筆で書いた数字の周りだけが白く毛羽立っている。
「母さんが夜に帰ってこないことも、柴崎さんがうちに入り浸ってお酒を飲んでることも、兄ちゃんがご飯を作ってることも、全部言うの?」
「全部言う必要はねえよ」
「だから、僕はなにを言えばいいのか分からないから、面談しなければ聞かれないと思っただけだよ」
尚人は手にしていた用紙を見た。保護者欄へ親の名前を自分で書き、必要な形だけを整えて、大人が踏み込んでくるのを避ける。自分がアルバイトの申請書を出したときにしようとしていたことと、違いを見つける方が難しかった。
「こんなの、バレたら余計に面倒になるぞ」
「バレてないよ」
「いま、オレにバレただろ」
「兄ちゃんは先生じゃないじゃん」
尚樹は不思議そうに答えた。尚人を言い負かそうとしているのではなく、本当に問題がないと思っているらしい。
「先生には、家では何もないって言えばいいんだろ」
尚人は用紙を握ったまま動けなかった。
尚樹は、自分で考えたのだ。ほんとうのことを知られれば、兄と離されるかもしれない。ならば、聞かれないように先回りして、必要なところだけ嘘で埋めればいい。
尚人が毎日やっているように。
「母さんの名前を勝手に書くな」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
「兄ちゃんも、学校の紙、母さんがちゃんと書いたんじゃないんだろ。あのとき母さん、酔ってたじゃん。兄ちゃんはなにも言わずに名前だけ書かせて、判子はあとで勝手に押してたよね」
見られているとは思っていなかった。
尚人は、尚樹が寝たあとに判子を押したつもりでいた。襖の向こうから音を聞いていたのか、途中で目を覚ましたのかはわからない。どちらにしても、尚樹は兄が学校へ出す書類を整えるところを見て、それが家を守るために必要なやり方だと感じていたのだ。
「オレのは、お前のとは違う」
「どこが?」
尚人は言い返そうと思って口を開いたが、言葉が続かなかった。
アルバイトを続けなければ、尚樹へ食べさせる金がなくなる。
面談をすれば、家のことを知られるかもしれない。互いに守ろうとしているものも、嘘を選んだ理由も、おなじだった。
尚樹は尚人の返事を待っていた。叱られると思っている顔ではなかった。兄なら自分がやったことを理解してくれる。そう確信しているような表情をしていた。
店の給湯器が故障し、尚人はいつもより一時間ほど早く帰れることになった。裏口を出る際、店長から廃棄になるパンや食材をいくつか渡された。一時間分の時給は減るが、食料を貰えたことで、どっこいどっこいだと思った。
尚樹に連絡すれば喜ぶだろうと思ったが、驚かせるために黙って持ち帰ることにした。
帰宅したとき、家の中は真っ暗だった。尚樹の靴は玄関に並んでいたから、もう部屋に引っ込んでいるのかと思い、尚人も靴を脱いだ。
換気の行き届いていない台所からは、うっすらとインスタントラーメンの香りがしていた。尚樹が食べたのだろうか。なにも食わないよりはましだが、小学生の夕食がインスタントラーメンだけというのは不憫だと思いながら、ダイニングテーブルの上に持ち帰った食材を置いた。
カサリと袋が鳴ったあと、部屋の奥からすんすんと、子供の泣き声のような音がかすかに聞こえてきた。
「尚樹?」
返事はない。声もやんだ。気の所為ではなかったはずだ。尚樹がいるはずの部屋の襖を開くと、布団が山のかたちになって揺れていた。いつもは手足を投げ出して寝ているのに、今日は布団に潜っている。
「起きてんのか」
返事はない。
「尚樹」
「寝てる」
「寝てるやつは喋らねえよ」
部屋の電気を点けると、尚樹が布団の中で丸まっているのがはっきりと分かった。どうしたんだよと呟いて布団をめくろうとすると、抵抗してくる。尚人は、なにかおかしいと思いながらも、そのまま力尽くで布団を剥ぎ取った。
尚樹はダンゴムシのように丸まっていた。眠っているようには見えなかった。尚人に布団を取られても顔を上げず、敷き布団へ額をつけるようにして、さらに身体を縮めた。
「なにしてんだよ」
「寒いだけ」
「だったら普通に布団をかぶれよ」
取り上げた布団を掛け直そうと、尚樹の肩へ手を伸ばした。指先が触れた途端、尚樹は身を捩って逃げようとした。
「いてえのか?」
「痛くない」
「いま、痛そうにしただろ」
「してない」
袖口から覗いた手首に、赤黒い痕が見えた。尚人は尚樹の腕を取ろうとしたが、また逃げられた。力を入れて掴めば見せるかもしれない。そう思ったところで、痕が指の形に並んでいることに気づいた。
「それ、どうした」
尚樹は自分の手首へ目を落とした。いま初めて見つけたような顔をして、袖を引き下ろす。
「転んだ」
「転んで、そこだけ誰かに掴まれたみたいになるのかよ」
「知らない。なったんだから仕方ないだろ」
普段なら、そんな口の利き方をすればすぐに叱っていた。だが、尚樹が尚人の顔を見ようとしないことのほうが気になった。
「こっち向け」
「嫌だ」
「なんでだよ」
「眠いから」
「さっきから、そればっかりじゃねえか」
尚人が肩を押して身体を仰向けにしようとすると、尚樹はさらに丸まって抵抗した。力では尚人の方が強い。それでも、無理に動かせば駄目なのだと、尚樹が漏らした短い声で分かった。丸まった背中のシャツがずり上がり、腰の上に紫色の痣が見えた。
「……尚樹! これ、いつのだよ!」
焦燥と怒りが同時に体を駆け巡った。尚樹は躍起になって、顔を真っ赤にしながらシャツを引き下ろした。
「忘れた!」
痣の周りは黄色くなり始めている。尚人が家にいるあいだ、尚樹はこれを隠していた。いつも通り飯を食い、寝て、朝になればランドセルを背負って学校へ行った。
尚人は一昨日の夜を思い出した。帰宅すると尚樹はすでに布団に入っていて、呼びかけても顔を出さなかった。尚人は疲れていたこともあり、それ以上気にしなかった。
「柴崎にやられたのか」
「違う」
返事が早かった。尚人がそう聞いてくると予測して、言葉を準備していたのだ。
「じゃあ誰だよ」
「公園で転んだんだって!」
「さっきから言ってることがおかしいんだよ。どこの公園で、なにしてた」
「近くの公園」
「誰といた」
「……ひとり」
尚人が帰宅する頃には、尚樹は家にいる。遊びに行った日には、どこへ行ったのか、誰と遊んだのかを夕食の席で嬉しそうに話す。だが最近は、公園へ行ったという話は聞いていない。
「学校では、なんて言った。先生に見つかったのか?」
「見つかってないし、なにも言ってないよ」
それ以上聞く必要はなかった。尚人は立ち上がった。柴崎は近くの居酒屋か、真弓のいる店へ行けば見つかるかもしれない。見つけてどうするのかは決めていなかった。ただ、尚樹にこれだけの痣を残した男が、何事もなかったように外で酒を飲んでいることに耐えられなかった。
「どこ行くの」
「柴崎を探してくる」
「やめて」
尚樹が尚人のズボンを掴んだ。立ち上がろうとして身体を伸ばし、すぐにまた布団へ崩れた。
「お前は寝てろ」
「兄ちゃん、また喧嘩するだろ」
「喧嘩じゃねえよ。あいつに話を聞くだけだ」
「嘘だ。兄ちゃん、怒ったら話なんか聞かないじゃん」
「お前があいつの心配する必要ねえだろ」
「柴崎さんの心配じゃない。僕は兄ちゃんが怪我するのが嫌なんだよ」
尚人は、尚樹の指を一本ずつ外そうとした。だが、細い指は思っていたよりも強く布を握っていた。
「だから誰にも言わなかったのか」
尚樹は頷いた。
「兄ちゃんが知らないままだったら、バイトも休まないし、柴崎さんと喧嘩もしないから」
こんな現実が、自分たちの日常なのだとは認めたくないが、それでも尚樹は、いまの現状を悪化させないように、そして誰にも迷惑をかけないようにと、ひとりで我慢していたのだ。
「だからって、お前が黙ってていいわけねえだろ」
「兄ちゃんも黙ってるじゃん。柴崎さんに殴られても、誰にも言わないだろ。僕にも、なんでもないって言うだろ」
「オレは——」
「黙ってなきゃ守れないこともあるって、兄ちゃんが言ったんだよ」
尚人の言葉を遮って、尚樹はキッと兄を見据えた。
嘘をつくなと言えばよかった。怪我をしたら誰かに言えと叱ればよかった。そうすれば尚樹が怪我を隠すことなどなかったのかもしれない。
尚樹が、父親でもない男に暴力を振るわれたのに、嘘までついてそれを隠そうとしたこと。それは兄である尚人の言ったことを、忠実に守っただけの結果だったのだ。
「兄ちゃんが困らないようにしたかっただけだよ」
そう言った尚樹は、またべそをかいていた。
ほどなくして尚人のアルバイトは、学校側に正式に認められた。
尚人は当初、保護者欄の署名を自分でしようと思っていた。だが、それが発覚すれば、無許可で働いていたこと以上の問題になる。考え直した末、酒に酔って半ばまともに話を聞いていなかった真弓へ用紙を差し出し、自分の言うがままに署名させた。判子は、真弓が寝入ったあとに尚人が押した。
翌朝、その申請書を提出すると、猪田は勤務先や勤務時間にひと通り目を通したあと、保護者欄で手を止めた。尚人はなにも言わず、疑われたときの答えを頭の中で用意したが、猪田は署名について尋ねなかった。
「これ、先生がお前から受け取ったあと、提出するのを忘れてたことにするから」
尚人は、猪田がなにを言ったのか理解するまでに時間がかかった。
「それ、先生が怒られるんじゃないんすか」
「まあ、怒られるかもしれないな」
「じゃあ、なんで」
「お前が無許可で働いていたことを報告すれば、処分するかどうかの話から始まる。いま必要なのは、これからお前が、なんの負い目もなく、堂々と働けるようにすることだろ。大丈夫だ。先生は怒られるのには慣れてるからな」
注意されることに慣れているというのは、大人としてどうなのだろうか。猪田はたいしたことではないと言いたげに笑っているが、尚人には納得できなかった。
「先生も嘘つくんですね」
「ああ。つくことはある」
あまりにも簡単に認められ、尚人は返す言葉を失った。猪田は、自分が嘘をつくことを正当化もしなければ、尚人の嘘となにが違うのかを説明しようともしなかった。
猪田が正しいことを言うだけの人間なら、嫌うのは簡単だった。規則を破った尚人を責め、学校の決まりに従わせようとするだけなら、なにも知らない大人だと切り捨てられた。
だが猪田は、自分が責任を負う形で規則を曲げた。
——誰かを守るためなら、嘘をついてもいい。
それは尚人が選び続けてきたものと、おなじ答えだった。
アルバイトの件が、結果として猪田に庇われたことになったからといって、尚人が生活態度を改めた、ということはなかった。
ただ、以前のように、猪田のすることをなにもかも悪意として受け取ることは難しくなった。ホームルームで眠っていれば容赦なく起こされ、パーカーを見れば指定のセーターを買うまでのあいだだけだぞと念を押される。口答えをすれば、屁理屈をこねる元気があるなら起きていろとバインダーで机を叩かれた。そのどれもが腹立たしくはあったが、アルバイトを辞めさせるための材料として使われることはなかった。
猪田が申請書のことを蒸し返さなかったので、尚人も、忘れたことにしておいた。週に三日の勤務を続け、給料が入ると、約束していた五万円を真弓へ渡した。十万円を出せと、柴崎から凄まれるかと半ば覚悟していたが、あの諍いを忘れているのか、柴崎も真弓も、金が足りないとは言ってこなかった。
給料の残りから尚樹の給食費と遠足代を取り分けた。親に渡す金が膨らまなかったとはいえ、暮らしが楽になったわけではない。
ささくれのような日常がしばらく続いたあと、尚樹のランドセルから、一枚の紙が覗いていることに気づいた。
バイトのない平日の夕方だった。尚樹は居間の低いテーブルで宿題をしており、尚人は台所で米を研いでいた。真弓は帰っておらず、柴崎も外へ出ている。家の中が静かなうちに翌日の持ち物を確認しておこうと思い、ランドセルを引き寄せると、内側のポケットに折り畳まれたプリントが押し込まれていた。
広げてみると、個人面談の日程を確認するための用紙だった。担任との面談を希望する日時を書き、保護者が署名して提出するよう記されている。提出期限は三日前の日付で、希望欄には《都合がつかないため、面談は希望しません》と書かれていた。
その下には、大河原真弓という名前がある。
文字の大きさは揃っておらず、《弓》の最後の線が不自然に長かった。真弓の字ではない。母の字を見慣れている尚人でなくても、小学生が大人の文字を真似て書いたのだとわかる出来だった。
「尚樹」
呼ばれた尚樹は、鉛筆を動かしていた手を止めた。尚人が用紙を持っていることに気づくと、すぐに目を伏せ、算数の問題へ戻ろうとした。
「これ、お前が書いたのか」
「あした先生に出すやつだから、返して」
「そういうこと聞いてねえよ。母さんの名前、勝手に書いたのかって聞いてんだ」
尚樹はしばらく黙っていたが、逃げられないと諦めたらしく、小さく頷いた。
「なんでこんなことした」
「面談したら、先生が家のこと聞くかもしれないから」
「聞かれたって、普通に答えればいいだろ」
「普通って、どれを言えばいいの」
尚人は返事ができなかった。
尚樹は顔を上げず、消しゴムの角でノートの同じ場所を何度も擦っていた。紙が薄くなり、鉛筆で書いた数字の周りだけが白く毛羽立っている。
「母さんが夜に帰ってこないことも、柴崎さんがうちに入り浸ってお酒を飲んでることも、兄ちゃんがご飯を作ってることも、全部言うの?」
「全部言う必要はねえよ」
「だから、僕はなにを言えばいいのか分からないから、面談しなければ聞かれないと思っただけだよ」
尚人は手にしていた用紙を見た。保護者欄へ親の名前を自分で書き、必要な形だけを整えて、大人が踏み込んでくるのを避ける。自分がアルバイトの申請書を出したときにしようとしていたことと、違いを見つける方が難しかった。
「こんなの、バレたら余計に面倒になるぞ」
「バレてないよ」
「いま、オレにバレただろ」
「兄ちゃんは先生じゃないじゃん」
尚樹は不思議そうに答えた。尚人を言い負かそうとしているのではなく、本当に問題がないと思っているらしい。
「先生には、家では何もないって言えばいいんだろ」
尚人は用紙を握ったまま動けなかった。
尚樹は、自分で考えたのだ。ほんとうのことを知られれば、兄と離されるかもしれない。ならば、聞かれないように先回りして、必要なところだけ嘘で埋めればいい。
尚人が毎日やっているように。
「母さんの名前を勝手に書くな」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
「兄ちゃんも、学校の紙、母さんがちゃんと書いたんじゃないんだろ。あのとき母さん、酔ってたじゃん。兄ちゃんはなにも言わずに名前だけ書かせて、判子はあとで勝手に押してたよね」
見られているとは思っていなかった。
尚人は、尚樹が寝たあとに判子を押したつもりでいた。襖の向こうから音を聞いていたのか、途中で目を覚ましたのかはわからない。どちらにしても、尚樹は兄が学校へ出す書類を整えるところを見て、それが家を守るために必要なやり方だと感じていたのだ。
「オレのは、お前のとは違う」
「どこが?」
尚人は言い返そうと思って口を開いたが、言葉が続かなかった。
アルバイトを続けなければ、尚樹へ食べさせる金がなくなる。
面談をすれば、家のことを知られるかもしれない。互いに守ろうとしているものも、嘘を選んだ理由も、おなじだった。
尚樹は尚人の返事を待っていた。叱られると思っている顔ではなかった。兄なら自分がやったことを理解してくれる。そう確信しているような表情をしていた。
店の給湯器が故障し、尚人はいつもより一時間ほど早く帰れることになった。裏口を出る際、店長から廃棄になるパンや食材をいくつか渡された。一時間分の時給は減るが、食料を貰えたことで、どっこいどっこいだと思った。
尚樹に連絡すれば喜ぶだろうと思ったが、驚かせるために黙って持ち帰ることにした。
帰宅したとき、家の中は真っ暗だった。尚樹の靴は玄関に並んでいたから、もう部屋に引っ込んでいるのかと思い、尚人も靴を脱いだ。
換気の行き届いていない台所からは、うっすらとインスタントラーメンの香りがしていた。尚樹が食べたのだろうか。なにも食わないよりはましだが、小学生の夕食がインスタントラーメンだけというのは不憫だと思いながら、ダイニングテーブルの上に持ち帰った食材を置いた。
カサリと袋が鳴ったあと、部屋の奥からすんすんと、子供の泣き声のような音がかすかに聞こえてきた。
「尚樹?」
返事はない。声もやんだ。気の所為ではなかったはずだ。尚樹がいるはずの部屋の襖を開くと、布団が山のかたちになって揺れていた。いつもは手足を投げ出して寝ているのに、今日は布団に潜っている。
「起きてんのか」
返事はない。
「尚樹」
「寝てる」
「寝てるやつは喋らねえよ」
部屋の電気を点けると、尚樹が布団の中で丸まっているのがはっきりと分かった。どうしたんだよと呟いて布団をめくろうとすると、抵抗してくる。尚人は、なにかおかしいと思いながらも、そのまま力尽くで布団を剥ぎ取った。
尚樹はダンゴムシのように丸まっていた。眠っているようには見えなかった。尚人に布団を取られても顔を上げず、敷き布団へ額をつけるようにして、さらに身体を縮めた。
「なにしてんだよ」
「寒いだけ」
「だったら普通に布団をかぶれよ」
取り上げた布団を掛け直そうと、尚樹の肩へ手を伸ばした。指先が触れた途端、尚樹は身を捩って逃げようとした。
「いてえのか?」
「痛くない」
「いま、痛そうにしただろ」
「してない」
袖口から覗いた手首に、赤黒い痕が見えた。尚人は尚樹の腕を取ろうとしたが、また逃げられた。力を入れて掴めば見せるかもしれない。そう思ったところで、痕が指の形に並んでいることに気づいた。
「それ、どうした」
尚樹は自分の手首へ目を落とした。いま初めて見つけたような顔をして、袖を引き下ろす。
「転んだ」
「転んで、そこだけ誰かに掴まれたみたいになるのかよ」
「知らない。なったんだから仕方ないだろ」
普段なら、そんな口の利き方をすればすぐに叱っていた。だが、尚樹が尚人の顔を見ようとしないことのほうが気になった。
「こっち向け」
「嫌だ」
「なんでだよ」
「眠いから」
「さっきから、そればっかりじゃねえか」
尚人が肩を押して身体を仰向けにしようとすると、尚樹はさらに丸まって抵抗した。力では尚人の方が強い。それでも、無理に動かせば駄目なのだと、尚樹が漏らした短い声で分かった。丸まった背中のシャツがずり上がり、腰の上に紫色の痣が見えた。
「……尚樹! これ、いつのだよ!」
焦燥と怒りが同時に体を駆け巡った。尚樹は躍起になって、顔を真っ赤にしながらシャツを引き下ろした。
「忘れた!」
痣の周りは黄色くなり始めている。尚人が家にいるあいだ、尚樹はこれを隠していた。いつも通り飯を食い、寝て、朝になればランドセルを背負って学校へ行った。
尚人は一昨日の夜を思い出した。帰宅すると尚樹はすでに布団に入っていて、呼びかけても顔を出さなかった。尚人は疲れていたこともあり、それ以上気にしなかった。
「柴崎にやられたのか」
「違う」
返事が早かった。尚人がそう聞いてくると予測して、言葉を準備していたのだ。
「じゃあ誰だよ」
「公園で転んだんだって!」
「さっきから言ってることがおかしいんだよ。どこの公園で、なにしてた」
「近くの公園」
「誰といた」
「……ひとり」
尚人が帰宅する頃には、尚樹は家にいる。遊びに行った日には、どこへ行ったのか、誰と遊んだのかを夕食の席で嬉しそうに話す。だが最近は、公園へ行ったという話は聞いていない。
「学校では、なんて言った。先生に見つかったのか?」
「見つかってないし、なにも言ってないよ」
それ以上聞く必要はなかった。尚人は立ち上がった。柴崎は近くの居酒屋か、真弓のいる店へ行けば見つかるかもしれない。見つけてどうするのかは決めていなかった。ただ、尚樹にこれだけの痣を残した男が、何事もなかったように外で酒を飲んでいることに耐えられなかった。
「どこ行くの」
「柴崎を探してくる」
「やめて」
尚樹が尚人のズボンを掴んだ。立ち上がろうとして身体を伸ばし、すぐにまた布団へ崩れた。
「お前は寝てろ」
「兄ちゃん、また喧嘩するだろ」
「喧嘩じゃねえよ。あいつに話を聞くだけだ」
「嘘だ。兄ちゃん、怒ったら話なんか聞かないじゃん」
「お前があいつの心配する必要ねえだろ」
「柴崎さんの心配じゃない。僕は兄ちゃんが怪我するのが嫌なんだよ」
尚人は、尚樹の指を一本ずつ外そうとした。だが、細い指は思っていたよりも強く布を握っていた。
「だから誰にも言わなかったのか」
尚樹は頷いた。
「兄ちゃんが知らないままだったら、バイトも休まないし、柴崎さんと喧嘩もしないから」
こんな現実が、自分たちの日常なのだとは認めたくないが、それでも尚樹は、いまの現状を悪化させないように、そして誰にも迷惑をかけないようにと、ひとりで我慢していたのだ。
「だからって、お前が黙ってていいわけねえだろ」
「兄ちゃんも黙ってるじゃん。柴崎さんに殴られても、誰にも言わないだろ。僕にも、なんでもないって言うだろ」
「オレは——」
「黙ってなきゃ守れないこともあるって、兄ちゃんが言ったんだよ」
尚人の言葉を遮って、尚樹はキッと兄を見据えた。
嘘をつくなと言えばよかった。怪我をしたら誰かに言えと叱ればよかった。そうすれば尚樹が怪我を隠すことなどなかったのかもしれない。
尚樹が、父親でもない男に暴力を振るわれたのに、嘘までついてそれを隠そうとしたこと。それは兄である尚人の言ったことを、忠実に守っただけの結果だったのだ。
「兄ちゃんが困らないようにしたかっただけだよ」
そう言った尚樹は、またべそをかいていた。



