3
学校指定のセーターは、柴崎の煙草の不始末が原因で焦げてしまい、処分した。春から夏に変わる境の、衣替えをする直前のことだった。
学費は奨学金で賄われているが、それ以外の費用は家計から捻出しないといけない。セーターは高額だった。そんなものに金を落とす余裕があるなら、尚樹を食わせるための費用に回すほうが優先だと考えた。
翌日登校すると、放課後ではなく、昼休みに職員室に来いと言われた。また放課後と言えば、尚人がなにかと言い訳をつけて逃げ出すと考えたのだろう。
午前の授業を終え、昼休みになると、尚人は職員室とは反対側の階段を上がった。屋上へ続く扉は施錠されているが、その前の踊り場には滅多に人が来ない。猪田に見つからないように時間を潰し、そのまま五時間目の教室へ戻るつもりだった。
床に腰を下ろし、購買で買ったパンの袋を開けた。カロリーだけは多い、売っている中で最も腹を満たせそうな甘いパンだ。
「やっぱり、ここにいたか」
階段の下から猪田の声がした。
尚人は食べかけのパンを袋へ戻した。足音が近づいてきても立ち上がらなかった。
「逃げるなと言ったよな」
「逃げてないっすよ。学校の中にいるんだから」
「そういう屁理屈はいい。職員室へ来い」
「なんすか、オレには昼飯を食う暇もないんすか」
「飯を食うなとは言ってない。持ってこい。職員室で食えばいいから」
「先生に見張られながら食う飯なんて、不味そうなんすけど」
「それは食ってから判断しろ」
猪田はそれだけ言って階段を下りはじめた。尚人がついてくるかどうかを確かめるために振り返ることもない。放っておけば逃げると思っているくせに、自分が先を歩けば結局ついてくるとも信じているのだろうか。その根拠のない自信を裏切ってやりたかったが、昨日の今日で再び逃げれば、また母親に連絡をされるかもしれない。
尚人は面倒くさそうに立ち上がった。猪田の姿が踊り場から消えるまで待ち、それからゆっくり階段を下りた。
昼休みの職員室は、教師たちが持参した弁当や、購買で買ったパンを机の上に広げ、普段よりも雑然としていた。尚人が入室すると何人かが顔を上げたが、猪田は空いている椅子を自分の机の横へ運び、そこへ座るよう顎で示した。
「食えよ。時間なくなるぞ」
「ここで?」
「さっき自分で、昼飯を食う暇がないって言っただろ」
尚人は椅子へ腰を下ろし、パンの袋を開いた。表面に砂糖の粒がついた菓子パンは、朝からなにも食べていない腹にはありがたかったが、教師の机に囲まれて食べていると、反省文を書かされているような気分になる。
「大河原、お前、それだけで足りるのか?」
あろうことか、猪田も自分の鞄から弁当を取り出した。一段の弁当箱と、ミニトマトが入った小さなタッパーを机の上に置いて合掌している。蓋を開けると、揚げ物中心の、茶色い弁当が広がった。
「ほら、お前も食うか。先生が育てたミニトマト。美味いぞ!」
ちびちびと、パンが無くなるのを惜しむかのようなペースで食べている尚人を気遣ってか、猪田が丸いタッパーを差し出してきた。
「いや、いいっす。オレ、先生と会食しに来たわけじゃないんで」
「会食ってほど大層なもんじゃないだろ。たかがミニトマトで」
猪田は笑いながらタッパーを机の端へ置いた。無理に勧める気はないらしい。尚人が断ったことを気にする様子もなく、弁当箱から唐揚げを取り、二口ほどで食べてしまった。その食べ方まで体育会系だと思うと腹が立った。
隣に座って黙々と食事をされると、こちらのパンがますます貧相に見えてくる。
尚人は視線を落とし、残っていた部分を小さくちぎった。猪田に腹の中まで見透かされるのが嫌で、空腹ではないような顔を作りながら、噛む回数だけを増やした。
猪田は弁当を食べ終えるまで、アルバイトの話をしなかった。尚人を待たせて焦らすつもりなのかとも思ったが、単に食事中に説教をしないと決めているだけなのかもしれない。茶色い弁当をきれいに平らげ、最後にミニトマトをふたつ口へ放り込むと、空になった弁当箱を鞄へ戻した。
「それで、本題な」
引き出しから出されたのは、昨日話していたアルバイトの申請書だった。勤務先や勤務時間、仕事内容を記入する欄の下に、保護者の署名と押印を求める枠がある。尚人は一目見ただけで、自分の膝に視線を落とした。
「これを書いて、家の人に確認してもらえ。勤務先についても、学校から職場へ連絡することになる」
「それ、絶対なんすか」
「無許可で働いていたことがわかった以上、確認しないわけにはいかない。だからといって、事情も聞かずに辞めろとは言わない。働く必要があるなら、認められる場合もある」
尚人はすぐには返事をしなかった。教師なら、無許可で働くのは校則違反なのだから今日限りでバイトを辞めろと言うと思っていた。そう言われれば、やはりなにもわかっていないと突き放すことができた。自分や弟の食費も学校の費用も、猪田が代わりに払ってくれるのかと責めることもできたはずだった。
「先生、意外と甘いんすね」
「甘いんじゃない。必要な手続きをしろと言ってる」
「校則破ったのに、怒鳴らないんすか」
「怒鳴ってほしいのか?」
「べつに」
尚人はパンの最後のひとかけらを口へ入れた。袋の底に落ちていた砂糖まで指先で拾いたくなったが、猪田の前ではできなかった。丸めた袋を握ったまま、机の上の申請書を眺める。
「大河原がバイトをしているのには、なにか理由があるのか?」
何気ない問いかけのように聞こえた。猪田は尚人の顔を覗き込まず、机の上に置いている用紙の端を眺めている。その態度が、かえって癇に障った。こちらが自分から話しはじめるのを待っているように見えた。
「先生の中では、もうオレの家庭に問題があるって決まってるんすか」
「決めてない。決めてないから、事実を聞こうとしているんだ」
「聞いたら、オレがなんでもべらべら話すと思ってるんすか」
「大河原は簡単には心を開いてくれないだろうな。ただ、普段の生活が学校生活にも影響が出てるなら、放っておくこともできないと、先生は思っている」
「パーカー着てただけで?」
「それだけじゃないだろ」
猪田の返事は早かった。尚人は鼻で笑い、椅子の背にもたれた。
「よく見てますね。熱血教師」
「嫌味を言っても、事実は変わらないぞ」
「そういうところなんすよ。なんでも正しいこと言えば済むと思ってるところ。先生が正しいって認めたら、オレが全部間違ってることになるみたいじゃないですか」
職員室のあちこちから、箸の触れ合う音や教師たちの話し声が聞こえている。隣の机では、年配の教師が新聞を読みながらインスタントの味噌汁を啜っていた。誰もこちらを見ていなかったが、尚人には全員が聞き耳を立てているように思えた。
「先生が正しいかどうかと、お前が間違ってるかどうかは、別の話だろ」
「おなじっすよ。学校は、先生の言うことを聞くやつが正しいって場所なんだから」
「先生の言うことを聞けば正しい、逆らえば間違い。そんな単純な話じゃない。だけど、お前も逆らう理由があれば、なにをしても構わないと思ってないか?」
尚人は顔を上げた。猪田はいつの間にかこちらを見ている。ポロシャツの襟が少しだけ曲がっていて、本人はそれに気付いていないようだった。
「オレは、自分が正しいなんて言ってないっすよ」
「言葉にはしてないな。ただ、お前は自分の判断で校則を破って、学校にもバイト先にも嘘をついた。それでも必要だったから仕方がないと思ってる。違うか?」
尚人は答えなかった。アルバイトをしなければ、尚樹に食べさせるものがなくなる。バイトの申請書を出したとして、それが通らなければ、結局働くことは許されない。それが真弓や柴崎の耳に入れば、面倒なことになるかもしれない。おなじ首を絞めるなら、まだ動きやすいほうがましだ。昨日自分が口に出してしまわなければ、いまも猪田は尚人がバイトをしていると知らなかっただろうから、バレなければ良かったのにと思った。
「必要なら、嘘ついてもいいってこともあるでしょ」
「あるかもしれないな。でもお前はその嘘で誰かが困るかもしれないことまで、全部わかったうえで選んでるのか?」
「誰も困ってないっすよ。店ではちゃんと働いてるし、学校だってオレがパーカー着てるくらいで困らないでしょ」
「もしもお前が働き過ぎて倒れたら、店も学校も困る。家でお前を頼ってる人がいるなら、その人も困るだろうな」
尚人の指が、丸めたパンの袋を強く握った。
猪田は尚樹の存在を知らない。いや、弟がいることくらいは知っているかもしれないが、その弟が尚人の帰りを心待ちにしていると確信しているわけでもない。だのにその言葉は、尚人の隠したい核心を突いてきたように感じられた。
「先生には関係ないっす」
なにも知らないくせに。他にも隠れてアルバイトをしている生徒はいる。そいつらは自分の遊ぶ金欲しさに働いているが、尚人は違う。切実なのは自分のほうなのに、事情を鑑みないでなぜ自分だけがあぶり出されて責められないといけないのかと怒鳴りたい気分になった。
「そう言われても、俺は大河原の担任だからなあ……」
「またそれかよ」
「お前が嫌がっても、それは変わらない」
猪田は申請書を尚人の前へ押し出した。
保護者の署名欄に真弓の名前を書き、棚から印鑑を持ち出せば、形だけは整えられる。猪田を黙らせられる。誰にも余計なことを知られずに済む。
「これ、あしたまでですか」
「急がなくていい。家で話せるときに話して、来週までに持ってこい」
「これを持ってきたら、もうなにも言わないんすね」
「内容を見てからだ。字を書いて出せば終わりじゃないぞ」
「めんどくさ」
尚人は用紙を取り、四つに折ってポケットへ入れた。そのまま立ち上がって、丸めたパンの袋をゴミ箱へ捨てる。申請書を真弓に見せるつもりはなかった。署名を真似て、印鑑を押せばいい。そう思いながら職員室を出ようとした直前、猪田に呼び止められた。
「大河原。先生が気づかなければ、嘘は嘘じゃなくなるわけじゃないからな」
また痛いところを突かれた気がして、尚人は振り返らなかった。
自分には守らなければならないものがある。そう言ってしまえば大袈裟だと嗤われるかもしれないが、尚人にとって尚樹の存在は、まさにそれだった。
だから尚人は、物事の善し悪しを、自分たちが一日一日を過ごしていけるかどうかで決めていた。決まりを守ったせいで尚樹が腹を空かせるなら、その決まりに価値はない。ほんとうのことを話したせいで家の中が荒れるなら、黙っているほうが正しい。学校や店へついた嘘も、誰かを騙して得をしたいからではなく、余計な手を入れられずに暮らしを保つためのものだった。
猪田は、その暮らしへ平然と手を伸ばしてくる。尚人がなにを守ろうとしているのかも知らず、嘘を正し、決まりに従わせ、ほんとうのことを話させようとする。自分の正しさが誰かの生活を壊すかもしれないなど、考えたこともないような顔をしていた。尚人にとって、そういう大人ほど信用できないものはなかった。
教室に帰って席につくと、すぐにひとりの男子生徒が近寄ってきた。
「イノセンに絞られて来たのか?」
声をかけてきたのは、友人の宇津木啓介だった。猪田は生徒たちから『イノセン』と呼ばれている。教師を陰で揶揄するためのあだ名ではなく、本人の前でも通用する、公認の呼び名だった。
初めてそう呼ばれたときも、猪田は怒るどころか、呼びやすいならそれでいいと笑ったらしい。その話を聞いたとき、尚人は心底辟易した。生徒に親しまれる教師であることまで、猪田が自分の長所として受け入れているように見えたからだ。
「べつに。アルバイトの申請書もらっただけ」
「ついにバレたのかよ」
宇津木は尚人の前の席を勝手に借り、椅子を後ろ向きにして座った。
「だから前に言っただろ。毎回いかにも急いでいます、みたいに走ってたら、そのうち誰かに見つかるって」
「見つかったんじゃなくて、自分で言った」
「なんでだよ」
「口が滑ったんだよ。あいつがしつこいから」
宇津木は呆れたように笑った。
「親に書いてもらうの?」
「そうするしかないだろ」
尚人は机の中から次の授業で使う教科書を取り出した。自分でも驚くほど自然に答えられた。真弓へ見せるつもりはなく、署名も自分で書くと決めている。宇津木に話したところで止められるだけなので、言う必要はなかった。
「ふうん。ならいいけど」
「なんだよ、その言い方」
「いや、お前んち、そういうの面倒そうだから」
宇津木とは中学からの付き合いだ。家へ呼んだことはほとんどないが、真弓が学校行事へ来なかったことも、尚人が高校へ入ってから急に部活動をやめたことも知っている。詳しい事情を話したことはない。それでも、長く一緒にいれば、なにもない家庭ではないことくらいは伝わってしまうらしい。
「勝手に決めつけんなよ。普通だから」
「普通の家のやつは、そんな顔で普通って言わないだろ」
「オレ、どんな顔してる?」
「怒る直前の顔」
宇津木はそう言って笑い、尚人が言い返す前に自分の机へ戻ろうとした。途中で足を止め、思い出したように振り返る。
「申請書、出せなさそうなら言えよ。俺が代わりに書いてやるから」
宇津木は尚人の返事を受け取らず、自分の席へ戻った。助けてやるという顔をされなかったことだけが救いだった。心配を口にしても、理由を聞き出そうとはしない。猪田よりは、ずっとましだった。
学校指定のセーターは、柴崎の煙草の不始末が原因で焦げてしまい、処分した。春から夏に変わる境の、衣替えをする直前のことだった。
学費は奨学金で賄われているが、それ以外の費用は家計から捻出しないといけない。セーターは高額だった。そんなものに金を落とす余裕があるなら、尚樹を食わせるための費用に回すほうが優先だと考えた。
翌日登校すると、放課後ではなく、昼休みに職員室に来いと言われた。また放課後と言えば、尚人がなにかと言い訳をつけて逃げ出すと考えたのだろう。
午前の授業を終え、昼休みになると、尚人は職員室とは反対側の階段を上がった。屋上へ続く扉は施錠されているが、その前の踊り場には滅多に人が来ない。猪田に見つからないように時間を潰し、そのまま五時間目の教室へ戻るつもりだった。
床に腰を下ろし、購買で買ったパンの袋を開けた。カロリーだけは多い、売っている中で最も腹を満たせそうな甘いパンだ。
「やっぱり、ここにいたか」
階段の下から猪田の声がした。
尚人は食べかけのパンを袋へ戻した。足音が近づいてきても立ち上がらなかった。
「逃げるなと言ったよな」
「逃げてないっすよ。学校の中にいるんだから」
「そういう屁理屈はいい。職員室へ来い」
「なんすか、オレには昼飯を食う暇もないんすか」
「飯を食うなとは言ってない。持ってこい。職員室で食えばいいから」
「先生に見張られながら食う飯なんて、不味そうなんすけど」
「それは食ってから判断しろ」
猪田はそれだけ言って階段を下りはじめた。尚人がついてくるかどうかを確かめるために振り返ることもない。放っておけば逃げると思っているくせに、自分が先を歩けば結局ついてくるとも信じているのだろうか。その根拠のない自信を裏切ってやりたかったが、昨日の今日で再び逃げれば、また母親に連絡をされるかもしれない。
尚人は面倒くさそうに立ち上がった。猪田の姿が踊り場から消えるまで待ち、それからゆっくり階段を下りた。
昼休みの職員室は、教師たちが持参した弁当や、購買で買ったパンを机の上に広げ、普段よりも雑然としていた。尚人が入室すると何人かが顔を上げたが、猪田は空いている椅子を自分の机の横へ運び、そこへ座るよう顎で示した。
「食えよ。時間なくなるぞ」
「ここで?」
「さっき自分で、昼飯を食う暇がないって言っただろ」
尚人は椅子へ腰を下ろし、パンの袋を開いた。表面に砂糖の粒がついた菓子パンは、朝からなにも食べていない腹にはありがたかったが、教師の机に囲まれて食べていると、反省文を書かされているような気分になる。
「大河原、お前、それだけで足りるのか?」
あろうことか、猪田も自分の鞄から弁当を取り出した。一段の弁当箱と、ミニトマトが入った小さなタッパーを机の上に置いて合掌している。蓋を開けると、揚げ物中心の、茶色い弁当が広がった。
「ほら、お前も食うか。先生が育てたミニトマト。美味いぞ!」
ちびちびと、パンが無くなるのを惜しむかのようなペースで食べている尚人を気遣ってか、猪田が丸いタッパーを差し出してきた。
「いや、いいっす。オレ、先生と会食しに来たわけじゃないんで」
「会食ってほど大層なもんじゃないだろ。たかがミニトマトで」
猪田は笑いながらタッパーを机の端へ置いた。無理に勧める気はないらしい。尚人が断ったことを気にする様子もなく、弁当箱から唐揚げを取り、二口ほどで食べてしまった。その食べ方まで体育会系だと思うと腹が立った。
隣に座って黙々と食事をされると、こちらのパンがますます貧相に見えてくる。
尚人は視線を落とし、残っていた部分を小さくちぎった。猪田に腹の中まで見透かされるのが嫌で、空腹ではないような顔を作りながら、噛む回数だけを増やした。
猪田は弁当を食べ終えるまで、アルバイトの話をしなかった。尚人を待たせて焦らすつもりなのかとも思ったが、単に食事中に説教をしないと決めているだけなのかもしれない。茶色い弁当をきれいに平らげ、最後にミニトマトをふたつ口へ放り込むと、空になった弁当箱を鞄へ戻した。
「それで、本題な」
引き出しから出されたのは、昨日話していたアルバイトの申請書だった。勤務先や勤務時間、仕事内容を記入する欄の下に、保護者の署名と押印を求める枠がある。尚人は一目見ただけで、自分の膝に視線を落とした。
「これを書いて、家の人に確認してもらえ。勤務先についても、学校から職場へ連絡することになる」
「それ、絶対なんすか」
「無許可で働いていたことがわかった以上、確認しないわけにはいかない。だからといって、事情も聞かずに辞めろとは言わない。働く必要があるなら、認められる場合もある」
尚人はすぐには返事をしなかった。教師なら、無許可で働くのは校則違反なのだから今日限りでバイトを辞めろと言うと思っていた。そう言われれば、やはりなにもわかっていないと突き放すことができた。自分や弟の食費も学校の費用も、猪田が代わりに払ってくれるのかと責めることもできたはずだった。
「先生、意外と甘いんすね」
「甘いんじゃない。必要な手続きをしろと言ってる」
「校則破ったのに、怒鳴らないんすか」
「怒鳴ってほしいのか?」
「べつに」
尚人はパンの最後のひとかけらを口へ入れた。袋の底に落ちていた砂糖まで指先で拾いたくなったが、猪田の前ではできなかった。丸めた袋を握ったまま、机の上の申請書を眺める。
「大河原がバイトをしているのには、なにか理由があるのか?」
何気ない問いかけのように聞こえた。猪田は尚人の顔を覗き込まず、机の上に置いている用紙の端を眺めている。その態度が、かえって癇に障った。こちらが自分から話しはじめるのを待っているように見えた。
「先生の中では、もうオレの家庭に問題があるって決まってるんすか」
「決めてない。決めてないから、事実を聞こうとしているんだ」
「聞いたら、オレがなんでもべらべら話すと思ってるんすか」
「大河原は簡単には心を開いてくれないだろうな。ただ、普段の生活が学校生活にも影響が出てるなら、放っておくこともできないと、先生は思っている」
「パーカー着てただけで?」
「それだけじゃないだろ」
猪田の返事は早かった。尚人は鼻で笑い、椅子の背にもたれた。
「よく見てますね。熱血教師」
「嫌味を言っても、事実は変わらないぞ」
「そういうところなんすよ。なんでも正しいこと言えば済むと思ってるところ。先生が正しいって認めたら、オレが全部間違ってることになるみたいじゃないですか」
職員室のあちこちから、箸の触れ合う音や教師たちの話し声が聞こえている。隣の机では、年配の教師が新聞を読みながらインスタントの味噌汁を啜っていた。誰もこちらを見ていなかったが、尚人には全員が聞き耳を立てているように思えた。
「先生が正しいかどうかと、お前が間違ってるかどうかは、別の話だろ」
「おなじっすよ。学校は、先生の言うことを聞くやつが正しいって場所なんだから」
「先生の言うことを聞けば正しい、逆らえば間違い。そんな単純な話じゃない。だけど、お前も逆らう理由があれば、なにをしても構わないと思ってないか?」
尚人は顔を上げた。猪田はいつの間にかこちらを見ている。ポロシャツの襟が少しだけ曲がっていて、本人はそれに気付いていないようだった。
「オレは、自分が正しいなんて言ってないっすよ」
「言葉にはしてないな。ただ、お前は自分の判断で校則を破って、学校にもバイト先にも嘘をついた。それでも必要だったから仕方がないと思ってる。違うか?」
尚人は答えなかった。アルバイトをしなければ、尚樹に食べさせるものがなくなる。バイトの申請書を出したとして、それが通らなければ、結局働くことは許されない。それが真弓や柴崎の耳に入れば、面倒なことになるかもしれない。おなじ首を絞めるなら、まだ動きやすいほうがましだ。昨日自分が口に出してしまわなければ、いまも猪田は尚人がバイトをしていると知らなかっただろうから、バレなければ良かったのにと思った。
「必要なら、嘘ついてもいいってこともあるでしょ」
「あるかもしれないな。でもお前はその嘘で誰かが困るかもしれないことまで、全部わかったうえで選んでるのか?」
「誰も困ってないっすよ。店ではちゃんと働いてるし、学校だってオレがパーカー着てるくらいで困らないでしょ」
「もしもお前が働き過ぎて倒れたら、店も学校も困る。家でお前を頼ってる人がいるなら、その人も困るだろうな」
尚人の指が、丸めたパンの袋を強く握った。
猪田は尚樹の存在を知らない。いや、弟がいることくらいは知っているかもしれないが、その弟が尚人の帰りを心待ちにしていると確信しているわけでもない。だのにその言葉は、尚人の隠したい核心を突いてきたように感じられた。
「先生には関係ないっす」
なにも知らないくせに。他にも隠れてアルバイトをしている生徒はいる。そいつらは自分の遊ぶ金欲しさに働いているが、尚人は違う。切実なのは自分のほうなのに、事情を鑑みないでなぜ自分だけがあぶり出されて責められないといけないのかと怒鳴りたい気分になった。
「そう言われても、俺は大河原の担任だからなあ……」
「またそれかよ」
「お前が嫌がっても、それは変わらない」
猪田は申請書を尚人の前へ押し出した。
保護者の署名欄に真弓の名前を書き、棚から印鑑を持ち出せば、形だけは整えられる。猪田を黙らせられる。誰にも余計なことを知られずに済む。
「これ、あしたまでですか」
「急がなくていい。家で話せるときに話して、来週までに持ってこい」
「これを持ってきたら、もうなにも言わないんすね」
「内容を見てからだ。字を書いて出せば終わりじゃないぞ」
「めんどくさ」
尚人は用紙を取り、四つに折ってポケットへ入れた。そのまま立ち上がって、丸めたパンの袋をゴミ箱へ捨てる。申請書を真弓に見せるつもりはなかった。署名を真似て、印鑑を押せばいい。そう思いながら職員室を出ようとした直前、猪田に呼び止められた。
「大河原。先生が気づかなければ、嘘は嘘じゃなくなるわけじゃないからな」
また痛いところを突かれた気がして、尚人は振り返らなかった。
自分には守らなければならないものがある。そう言ってしまえば大袈裟だと嗤われるかもしれないが、尚人にとって尚樹の存在は、まさにそれだった。
だから尚人は、物事の善し悪しを、自分たちが一日一日を過ごしていけるかどうかで決めていた。決まりを守ったせいで尚樹が腹を空かせるなら、その決まりに価値はない。ほんとうのことを話したせいで家の中が荒れるなら、黙っているほうが正しい。学校や店へついた嘘も、誰かを騙して得をしたいからではなく、余計な手を入れられずに暮らしを保つためのものだった。
猪田は、その暮らしへ平然と手を伸ばしてくる。尚人がなにを守ろうとしているのかも知らず、嘘を正し、決まりに従わせ、ほんとうのことを話させようとする。自分の正しさが誰かの生活を壊すかもしれないなど、考えたこともないような顔をしていた。尚人にとって、そういう大人ほど信用できないものはなかった。
教室に帰って席につくと、すぐにひとりの男子生徒が近寄ってきた。
「イノセンに絞られて来たのか?」
声をかけてきたのは、友人の宇津木啓介だった。猪田は生徒たちから『イノセン』と呼ばれている。教師を陰で揶揄するためのあだ名ではなく、本人の前でも通用する、公認の呼び名だった。
初めてそう呼ばれたときも、猪田は怒るどころか、呼びやすいならそれでいいと笑ったらしい。その話を聞いたとき、尚人は心底辟易した。生徒に親しまれる教師であることまで、猪田が自分の長所として受け入れているように見えたからだ。
「べつに。アルバイトの申請書もらっただけ」
「ついにバレたのかよ」
宇津木は尚人の前の席を勝手に借り、椅子を後ろ向きにして座った。
「だから前に言っただろ。毎回いかにも急いでいます、みたいに走ってたら、そのうち誰かに見つかるって」
「見つかったんじゃなくて、自分で言った」
「なんでだよ」
「口が滑ったんだよ。あいつがしつこいから」
宇津木は呆れたように笑った。
「親に書いてもらうの?」
「そうするしかないだろ」
尚人は机の中から次の授業で使う教科書を取り出した。自分でも驚くほど自然に答えられた。真弓へ見せるつもりはなく、署名も自分で書くと決めている。宇津木に話したところで止められるだけなので、言う必要はなかった。
「ふうん。ならいいけど」
「なんだよ、その言い方」
「いや、お前んち、そういうの面倒そうだから」
宇津木とは中学からの付き合いだ。家へ呼んだことはほとんどないが、真弓が学校行事へ来なかったことも、尚人が高校へ入ってから急に部活動をやめたことも知っている。詳しい事情を話したことはない。それでも、長く一緒にいれば、なにもない家庭ではないことくらいは伝わってしまうらしい。
「勝手に決めつけんなよ。普通だから」
「普通の家のやつは、そんな顔で普通って言わないだろ」
「オレ、どんな顔してる?」
「怒る直前の顔」
宇津木はそう言って笑い、尚人が言い返す前に自分の机へ戻ろうとした。途中で足を止め、思い出したように振り返る。
「申請書、出せなさそうなら言えよ。俺が代わりに書いてやるから」
宇津木は尚人の返事を受け取らず、自分の席へ戻った。助けてやるという顔をされなかったことだけが救いだった。心配を口にしても、理由を聞き出そうとはしない。猪田よりは、ずっとましだった。



