テセウスの教室

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 週に三回、十七時から二十一時までの四時間と、土日は開店前から夕方まで八時間働く。それで月に十万円を少し越える程度の収入になった。
 尚人が働いている洋食レストランは、全国に店舗を持つような店ではなく、近隣の住民が客の大半を占めている。平日の夕方は比較的静かだが、十九時を過ぎると仕事帰りの客が増え、週末の昼には店の外まで順番待ちの客が並ぶような店だ。尚人は厨房に入り、食材の仕込みや盛りつけ、洗い場の仕事を任されている。
 猪田に昇降口で捕まったせいで、今日は途中からほとんど走り通しだった。従業員用の扉を開けた時点で、時計の針は出勤時刻の二分前を指していた。
 「お疲れさまです」
 厨房へ顔を出すと、コンロの前に立っていた店長が、鍋をかき混ぜながら壁の時計を見た。
 「ぎりぎりだな、大河原」
 「すんません。学校で捕まってました」
 「また進路指導か?」
 「そんなところっす」
 店長はそれ以上聞かなかった。尚人も、自分から説明するつもりはなかった。学校の許可を得て働いているのかと採用時に聞かれたときも、取っていると答えた。それ以来、許可証を見せるよう求められたことはない。店長にとって必要なのは、尚人が決められた時間に来て、厨房の仕事を滞りなくこなすことだった。
 尚人は鞄を事務所へ置き、店名の入った黒いエプロンを身につけた。手を洗って厨房へ戻ると、ステンレス製の作業台には、皮をむき終えた玉ねぎと人参が並べられている。夕方から入る日は、ランチ営業で減った食材を補い、夜の混雑に備えるのが最初の仕事だった。
 「玉ねぎ、全部薄切り。終わったらサラダの仕込みな」
 「うっす」
 学校では教師の声を無視する尚人も、バイト先では返事を忘れなかった。包丁を握り、半分に切られた玉ねぎを一定の幅で刻んでいく。刃がまな板を叩く音を途切れさせず、切り終えたものを隣の容器へ移す。初めの頃は大きさが揃わず、何度もやり直しを命じられたが、いまでは店長がそばにいなくても、必要な量を決められた時間内に用意できるようになっていた。
 厨房では、自分がなにをすればいいのかがはっきりしていた。玉ねぎは薄く切る。皿の縁についたソースは拭き取る。使った器具は元の場所へ戻し、注文票が入れば、書かれた順番を確認して料理を出す。間違えれば叱られるが、なぜ叱られているのかわからないことはない。正しく仕事をしたからといって褒められることもほとんどなかったが、その代わり、事情も知らない人間から心配そうな顔を向けられることもなかった。

 十八時を過ぎる頃には客席が埋まり始め、厨房へ入ってくる注文票の間隔が短くなった。ハンバーグ、オムライス、海老フライ、ナポリタン。ホールから読み上げられる注文に合わせ、店長がコンロを使い、もう一人の調理担当が揚げ物を受け持つ。尚人は炊き上がった米を皿へ盛り、サラダを添え、完成した料理を受け取って、皿の向きを揃えた。
 「四番、ハンバーグ二つ。片方ライス大盛り」
 「はい!」
 「大河原、七番のサラダまだか」
 「いま出します!」
 「皿、足りなくなるぞ。手が空いたら洗い場入れ」
 「了解っす!」
 次々に飛んでくる指示へ答えながら動いていると、学校での出来事を考える暇はなかった。皿を一枚出すのが遅れれば、料理が冷める。食材を切らせば、注文を受けられなくなる。ここでは尚人が黙り込んだところで、誰かが代わりに察してくれることはない。必要なことは自分の口で伝え、任された仕事は終わらせなければならなかった。
 学校にいる尚人しか知らない人間が見れば、同一人物だとは思わないかもしれない。職場では無断で休むことも、仕事の途中でテーブルに伏せることもない。年上の従業員には敬語を使い、失敗を指摘されれば言い訳をせずに謝る。自分が働かなければ、ほかの誰かにその負担が回ることを知っていた。
 十九時を過ぎて店内が最も混み合う頃、尚人は洗い場に立っていた。客席から下げられてきた皿の油を落としてから業務用の食器洗浄機へ入れる。湯気のこもった厨房は暑く、学校で脱げと言われたパーカーなど、いまは鞄の底へ押し込まれている。額から落ちた汗を肩口で拭いながら、次々に運ばれてくる皿を片づけていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
 仕事中に私物のスマートフォンを見ることは禁止されていた。尚人は手を止めず、そのまま作業を続けた。一度だけなら、急ぎの連絡ではないかもしれない。だが数分後にもう一度震え、さらに続けて短い振動が伝わってきた。
 「店長、すみません。トイレ行ってきていいっすか」
 「早く戻れよ」
 「はい」
 尚人は濡れた手を拭き、厨房を出た。客席から見えない通路まで進んでスマートフォンを取り出すと、弟から三件のメッセージが届いていた。
 《今日なに食べる?》
 《おなかすいた》
 《まだかえらない?》
 尚人は時計を見た。仕事が終わるまで、まだ一時間半近くある。冷蔵庫に何が残っていたかを思い出そうとしたが、朝は弟の支度を急がせることに気を取られ、中まで確認していなかった。食パンは一枚あったはずだが、それも母親か、あの男が食べていれば残っていない。
 《冷蔵庫見ろ。なんかあったら先に食ってて》
 そう打ってから、尚人は指を止めた。なにもなかったと返されても、すぐに帰ることはできない。
 《バイト終わったらなんか買って帰る》
 続けて送信すると、すぐに既読がついた。返事は来なかった。
 尚人はスマートフォンをポケットへ戻し、厨房へ戻った。洗い場には、離れていた数分のあいだに皿が積み上がっている。店長から遅いと怒鳴られる前に手袋をつけ、残っていた作業を再開した。
 温かい料理の匂いが厨房中に満ちていた。焼けた肉の匂いも、揚げ物の油の音も、すぐそばにあるのに、どれも尚人が金を払わなければ、家で待つ弟の夕食にはならないものばかりだった。

 仕事を終えた尚人が家に着いたのは、二十二時前だった。帰り道にスーパーへ寄り、値引きされた焼きそば麺と野菜炒め用のカット野菜と細切れ肉を買った。財布には給料日まで残しておかなければならない金が入っている。レジで受け取った釣り銭を確かめ、レシートをポケットへ押し込んでから、足早に家へ戻った。
 玄関を開けた途端、煙草と酒の混じった匂いが鼻についた。居間ではテレビがつけっぱなしになっており、母親の交際相手の柴崎遼平がソファに寝転がっている。ローテーブルの上には空になった酒の缶が三本と、食べ終えたコンビニ弁当の容器が置かれていた。柴崎は尚人が帰ってきたことに気づいているはずだったが、画面から目を離そうとはしなかった。
 「母さんは?」
 「知らねえよ。連絡もねえ」
 答え方からして、それ以上聞いても無駄だった。尚人は買ってきた袋を提げたまま台所へ入り、炊飯器の蓋を開けた。米は残っていない。冷蔵庫にも、飲みかけのペットボトルといくつかの調味料があるだけだった。流し台には朝から置かれていた食器が積まれ、その中に弟の尚樹がなにかを食べた形跡はなかった。
 奥の部屋を覗くと、小学生の弟は敷いたままの布団に座り、膝の上で漫画を開いていた。文字を追っているようには見えず、尚人が襖を開けると、すぐに顔を上げた。
 「遅かったね、兄ちゃん」
 「仕事なんだから仕方ねえだろ。なんか食ったか?」
 尚樹は首を横に振った。居間に弁当の空き容器があったことには触れなかったが、誰が食べたものなのかは聞かなくてもわかる。
 「すぐ作る。手、洗ってこい」
 「兄ちゃんも食べる?」
 「食うよ。二人分買ってきたからな」
 そう答えると、尚樹はようやく漫画を閉じた。空腹を訴えて柴崎を怒らせるより、尚人が帰ってくるまで待っていたほうがいいと考えたのだろう。小学生が覚えなくてもいい遠慮を身につけはじめていることに、尚人は気づいてしまった。
 台所へ戻り、フライパンに油を引いた。野菜を炒め、麺を入れて少量の水を加える。店の厨房で使っている道具に比べれば、家のフライパンは焦げつきやすく、火力も弱い。それでも二人分の夕食を作る程度なら困らなかった。
 ソースの匂いが部屋に広がると、居間にいた柴崎が台所を覗き込んできた。
 「俺の分は?」
 「弁当食いましたよね」
 「それだけじゃ足りねえんだよ」
 「こっちは二人分しか買ってないんで」
 なんと図々しいやつだと心の中で貶しながら、フライパンの中身を混ぜ続けた。背後で柴崎が舌打ちをする。なにか言い返してくるかと思ったが、テレビから笑い声が聞こえると、それ以上絡むことなく居間へ戻っていった。足音が遠ざかってから、尚人は止めていた息をゆっくり吐き出した。
 料理を二枚の皿へ分ける頃には、尚樹も手を洗って戻ってきた。尚人は量の多いほうを向かいへ置き、自分の皿にはフライパンに残った麺を集めた。空腹だったらしく、尚樹は何度も息を吹きかけながら箸を動かした。
 「ゆっくり食え。喉に詰まらせるぞ」
 「兄ちゃん、あしたも学校ちゃんと行く?」
 「当たり前だろ。お前も朝から学校なんだから、食ったら歯を磨いて早く寝ろよ」
 「ごはん食べてすぐに寝たら、牛になっちゃうじゃん」
 「そんなもん、なるわけねえだろ」
 牛みたいに大きな体になるには、もっと食わないといけねえんだよと、頭を撫でてやった。
 尚樹は頷き、また皿へ顔を近づけた。ふたりが焼きそばを食べているあいだに母親が帰ってくる気配はなく、居間からは柴崎の笑い声だけが聞こえている。それはいつもとおなじ夜だった。
 「兄ちゃん、今日、先生に怒られた?」
 不意に尋ねられ、尚人は箸を止めた。
 「なんでそう思うんだよ」
 「朝、パーカー着てたから。学校の服じゃないだろ」
 「……見てたのかよ」
 「兄ちゃん、最近ずっとあれ着てるじゃん」
 尚人は答えず、冷めかけた焼きそばを口へ入れた。指定のセーターを買い直す金がないことも、無断でアルバイトをしていることが猪田に知られたことも、尚樹へ話すつもりはなかった。聞かせたところで不安にさせるだけだ。
 「余計なことを気にしなくていい。お前は自分のことだけ考えろ」
 「ふうん」
 納得していない返事だったが、尚樹はそれ以上聞かなかった。尚人も話を続けず、明日になれば猪田へなにを言えばいいのかを考えた。アルバイト先まで知られれば、店にも迷惑がかかる。家へ連絡されれば、母親だけでなく、居間にいる男の耳にも入るだろう。
 正直に事情を話すつもりはなかった。猪田がどれだけしつこく問い詰めてきても、家の中へ踏み込ませるわけにはいかない。尚人は向かいで食事をしている尚樹を見ながら、その考えだけは間違っていないと思った。

 食事を終えた尚樹を先に寝かせ、尚人が流しに溜まっていた皿まで洗い終えた頃、玄関の外で鍵が何度も引っかかる音がした。酔っているのか、暗くて鍵穴が見えていないのか、扉が開くまでにずいぶん時間がかかった。ようやく帰ってきた母親の真弓は、片方の踵を踏んだまま靴を脱ぎ、甘い香水の匂いを廊下へ残しながら居間へ入った。
 「遅くなってごめんね、遼平。連絡したんだけど、見てなかった?」
 真弓が真っ先に声をかけたのは、ソファに寝そべってテレビを見ている柴崎だった。柴崎は返事の代わりに、空になった酒の缶をテーブルへ置いた。
 尚人は布巾で皿の水気を拭き、食器棚へ戻した。真弓は柴崎の隣に腰を下ろすと、機嫌を取るように肩へ手を置いた。不満を言っている彼に対して、仕事で遅くなったのだから仕方がない、明日は好きなものを作るからと宥めている。
 「尚人、給料日って来週だったよね」
 背中へ投げられた言葉に、尚人はシンクの中を見たまま答えた。
 「そうだけど」
 「今月、十万入れてくれない? 家賃も電気代も足りないし、遼平も仕事でお金が要るんだって」
 頼み事をするときだけ、真弓は息子へ向ける声を柔らかくする。断れば、その柔らかさを壊したのは尚人だという顔をすることもわかっていた。
 「家に入れるのは五万って決めただろ。尚樹の給食費もあるし、来月はあいつの遠足の金も要る。十万なんか出せるわけねえだろ。だったらせめて、食費くらい寄こせよ」
 真弓は手にしていた煙草の箱をテーブルへ置いた。
 「遠足なんて、行かなくたって死なないでしょ。うちには余裕がないんだから、尚樹にも我慢させなきゃ」
 その言い方が、尚人には許せなかった。自分の酒や煙草を我慢する話は一度も出ない。柴崎がなにに使うのかもわからない金は必要で、尚樹が学校で皆と過ごす一日は、なくても死なないものとして片づけられる。
 「だったら、自分で尚樹に言えよ。遠足の金は柴崎さんに使うから、お前は行くなって」
 真弓はすぐに返事をしなかった。息子に痛いところを突かれたからではない。柴崎の前でそんな言い方をされたことに腹を立てているのだと、黙り方でわかった。
 「今日、尚樹は俺が帰るまでなんも食ってなかった。冷蔵庫にもなんもなかった。柴崎さんは自分の弁当だけ食ってたけど」
 尚人が続けると、ソファの軋む音がした。柴崎が身を起こし、酒で濁った目をこちらへ向けている。
 「俺になにをしろって言うんだよ。腹が減ったなら、あいつが自分で言えばよかっただろ」
 「あいつが、酒飲んでるあんたに飯を買ってくれって言えると思ってるんすか」
 「尚人、遼平にそういう言い方するのやめなさい」
 真弓は柴崎ではなく、尚人を窘めた。息子たちの夕食を用意しなかったことには触れず、交際相手への口の利き方だけを問題にする。
 「遼平だって疲れてるの。あんたたちのことも考えてくれてるんだから、いちいち突っかからないでよ」
 「なにを考えてくれてんだよ。オレの給料を使うこと?」
 柴崎が立ち上がった。足元に転がっていた空き缶を踏み、薄い金属が潰れる音を立てながら台所へ入ってくる。尚人は逃げなかった。背を向ければ、髪や胸倉を掴まれる。正面から見ていれば、次になにをされるかだけはわかる。
 「おまえみたいなガキがちょっと働いたくらいで、偉くなったつもりか。誰のおかげで、この家に住めてると思ってんだ?」
 「ここの名義は母さんだろ。あんたじゃない」
 言い終えるより早く、シャツの胸倉を掴まれた。引き寄せられた身体が食器棚へぶつかり、中で皿が重い音を立てた。首元の布が喉へ食い込み、息を吸うたびに縫い目が肌を擦った。
 尚人は柴崎の手首へ指をかけたものの、振りほどかなかった。力で押し返せば、柴崎はさらに興奮する。食器棚を倒すかもしれないし、眠っている尚樹のところまで怒鳴り込むかもしれない。尚人は歯を食いしばり、これ以上事を荒立てないように感情を抑え込んだ。
 「遼平、やめてよ。近所に聞こえるでしょ」
 真弓はソファから動かなかった。尚人が苦しんでいることではなく、隣近所に知られることを気にしていた。
 「尚人も謝りなさい。あんたが余計なことを言うから、いつもこうなるんでしょ」
 いつもこうなる。その言葉で、柴崎に掴まれていることまで、尚人が選んだ結果にされた。黙って金を渡し、尚樹が空腹だったことにも触れず、柴崎の機嫌を損ねないようにしていれば、なにも起きなかったのだと真弓は言っている。
 「家族に迷惑かけて、なんとも思わねえのか」
 「家族だってんなら、尚樹に飯くらい食わせろよ」
 口にした途端、胸元を掴む手へさらに力が加わった。籍を入れていない交際相手の連れ子を扶養する義務があるのかどうか、尚人には分からなかったが、それでも人道的に考えれば、自分はともかく尚樹の面倒は見てやるのが筋ではないかと、尚人は思った。
 そのとき、居間の奥で襖が擦れた。見ると、尚樹が毛布を肩へ掛け、裸足のまま立っていた。眠気の残る目で柴崎の腕を見つめ、やがて尚人の顔へ視線を移した。
 「兄ちゃん」
 尚人は柴崎へ掴まれたまま、尚樹を睨むように見た。優しく声をかければ、こちらへ近づいてくるかもしれない。怯えさせてでも、部屋へ戻さなければならないと思った。
 「寝てろ。こっちに来るな」
 尚樹は動かなかった。毛布の端を握った指に力が入り、唇がかすかに開く。
 「でも、兄ちゃん——」
 「なんでもねえから、戻れって言ってんだよ!」
 尚人が声を上げると、尚樹はびくりと肩を揺らした。やがて一歩ずつ後ろへ下がり、襖の向こうへ姿を消した。柴崎は興が削がれたように尚人を放し、乱れたシャツを見て鼻で笑った。
 「給料が入ったら十万出せ。この家に住み続けたいならな」
 柴崎は潰れた缶を蹴り、再びソファへ戻った。真弓も尚人の様子を見ようとはせず、柴崎の隣へ座った。何事もなかったようにテレビの音が居間を満たし、尚人だけが食器棚の前へ取り残された。
 「そういえばあんた、学校で面倒なことしていないでしょうね」
 シャツの襟を直していると、真弓が思い出したように尋ねた。
 「は? なんでだよ」
 「最近、遅刻も増えてきているし、提出物も出さなくなったってあんたの担任から電話が来たんだけど。先生に家のこと、余計に喋ったりしてないでしょうね」
 「言ってねえよ」
 「絶対に言わないでよ。学校なんて、ちょっとしたことで大騒ぎするんだから。児童相談所とかに連絡されて、尚樹を連れていかれたらどうするの。兄弟で一緒にいられるとは限らないのよ」
 真弓は灰皿の中の吸い殻をまとめながら、世間話でもするように言った。尚樹が本当に連れていかれるのか、兄弟が引き離されるのか、根拠があるようには見えなかった。それでも尚人には、違うと言い切るだけの知識がなかった。
 学校へ話せば、知らない大人が家へ来る。柴崎のことも、真弓が家へ帰らないことも、尚人が働いていることも調べられる。その先で尚樹がどこへ連れていかれるのか、尚人には選べない。
 「なんも言わねえよ」
 尚人は足元の空き缶を拾い、ゴミ箱へ投げ入れた。
 「誰にも言わないから」
 真弓はそれで満足したらしく、柴崎の肩へ寄りかかった。二人に背を向け、尚人は奥の部屋へ向かった。
 襖を開けると、尚樹は布団の中で目を開けていた。眠ったふりをするつもりだったのか、毛布を鼻の下まで引き上げている。尚人が隣へ腰を下ろすと、視線が首元へ向けられた。
 「兄ちゃん、首、赤くなってるよ。柴崎さんに掴まれてたよね」
 尚人は返事をせず、乱れていた毛布を尚樹の肩のあたりにかけ直した。尚樹は目を逸らさなかった。
 「……先生に言えば、助けてくれるんじゃないの」
 尚人の脳内に、朝から自分を追い回していた猪田の顔が浮かんだ。家へ連絡すると言ったときの、なにも知らないくせに正しいことだけを言う顔だった。あの男に相談すれば、助けているつもりで家の中を引っかき回してくるのだろう。自分が大河原家に首を突っ込んだ結果、兄弟が離ればなれになっても、猪田は決まりに従っただけだと言うに違いない。
 「学校には言うな。先生に聞かれても、家ではなんもないって答えろ」
 「でも、なにもなくないじゃん」
 「あること全部、他人に話す必要なんかないんだよ。話したら、尚樹までここにいられなくなるかもしれない……。オレと、離ればなれになっちまうかもしれねえんだ」
 尚樹は毛布の中へ顎を沈め、しばらくしてから、確かめるように尚人を見た。
 「……じゃあ、嘘ついてもいいの?」
 尚人は答えるまでに時間がかかった。
 嘘をつくなと教えることはできた。困ったら先生へ相談しろと、学校で聞かされるのとおなじ言葉を渡すこともできた。ただ、馬鹿正直にそれをしたところで、尚樹を守る結果に繋がるとは思えなかった。
 「黙ってなきゃ守れないこともある」
 尚樹は、尚人が苦し紛れに出したその言葉を聞き、やがて小さく頷いた。
 部屋の明かりを消した。暗くなってからも、尚樹の目だけがこちらを向いているように感じたが、互いになにも言わなかった。
 自分が間違ったことを教えたとは思わないように努めた。少なくとも、その夜の尚人には、ほかに正しいやり方が見つからなかったからだ。