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わざとらしい笑顔を貼り付けた担任教師の顔を見るたびに、大河原尚人は唾を吐きかけてやりたくなる。実際にそんなことをするほど馬鹿ではないので、ただ机の上に肘をつき、周りと同じような顔をして話を聞いている。
学生時代はバドミントンの選手だったのだと、隙あらば挟まれる過去の話も嫌いだ。自分の言うことはすべて間違っていないと信じているような大きな声も嫌いだ。ものごとはすべて筋肉で解決できるとでも言いたげな見た目も嫌いだ。
そもそも、そこまで誇らしげに語るほどの選手だったなら、なぜいまはバドミントン部の顧問ではないのだろう。本人が自分で思っているほど価値のある過去なら、学校もありがたくコートのそばに置いておくだろう。そうされていないということは、結局あの男は、その程度の人間なのだ。
そう考えると、教卓の前で日に焼けた腕を組んでいる猪田悠真が、ますます滑稽に見えた。自分が偉い人間だと勘違いしている脳筋野郎が少し声を張っただけで、教室の空気がそちらへ傾く。そのことが、尚人にはなにより気に食わなかった。
「大河原、そのパーカー、校則違反だろ」
朝のホームルームで、猪田は教室の一番後ろで机に伏せっている尚人に向かって、声を張った。尚人は反応を示さなかった。
猪田の声はよく聞こえてきた。だからこそ、無視をした。ウザい担任の注意に反応するより、襲いかかってくる睡魔に身を委ねたほうが、楽だったからだ。
尚人の通う県立蒼岳高等学校は、旧制中学校を前身とする公立の男子校だ。創立から百年を越え、校舎や校章だけでなく、時代に置き去りにされたような校則まで、伝統の名のもとに受け継がれている。
尚人がこの学校に入学したのは、単に家から近かったことと、公立高校で、私立に比べて費用がぐんと抑えられるから、という理由のみだった。
中学の頃の尚人は、真面目な生徒だった。定期試験ではいつも上位に入り、提出物を忘れることもなかった。教師から言われたことに素直に従うというより、注意を受けるような隙を最初から作らなかった。校則に疑問を抱くことはあっても、それを破ってまで自分の考えを示そうとは思わなかった。決まりに従うほうが余計な手間もかからず、周囲から面倒な人間だと思われずに済むと知っていたからだ。
入っていたサッカー部では、前へ出て仲間を引っ張るような選手ではなかった。声を張り上げる主将の指示を聞き、空いた場所を見つけて走り、味方が失ったボールを黙って取り返した。目立つ得点を決めることは少なくても、試合に出れば監督から一定の評価を受けた。尚人自身も、その扱われ方を気に入っていた。必要とはされるが、中心に立ってなにかを背負わされることはない。褒められれば礼を言い、注意されれば直す。それだけで、大人たちは尚人を物分かりのいい生徒だと思ったみたいだ。
同級生との関係も悪くなかった。いつも一緒にいる友人が何人かいて、昼休みにはくだらない話で笑い、放課後には共に部活へ向かった。誰かと喧嘩をすることもなく、教師に反抗することもない。卒業するときには、担任から、高校でもその調子で頑張れと言われた。
尚人も、そのつもりだった。高校へ入ってまで、わざわざ問題を起こす理由など、当時の尚人にはひとつもなかったからだ。
「大河原! 聞いているか? 先生がこれだけ大きい声を出してるんだから、聞こえていないわけがないよな!」
猪田が近づいてくる足音がする。生徒に注意するとき、猪田は波風が立たないように気を遣っているのか、最初は冗談めかした口調で声をかけてくる。だからいまも顔を上げれば、完全に怒ってはいない、口角を上げて余裕を見せている表情をしているだろう。
「大河原! 顔を上げろ!」
手のひらで肩を叩かれ、ようやく尚人はむくりと体を起こした。ホームルームの時間は限られているが、猪田なら尚人が夕方まで起きなくても、ずっと隣に立って話しかけてきそうな勢いだ。
「聞こえてるよ、うっせえな」
尚人が答えると、猪田は予想していた通りの顔をしていた。腹を立てていないわけではないが、それをそのまま表へ出せば生徒との距離が遠くなるとでも考えているのか、口元にはまだ笑顔の名残がある。
「聞こえているなら、返事くらいしろ。先生はさっきから、お前のパーカーの話をしてるんだ」
「わかってるって」
「知っていて、どうして脱がない」
「寒いから」
尚人が答えると、教室のどこかで笑いが起きた。猪田は笑った生徒の方へ一度だけ顔を向けたものの、注意はしなかった。冗談として済ませられる程度の空気だと判断したのだろう。
「指定のセーターを着ればいいだろ」
「持ってねえよ」
「入学したときに買っているはずだ」
「なくした」
「昨日は洗濯中だと言ってなかったか?」
「チッ。……昨日なくなったんだよ」
今度は教室のあちこちから笑い声が上がった。猪田まで呆れたように息を吐き、尚人の机へ片手をついた。
「嘘をつくなら、せめて前に言ったことくらい覚えておけ」
「先生が覚えてるか試しただけ」
「試さなくていい」
「ちゃんと生徒ひとりひとりを見てる先生なら、覚えてるかなと思って」
尚人が猪田を嫌っていることは、おなじクラスにいれば誰でもわかる。普段なら、また始まったと思う生徒もいるだろうが、いまの言葉には、冗談として受け取れない皮肉が混じっていた。
「大河原。校則が気に入らないなら、それについて話すのは構わない。ただ、注意されるたびに違う言い訳をして、相手をからかって終わらせるのは話し合いとは言わないぞ」
猪田の口許から、残っていた笑みが消えた。
「べつに、オレは話し合いたいなんて思ってねえから」
「なら、決まりに従え。パーカーを脱いで、指定のセーターを着ろ。なくしたなら、買い直すように家の人へ伝えろ」
尚人は猪田を見た。家の人。その言い方は、教師が家庭の中身を知らないときに使うものだった。父親とも母親とも決めつけず、生徒によって家族の形が違うことへ配慮しているつもりなのだろう。よく考えられた便利な言葉だと思った。誰にも失礼にならず、自分がなにも知らないことも目立たない。
「服が違うだけで、授業が受けられなくなるわけじゃないでしょ」
「授業を受けられるかどうかだけが、校則の基準じゃない。学校生活を送るうえで、全員が守る基準を決めるために校則があるんだ」
「その基準から外れたら、誰かが死ぬんですか」
「極端な話にするな」
「先生が答えられないだけでしょ」
猪田の眉間に、初めてはっきりと皺が寄った。尚人はその顔を見て、胸の内側にあった眠気が薄れるのを感じた。猪田が怒れば、自分が思っていた通りの人間だったと確認できる。いつもの明るさも、大きな笑い声も、言うことを聞く生徒に向けるためのものにすぎない。
「大河原、放課後に職員室へ来い」
「嫌っす。用事があるんで」
「それはどんな用事だ」
「先生に言う必要あります?」
「校則違反を繰り返して、放課後の指導にも応じられないと言うなら、確認する必要はある」
尚人は舌打ちを呑み込んだ。
放課後に残れば、アルバイトに遅れる。遅刻が続けば、ただでさえ少ない勤務を減らされるかもしれない。だが、それを説明すれば、今度は無許可のアルバイトが問題になる。校則は、違反がひとつ見つかれば、その下から別の違反を引きずり出すようにできているらしい。
「病院に行くんすよ」
尚人は言った。
「どこの病院だ」
「そこまで聞くんすか。プライバシーって知らないんすか」
「先生は病院へ行くことを責めてるんじゃない。お前が放課後に話ができない理由を確認してるんだ」
猪田の言葉は、どこまでも正しかった。正しい言葉を選び、言い返せば言い返すほど、尚人だけが身勝手に見えるようにしているように感じられた。
「じゃあ、あしたなら大丈夫っす」
「今日だ」
「なんでですか」
「あしたになったら、また別の理由を作るだろ」
猪田は言ったあと、腕時計を見た。朝礼の時間はもうほとんど残っていない。前の席の生徒たちは、表向きは教卓を見ながら、尚人たちの会話がどう終わるのかを待っている。
「放課後、職員室だ。逃げるなよ」
「逃げたら追いかけるんですか」
「必要ならな」
猪田はそう答え、尚人の肩を一度だけ叩いて教卓へ戻った。
その手は、注意を終えた教師が生徒を励ますためのものだったのかもしれない。怒っていない、まだ見放していないと伝えたかったのかもしれない。
尚人は、触れられた場所を手の甲で払った。
放課後になれば、猪田が教室へ来るより先に学校を出るつもりだった。
「どこに行くんだ、大河原」
昇降口でこそこそと靴を履き替えていたとき、背後から猪田の声がして、尚人は飛び上がった。「先生はお前に、放課後職員室に来なさいと言ったよな。それなのになんで帰ろうとしてるんだ」
朝のうちに逃げると宣言したようなものなのだから、先回りされていても不思議ではなかった。それでも、猪田がほんとうに昇降口まで来るとは思っていなかった。部活動の指導だとか、職員会議だとか、放課後にも教師なりの仕事がいくらでもあるはずだ。その時間を使って尚人が逃げないか見張っていたのだとすれば、よほど暇なのか、よほど自分が生徒を更生させられると信じているのか、あるいはその両方なのか。
「病院に行くって言ったでしょ」
尚人は上履きを靴箱へ押し込み、スニーカーへ足を入れた。
「だから、どこの病院か聞いたんだ。答えなかっただろ。体調が悪いなら、保護者に確認する必要がある。急ぐなら、職員室へ行く途中で話せばいい」
「確認しなくていいっすよ。自分で行けるんで」
「そういう話じゃない。学校で体調不良になった可能性があるなら、保護者に連絡しなきゃいけないんだ」
猪田は昇降口の出入口を塞ぐようには立っていなかった。尚人が横を通ろうと思えば、通れるだけの隙間を残している。それでも、そこを抜ければ、教師の制止を振り切って帰ったことになる。
「もう授業終わってるじゃないですか」
「放課後に話があると伝えたよな」
「それ、命令なんすか。先生が必要だと思ってるだけで、オレには必要ないんすけど」
「お前が必要ないと言えば、校則違反を見逃してもらえると思ってるのか」
尚人は鞄を肩に掛けなおした。話しているあいだにも時間は過ぎている。バイト先の店までは、学校から歩いて二十分ほどかかる。走れば十分少々で着くが、制服のまま店へ入るわけにはいかない。途中の公衆トイレで着替える時間まで考えれば、もう余裕はなかった。
「あしたならいいって言ってるでしょ」
「今日聞かなければ、あしたもおなじことをする可能性があるからだ」
「パーカーくらいで大げさなんだよ」
「パーカーだけじゃない。遅刻、授業中の居眠り、提出物の未提出、許可なく校外へ出たこともあるな」
「いちいち覚えてんの、気持ち悪っ!」
「担任だから覚えてるんだ」
また、その言葉だった。担任だから自分には尚人へ口を出す資格があり、尚人にはそれを聞き入れる義務がある。役割を理由にすれば、どれほど踏み込んでも正当な行為になるらしい。
「先生は、オレみたいなのを立ち直らせたら、気持ちいいんでしょ。前は真面目だった生徒が荒れはじめた。熱血教師が根気よく向き合ったら、最後は心を開いて更生しました。好きそうじゃないですか、そういう話」
猪田の顔から、浮かび上がりかけていた苛立ちが消えた。代わりに、尚人の言葉をはかるような表情になった。それがまた気に食わなかった。怒鳴ればいいのに、猪田は尚人の言葉の奥になにかがあるのではないかと探そうとする。
「先生は、お前を立ち直らせようなんて話をしてない。ただ目の前にある校則違反を注意しているだけだ」
「だったらパーカー脱げで終わりじゃないですか。なんで放課後まで残されなきゃいけないんすか」
「脱げと言っても脱がない。理由を聞けば嘘をつく。話をしようとすれば逃げる。パーカーだけの話ではなくなったのは、お前がそうしたからだろ」
どこまでも尚人のせいにする言い方だと思った。間違ってはいないのかもしれない。それでも腹が立った。猪田の言葉には、尚人が何を返しても、最初から用意されていた場所へ追い込んでいくようなところがある。
「とにかく、今日は無理なんで」
尚人は猪田の横を通り過ぎようとした。猪田は腕を掴まなかった。ただ一歩だけ横へ動き、尚人の前へ立った。
「しつけえんだよ!」
「嘘だから答えられないんじゃないのか」
尚人は顔を上げた。猪田は笑っていなかった。決めつけた言い方ではなかったが、疑っていることを隠すつもりもないらしい。
「嘘じゃねえよ」
「なら、今から行く病院の名前を言え。診察券は持っているのか?」
「なんでそこまで言わなきゃいけねえんだよ!」
声が昇降口に響いて、そこにいた生徒が何人かこちらを見た。尚人は視線を感じ、さらに苛立った。猪田と話しているだけでも鬱陶しいのに、周囲から問題を起こしている生徒として眺められるのは耐えられなかった。
「大河原、少し落ち着かないか」
「先生が追い詰めてくるからだろ!」
「追い詰めていない。先生はお前のことを確認しているだけだ」
「それが追い詰めてるって言ってんだよ! 今日バイトに遅れたら、先生が給料払ってくれんのかよ!」
言葉が出たあと、昇降口のざわめきが急に静かになった。
猪田の目が見開かれてようやく、尚人は自分がなにを言ってしまったのかが分かった。撤回しようにも、聞き間違いだと言える声量ではなかった。周りにいた生徒にも届いている。
「大河原、バイトをしてるのか」
「してないっ!」
「いま、自分で言っただろ」
「たとえばの話だよ」
「どこで働いてる。……たしか許可は取っていないよな」
尚人は答えなかった。
この学校では、家庭の事情などで必要と認められた場合にかぎり、申請を出せばアルバイトが許可される。尚人が申請書を出したことはない。事情を説明せずに許可だけを得られるはずもなく、説明すれば、家庭へ確認が入るからだ。
「どうして申請しなかった」
「言う必要ないっす」
「ある。校則で禁止されてることを、何度も繰り返してるんだぞ」
「また校則かよ」
「またじゃない。今度はパーカーとは話が違う」
「どう違うんすか。オレが働いたら誰か死ぬんですか」
「未成年の生徒が、学校にも保護者にも知らせず働いてるんだ。勤務時間や仕事内容に問題がないか、学校として確認する必要がある」
「仕事に問題なんかねえよ。それに親はオレがバイトしてるの、知ってるし」
「なら申請できるだろ」
「できねえからしてねえんだよ!」
再び声が大きくなった。猪田はすぐに返事をしなかった。尚人も、自分がなにを言ったのかを遅れて理解した。
「どうしてできない。学校から家に連絡されたくないのか?」
案の定、猪田は尋ねてきた。静かな声だった。大きな声を出せば尚人が余計に反発すると考えたのか、それとも、ようやく自分が救うべき事情を見つけたと思ったのか。どちらにしても、その変化が嫌だった。
「急に優しい声出すの、やめてもらえます?」
「優しくしたつもりはないぞ」
「オレに事情がありそうだと思った途端、それですか。可哀想な生徒を見つけられてよかったですね」
「そんなことは言ってないだろ」
「言ってなくても顔に出てんだよ」
猪田は眉を寄せた。それが心配している顔なのか、腹を立てている顔なのか、尚人にはわからなかった。どちらでもよかった。自分のことをなにも知らない人間に、その表情を向けられること自体が不愉快だった。
「放課後の指導は、あしたにしてやる」
しばらくして、猪田が言った。
尚人は予想していなかった言葉に、すぐ反応できなかった。ここまで来れば、猪田に無理矢理職員室に引き摺られていくだろうと、半ば覚悟を決めつつあった。
「今日は行っていい。ただし、アルバイトのことはあした、きちんと話してもらう。逃げたら、今度こそ保護者に連絡するからな」
まだなにか言いたそうな猪田を無視して、尚人は昇降口を出た。走り出す前に一度だけ振り返ると、猪田は追ってこなかった。入口に立ち、尚人の背中を見ていた。
見送ってやったとでも思っているのかもしれない。
尚人は前を向き、校門へ向かって走った。放課後の校庭には、部活動の生徒たちの様々な声が響いている。その中に、自分の名前を呼ぶ猪田の声が混じっていないことを確かめるまで、速度を落とさなかった。
わざとらしい笑顔を貼り付けた担任教師の顔を見るたびに、大河原尚人は唾を吐きかけてやりたくなる。実際にそんなことをするほど馬鹿ではないので、ただ机の上に肘をつき、周りと同じような顔をして話を聞いている。
学生時代はバドミントンの選手だったのだと、隙あらば挟まれる過去の話も嫌いだ。自分の言うことはすべて間違っていないと信じているような大きな声も嫌いだ。ものごとはすべて筋肉で解決できるとでも言いたげな見た目も嫌いだ。
そもそも、そこまで誇らしげに語るほどの選手だったなら、なぜいまはバドミントン部の顧問ではないのだろう。本人が自分で思っているほど価値のある過去なら、学校もありがたくコートのそばに置いておくだろう。そうされていないということは、結局あの男は、その程度の人間なのだ。
そう考えると、教卓の前で日に焼けた腕を組んでいる猪田悠真が、ますます滑稽に見えた。自分が偉い人間だと勘違いしている脳筋野郎が少し声を張っただけで、教室の空気がそちらへ傾く。そのことが、尚人にはなにより気に食わなかった。
「大河原、そのパーカー、校則違反だろ」
朝のホームルームで、猪田は教室の一番後ろで机に伏せっている尚人に向かって、声を張った。尚人は反応を示さなかった。
猪田の声はよく聞こえてきた。だからこそ、無視をした。ウザい担任の注意に反応するより、襲いかかってくる睡魔に身を委ねたほうが、楽だったからだ。
尚人の通う県立蒼岳高等学校は、旧制中学校を前身とする公立の男子校だ。創立から百年を越え、校舎や校章だけでなく、時代に置き去りにされたような校則まで、伝統の名のもとに受け継がれている。
尚人がこの学校に入学したのは、単に家から近かったことと、公立高校で、私立に比べて費用がぐんと抑えられるから、という理由のみだった。
中学の頃の尚人は、真面目な生徒だった。定期試験ではいつも上位に入り、提出物を忘れることもなかった。教師から言われたことに素直に従うというより、注意を受けるような隙を最初から作らなかった。校則に疑問を抱くことはあっても、それを破ってまで自分の考えを示そうとは思わなかった。決まりに従うほうが余計な手間もかからず、周囲から面倒な人間だと思われずに済むと知っていたからだ。
入っていたサッカー部では、前へ出て仲間を引っ張るような選手ではなかった。声を張り上げる主将の指示を聞き、空いた場所を見つけて走り、味方が失ったボールを黙って取り返した。目立つ得点を決めることは少なくても、試合に出れば監督から一定の評価を受けた。尚人自身も、その扱われ方を気に入っていた。必要とはされるが、中心に立ってなにかを背負わされることはない。褒められれば礼を言い、注意されれば直す。それだけで、大人たちは尚人を物分かりのいい生徒だと思ったみたいだ。
同級生との関係も悪くなかった。いつも一緒にいる友人が何人かいて、昼休みにはくだらない話で笑い、放課後には共に部活へ向かった。誰かと喧嘩をすることもなく、教師に反抗することもない。卒業するときには、担任から、高校でもその調子で頑張れと言われた。
尚人も、そのつもりだった。高校へ入ってまで、わざわざ問題を起こす理由など、当時の尚人にはひとつもなかったからだ。
「大河原! 聞いているか? 先生がこれだけ大きい声を出してるんだから、聞こえていないわけがないよな!」
猪田が近づいてくる足音がする。生徒に注意するとき、猪田は波風が立たないように気を遣っているのか、最初は冗談めかした口調で声をかけてくる。だからいまも顔を上げれば、完全に怒ってはいない、口角を上げて余裕を見せている表情をしているだろう。
「大河原! 顔を上げろ!」
手のひらで肩を叩かれ、ようやく尚人はむくりと体を起こした。ホームルームの時間は限られているが、猪田なら尚人が夕方まで起きなくても、ずっと隣に立って話しかけてきそうな勢いだ。
「聞こえてるよ、うっせえな」
尚人が答えると、猪田は予想していた通りの顔をしていた。腹を立てていないわけではないが、それをそのまま表へ出せば生徒との距離が遠くなるとでも考えているのか、口元にはまだ笑顔の名残がある。
「聞こえているなら、返事くらいしろ。先生はさっきから、お前のパーカーの話をしてるんだ」
「わかってるって」
「知っていて、どうして脱がない」
「寒いから」
尚人が答えると、教室のどこかで笑いが起きた。猪田は笑った生徒の方へ一度だけ顔を向けたものの、注意はしなかった。冗談として済ませられる程度の空気だと判断したのだろう。
「指定のセーターを着ればいいだろ」
「持ってねえよ」
「入学したときに買っているはずだ」
「なくした」
「昨日は洗濯中だと言ってなかったか?」
「チッ。……昨日なくなったんだよ」
今度は教室のあちこちから笑い声が上がった。猪田まで呆れたように息を吐き、尚人の机へ片手をついた。
「嘘をつくなら、せめて前に言ったことくらい覚えておけ」
「先生が覚えてるか試しただけ」
「試さなくていい」
「ちゃんと生徒ひとりひとりを見てる先生なら、覚えてるかなと思って」
尚人が猪田を嫌っていることは、おなじクラスにいれば誰でもわかる。普段なら、また始まったと思う生徒もいるだろうが、いまの言葉には、冗談として受け取れない皮肉が混じっていた。
「大河原。校則が気に入らないなら、それについて話すのは構わない。ただ、注意されるたびに違う言い訳をして、相手をからかって終わらせるのは話し合いとは言わないぞ」
猪田の口許から、残っていた笑みが消えた。
「べつに、オレは話し合いたいなんて思ってねえから」
「なら、決まりに従え。パーカーを脱いで、指定のセーターを着ろ。なくしたなら、買い直すように家の人へ伝えろ」
尚人は猪田を見た。家の人。その言い方は、教師が家庭の中身を知らないときに使うものだった。父親とも母親とも決めつけず、生徒によって家族の形が違うことへ配慮しているつもりなのだろう。よく考えられた便利な言葉だと思った。誰にも失礼にならず、自分がなにも知らないことも目立たない。
「服が違うだけで、授業が受けられなくなるわけじゃないでしょ」
「授業を受けられるかどうかだけが、校則の基準じゃない。学校生活を送るうえで、全員が守る基準を決めるために校則があるんだ」
「その基準から外れたら、誰かが死ぬんですか」
「極端な話にするな」
「先生が答えられないだけでしょ」
猪田の眉間に、初めてはっきりと皺が寄った。尚人はその顔を見て、胸の内側にあった眠気が薄れるのを感じた。猪田が怒れば、自分が思っていた通りの人間だったと確認できる。いつもの明るさも、大きな笑い声も、言うことを聞く生徒に向けるためのものにすぎない。
「大河原、放課後に職員室へ来い」
「嫌っす。用事があるんで」
「それはどんな用事だ」
「先生に言う必要あります?」
「校則違反を繰り返して、放課後の指導にも応じられないと言うなら、確認する必要はある」
尚人は舌打ちを呑み込んだ。
放課後に残れば、アルバイトに遅れる。遅刻が続けば、ただでさえ少ない勤務を減らされるかもしれない。だが、それを説明すれば、今度は無許可のアルバイトが問題になる。校則は、違反がひとつ見つかれば、その下から別の違反を引きずり出すようにできているらしい。
「病院に行くんすよ」
尚人は言った。
「どこの病院だ」
「そこまで聞くんすか。プライバシーって知らないんすか」
「先生は病院へ行くことを責めてるんじゃない。お前が放課後に話ができない理由を確認してるんだ」
猪田の言葉は、どこまでも正しかった。正しい言葉を選び、言い返せば言い返すほど、尚人だけが身勝手に見えるようにしているように感じられた。
「じゃあ、あしたなら大丈夫っす」
「今日だ」
「なんでですか」
「あしたになったら、また別の理由を作るだろ」
猪田は言ったあと、腕時計を見た。朝礼の時間はもうほとんど残っていない。前の席の生徒たちは、表向きは教卓を見ながら、尚人たちの会話がどう終わるのかを待っている。
「放課後、職員室だ。逃げるなよ」
「逃げたら追いかけるんですか」
「必要ならな」
猪田はそう答え、尚人の肩を一度だけ叩いて教卓へ戻った。
その手は、注意を終えた教師が生徒を励ますためのものだったのかもしれない。怒っていない、まだ見放していないと伝えたかったのかもしれない。
尚人は、触れられた場所を手の甲で払った。
放課後になれば、猪田が教室へ来るより先に学校を出るつもりだった。
「どこに行くんだ、大河原」
昇降口でこそこそと靴を履き替えていたとき、背後から猪田の声がして、尚人は飛び上がった。「先生はお前に、放課後職員室に来なさいと言ったよな。それなのになんで帰ろうとしてるんだ」
朝のうちに逃げると宣言したようなものなのだから、先回りされていても不思議ではなかった。それでも、猪田がほんとうに昇降口まで来るとは思っていなかった。部活動の指導だとか、職員会議だとか、放課後にも教師なりの仕事がいくらでもあるはずだ。その時間を使って尚人が逃げないか見張っていたのだとすれば、よほど暇なのか、よほど自分が生徒を更生させられると信じているのか、あるいはその両方なのか。
「病院に行くって言ったでしょ」
尚人は上履きを靴箱へ押し込み、スニーカーへ足を入れた。
「だから、どこの病院か聞いたんだ。答えなかっただろ。体調が悪いなら、保護者に確認する必要がある。急ぐなら、職員室へ行く途中で話せばいい」
「確認しなくていいっすよ。自分で行けるんで」
「そういう話じゃない。学校で体調不良になった可能性があるなら、保護者に連絡しなきゃいけないんだ」
猪田は昇降口の出入口を塞ぐようには立っていなかった。尚人が横を通ろうと思えば、通れるだけの隙間を残している。それでも、そこを抜ければ、教師の制止を振り切って帰ったことになる。
「もう授業終わってるじゃないですか」
「放課後に話があると伝えたよな」
「それ、命令なんすか。先生が必要だと思ってるだけで、オレには必要ないんすけど」
「お前が必要ないと言えば、校則違反を見逃してもらえると思ってるのか」
尚人は鞄を肩に掛けなおした。話しているあいだにも時間は過ぎている。バイト先の店までは、学校から歩いて二十分ほどかかる。走れば十分少々で着くが、制服のまま店へ入るわけにはいかない。途中の公衆トイレで着替える時間まで考えれば、もう余裕はなかった。
「あしたならいいって言ってるでしょ」
「今日聞かなければ、あしたもおなじことをする可能性があるからだ」
「パーカーくらいで大げさなんだよ」
「パーカーだけじゃない。遅刻、授業中の居眠り、提出物の未提出、許可なく校外へ出たこともあるな」
「いちいち覚えてんの、気持ち悪っ!」
「担任だから覚えてるんだ」
また、その言葉だった。担任だから自分には尚人へ口を出す資格があり、尚人にはそれを聞き入れる義務がある。役割を理由にすれば、どれほど踏み込んでも正当な行為になるらしい。
「先生は、オレみたいなのを立ち直らせたら、気持ちいいんでしょ。前は真面目だった生徒が荒れはじめた。熱血教師が根気よく向き合ったら、最後は心を開いて更生しました。好きそうじゃないですか、そういう話」
猪田の顔から、浮かび上がりかけていた苛立ちが消えた。代わりに、尚人の言葉をはかるような表情になった。それがまた気に食わなかった。怒鳴ればいいのに、猪田は尚人の言葉の奥になにかがあるのではないかと探そうとする。
「先生は、お前を立ち直らせようなんて話をしてない。ただ目の前にある校則違反を注意しているだけだ」
「だったらパーカー脱げで終わりじゃないですか。なんで放課後まで残されなきゃいけないんすか」
「脱げと言っても脱がない。理由を聞けば嘘をつく。話をしようとすれば逃げる。パーカーだけの話ではなくなったのは、お前がそうしたからだろ」
どこまでも尚人のせいにする言い方だと思った。間違ってはいないのかもしれない。それでも腹が立った。猪田の言葉には、尚人が何を返しても、最初から用意されていた場所へ追い込んでいくようなところがある。
「とにかく、今日は無理なんで」
尚人は猪田の横を通り過ぎようとした。猪田は腕を掴まなかった。ただ一歩だけ横へ動き、尚人の前へ立った。
「しつけえんだよ!」
「嘘だから答えられないんじゃないのか」
尚人は顔を上げた。猪田は笑っていなかった。決めつけた言い方ではなかったが、疑っていることを隠すつもりもないらしい。
「嘘じゃねえよ」
「なら、今から行く病院の名前を言え。診察券は持っているのか?」
「なんでそこまで言わなきゃいけねえんだよ!」
声が昇降口に響いて、そこにいた生徒が何人かこちらを見た。尚人は視線を感じ、さらに苛立った。猪田と話しているだけでも鬱陶しいのに、周囲から問題を起こしている生徒として眺められるのは耐えられなかった。
「大河原、少し落ち着かないか」
「先生が追い詰めてくるからだろ!」
「追い詰めていない。先生はお前のことを確認しているだけだ」
「それが追い詰めてるって言ってんだよ! 今日バイトに遅れたら、先生が給料払ってくれんのかよ!」
言葉が出たあと、昇降口のざわめきが急に静かになった。
猪田の目が見開かれてようやく、尚人は自分がなにを言ってしまったのかが分かった。撤回しようにも、聞き間違いだと言える声量ではなかった。周りにいた生徒にも届いている。
「大河原、バイトをしてるのか」
「してないっ!」
「いま、自分で言っただろ」
「たとえばの話だよ」
「どこで働いてる。……たしか許可は取っていないよな」
尚人は答えなかった。
この学校では、家庭の事情などで必要と認められた場合にかぎり、申請を出せばアルバイトが許可される。尚人が申請書を出したことはない。事情を説明せずに許可だけを得られるはずもなく、説明すれば、家庭へ確認が入るからだ。
「どうして申請しなかった」
「言う必要ないっす」
「ある。校則で禁止されてることを、何度も繰り返してるんだぞ」
「また校則かよ」
「またじゃない。今度はパーカーとは話が違う」
「どう違うんすか。オレが働いたら誰か死ぬんですか」
「未成年の生徒が、学校にも保護者にも知らせず働いてるんだ。勤務時間や仕事内容に問題がないか、学校として確認する必要がある」
「仕事に問題なんかねえよ。それに親はオレがバイトしてるの、知ってるし」
「なら申請できるだろ」
「できねえからしてねえんだよ!」
再び声が大きくなった。猪田はすぐに返事をしなかった。尚人も、自分がなにを言ったのかを遅れて理解した。
「どうしてできない。学校から家に連絡されたくないのか?」
案の定、猪田は尋ねてきた。静かな声だった。大きな声を出せば尚人が余計に反発すると考えたのか、それとも、ようやく自分が救うべき事情を見つけたと思ったのか。どちらにしても、その変化が嫌だった。
「急に優しい声出すの、やめてもらえます?」
「優しくしたつもりはないぞ」
「オレに事情がありそうだと思った途端、それですか。可哀想な生徒を見つけられてよかったですね」
「そんなことは言ってないだろ」
「言ってなくても顔に出てんだよ」
猪田は眉を寄せた。それが心配している顔なのか、腹を立てている顔なのか、尚人にはわからなかった。どちらでもよかった。自分のことをなにも知らない人間に、その表情を向けられること自体が不愉快だった。
「放課後の指導は、あしたにしてやる」
しばらくして、猪田が言った。
尚人は予想していなかった言葉に、すぐ反応できなかった。ここまで来れば、猪田に無理矢理職員室に引き摺られていくだろうと、半ば覚悟を決めつつあった。
「今日は行っていい。ただし、アルバイトのことはあした、きちんと話してもらう。逃げたら、今度こそ保護者に連絡するからな」
まだなにか言いたそうな猪田を無視して、尚人は昇降口を出た。走り出す前に一度だけ振り返ると、猪田は追ってこなかった。入口に立ち、尚人の背中を見ていた。
見送ってやったとでも思っているのかもしれない。
尚人は前を向き、校門へ向かって走った。放課後の校庭には、部活動の生徒たちの様々な声が響いている。その中に、自分の名前を呼ぶ猪田の声が混じっていないことを確かめるまで、速度を落とさなかった。



