4
なぜ勉強しなくちゃいけないんですか。
そう聞くと、大人たちは大抵、困った顔をして自分を見るだろう。答えづらい質問だと、その疑問を抱いている朋樹だってそう思う。
小学生の頃からずっと、自分たちは当たり前のように学校に通って、なにかを学んでいる。それは『教科』と分類された物事だけではない。人間関係とか、一般常識とか、時間を守ることとか、集団の中で自分の席に座っていることとか、そういう名前のついていないものまで、いつのまにか覚えさせられている。
朝、決まった時間に起きる。校門をくぐる。自分の下駄箱から上履きを出す。廊下を走らない。授業中は前を向く。教師に当てられたら返事をする。わからなくても、わかりませんと言うより先に、まず考えている顔をする。そういうことのひとつひとつを、朋樹は長い時間をかけて身につけてきた。
それを疑ったことは、あまりなかった。学校とはそういう場所で、子供とはそういうふうに毎日を過ごすものなのだと思っていた。算数が数学になり、国語が現代文と古文になり、英語の本文が長くなり、理科や社会がさらに細かく分かれていく。
前の学年で習ったことが次の学年で使われる。中学で覚えた公式を高校で使う。小学校で習った漢字が、文章の中で読める。そういうつながりを見つけることは、嫌いではなかった。
街中を歩いている大人たちは、自分よりも早くその過程を終えている。
「三平方の定理なんか、社会に出たら使わねえよ」と笑う大人がいる。古文の助動詞を覚えても給料は上がらないとか、化学式なんて生活で使わないとか、歴史の年号を知っていたところで何になるのかとか、そういうことを冗談のように言う人もいる。
朋樹は、そういう言葉を聞くたびに、笑っている大人たちは本当にそれで困っていないのだろうかと思う。困っていないのなら、自分たちは今なぜこんなに必死になっているのだろう。困っているのなら、なぜそれを笑い話にできるのだろう。
大人になれば、勉強しなくてよくなるのだと思っていた時期がある。小学生のころは、中学生になればもっと自由になれると思っていた。中学生になると、高校生はもっと自分のことを自分で決められるのだと思った。高校生になってみると、今度は大学や就職が先にあった。そこまで行けばなにかが終わるのかと思えば、きっと終わらない。
資格を取る。仕事を覚える。人付き合いを覚える。失敗しない言葉遣いを覚える。上の人に気に入られる態度を覚える。覚えるものの名前が変わるだけで、知らないことがごまんとありながらも前へ進んでいかなければならない時間は、たぶんずっと続いていく。
学校の勉強は、そのための練習なのだろうか。
数学の問題を解くことも、古文を訳すことも、英単語を覚えることも、いつか別のなにかに耐えるための練習だと言われているような気がする。
いまやっていることが将来役に立つのではなく、今ここで黙って机に向かえる人間になること自体が求められているのだとしたら、それは勉強というより、自分の形を整える作業に近い。正しい時間に座り、正しい姿勢で聞き、正しい方法で答え、間違えたら直し、終わったら次のページへ進む。そういうことを繰り返しているうちに、自分が考えた物事より、止まらずに進んだかどうかだけが見られるようになる。
それでも、勉強がまったく無意味だとは思えなかった。そこが一番厄介だった。知らなかったことを知る瞬間には、たしかに小さな手応えがある。親や教師が言うことも、全部が間違っているわけではない。それなのに、その正しさの中に入っていくほど、自分の足元が狭くなっていくような気がする。
涼真は、先輩に怒られていた。捕っただけで終わるなと言われ、当たり前のプレーに得意げな顔をするなと言われ、返事が遅れただけでふてくされているのかと言われていた。それでも次のメニューに備え、声を出し、汗を拭ってベンチへ戻った。
そういうことは、これまでもずっとあっただろう。なのに涼真は、野球が好きだと言っていた。
好きだから耐えられるのか、耐えているうちに好きだと思うしかなくなるのか、朋樹にはわからない。涼真自身にも、きっとはっきりとはわからないのかもしれない。
誰かに聞いてみたいと思った。
なぜ勉強しなくちゃいけないんですか。
声に出せば、きっと幼い質問に聞こえる。高校二年生にもなってなにを言っているのかと、自分でも思う。小学生が宿題を嫌がって言うなら、まだかわいげがある。中学生が定期テスト前に言うなら、反抗期で済む。高校二年の夏、志望校や模試の話が現実味を帯び始めた時期にその質問を口にすれば、周りの大人は励ますか、諭すか、心配するかのどれかだろう。
それでも朋樹にとっては、初めて自分の中から出てきた問いだった。
教科書に載っている問いでも、問題集の最後にある発展問題でもない。答えが用意されているかどうかさえわからない。だから、口に出すのが怖かった。出した瞬間、自分がこれまで当たり前に歩いてきた道の真ん中で、急にしゃがみ込んでしまうような気がした。
昇降口のガラス戸に映った自分は、夏服の白いシャツに黒いズボンで、リュックを肩にかけているだけの高校生だった。特別に落ち込んでいるようにも、何かを決意しているようにも見えない。周りから見れば、講習を終えて帰ろうとしている生徒のひとりにすぎない。
「埜瀬!」
背後から自分を呼ぶ大きな声がして、朋樹は靴箱から取り出しかけた外靴を戻した。猪田だった。水泳部の顧問をしている彼は、いつものジャージ姿ではなく、藍色のTシャツと、濡れても平気そうなぴったりした黒い短パンを履いている。
「講習終わったんだな!」
猪田は、たまたまここを通ったという感じだった。自分が受け持っている生徒を見かけたから声をかけたのだろう。
「はい、先生、さよう……」
とくに話すことはないから、さっさと切り上げようと思ったときだった。朋樹の頭の中に、ふいにとある考えが浮かんだ。
「先生、少しだけいいですか?」
猪田は目を丸くした。すぐにニッと白い歯を見せて、「どうしたんだ?」と問うてくる。
朋樹は次の声が出せなかった。自分で引き留めておいて、なにをやっているんだと心の中で自責する。
猪田は急かしてこなかった。流石にもうニコニコとはしていなかったが、深刻ぶっているのではなく、朋樹が言葉を出すまで待っているという顔をしていた。
「……先生は自分のやっていることに、疑問を持ったことはありますか?」
言ってから、朋樹は少しだけ後悔した。自分が聞きたかったことは、そういうことだっただろうか。もっと別の言い方があったのではないか。だが、いきなり勉強のことを聞く勇気はなかった。だからまず、猪田のほうへ投げた。自分の問いを、そのままではなく、別の形にして渡した。
猪田は一度まばたきをした。予想していなかった質問なのは、その顔を見ればわかった。けれど、笑わなかった。面白がることも、茶化すこともしなかった。
「あるぞ!」
猪田はただ一言、そう言った。こういうとき、自分を良くみせるために答えをはぐらかしたりする大人を、朋樹はこれまで何人も見てきた。だが猪田ははなからそんなつもりはないのか、包み隠さずに伝えてきた。「埜瀬、むしろ、そんなことないっていうやつなんていないと先生は思うけどな」
猪田は生徒と話をするとき、一人称を『先生』という。『俺』とか『私』ではなく、『先生』。それはもしかすると、猪田自身にも言い聞かせているのかもしれない。自分は教師なのだと。ついこのあいだまで大学生だった彼が、自分を戒めるために、敢えてそう言っているのではないかと感じることがある。
朋樹が黙っていると、猪田はシャツをめくって汗を拭った。なにも入っていない傘立てに腰を下ろす。朋樹と猪田の目線がおなじ高さになった。
「たとえばさ、部活で何本も泳がせるだろ。息を切らして、もう腕が上がらないって顔をしている部員に、もう一本、と言う。必要だから言ってる。最後にフォームが崩れたらタイムは落ちるし、ターンが雑になればそこで離される。でも、そのもう一本が本当にそいつのためになっているのか、それとも俺が練習らしい練習をさせた気になっているだけなのかって、考えることはある」
猪田は、いつもの明るい調子のまま言った。朋樹はその顔を見た。猪田の声は大きい。教室でも体育館でも、彼が声を出せばたいていの生徒がそちらを見る。だから、その声の奥に迷いがあるなど、これまで考えたことがなかった。声の大きい人間は、そのぶん確信も大きいのだと、勝手に思っていたのかもしれない。
「疑問を持っても、やるんですか」
「やる。やめるときもあるけど、やるときはやる。疑問があるから全部やめる、とはいかないからな。迷っているあいだにも授業はあるし、部活もあるし、生徒はそこにいる。立ち止まって考えるのは大事だけど、ずっと立ち止まっていたら、今度は生徒が困るだろ」
「どうやって決めるんですか。疑問があるのに、それでもやることを」
ジャリ、と音がして、猪田のシューズが昇降口の地面を擦った。少しだけ天井に視線を巡らせたあと、朋樹に向き直った。
「大げさな答えはないな。見て決める。今日はもう無理だなと思ったら止めるし、ここで一本いけると思ったらやらせる。もちろん外すこともある。見誤ることもある。だから、あとで反省する。あのとき止めたほうがよかったかなとか、逆に、もう少しやらせたほうがよかったかなとか」
「先生でも、間違えるんですか」
「間違えるぞ。先生だから間違えないってことにされたら、そっちのほうが怖いだろ」
教師は、黒板の前に立つとき、正解を知っている側の人間として振る舞う。そういう人間の中にも、言ったあとで本当にそうだったのかと振り返る時間がある。
そのことを知ったからといって、朋樹自身がすぐに楽になるわけではなかった。ただ、朋樹はようやく次の言葉を出せる気がした。
「勉強も、そうなんでしょうか」
「勉強?」
猪田が聞き返した。責めるような声ではない。
「勉強って、本当は、したいと思うものなんじゃないんですか」
猪田は黙った。今度は少し長かった。朋樹はその沈黙を、怖いとは思わなかった。すぐに返事をされるより、そのほうがまだよかった。
「そうだな」
猪田はゆっくり言った。
「俺も、そう思う」
「でも、学校では、しなくちゃいけないことになっています」
「うん」
「時間割があって、授業があって、テストがあって、受験があって。したいかどうかより先に、やることが決まっています。先生たちは、将来のためだとか、選択肢が増えるとか言います。たぶんそれは間違っていないんだと思います。間違っていないから、余計にわからなくなります」
そこまで言うと、朋樹は一度息を吸った。言葉が予想よりも続いてしまう。自分がこんなふうに猪田へ話すとは思っていなかった。猪田も口を挟まなかった。
「俺、勉強が嫌いなわけじゃないです。わからなかったことがわかるのは、嫌いじゃない。問題が解けるのも、言葉の意味がつながるのも、嫌いじゃないです。でも、それが全部、次のためとか、将来のためとかにされると、今やっていることが自分のものじゃなくなる感じがします。したいからやっているんじゃなくて、遅れないためにやっているみたいで」
言い終えると、急に恥ずかしくなった。高校二年生が昇降口で外靴を持ったまま、体育教師に向かって何を言っているのだろう。そう思った。猪田は笑わなかった。困った顔もしなかった。ただ、朋樹が出した言葉を、自分の中に置き直しているような顔をしていた。
「したいと思うものが、しなくちゃいけないものになると、きついよな」
猪田は言った。
朋樹は返事をしなかった。猪田の言葉は、答えというより、朋樹が言ったことを少しだけ別の角度から照らしただけのものに聞こえた。ここで、だから頑張れと言われたら、たぶん何も言えなくなる。
「部活も似てる。泳ぐのが好きで水泳部に入ったやつも、楽器が好きで吹奏楽部に入ったやつも、絵を描きたくて美術部に入ったやつも、最初はたぶん、したいことがあってそこにいる。でも、いつの間にか、怒られないためにメニューをこなして、選ばれるために結果を出して、みんなについていくために我慢してる。うまくなりたいと思ってたはずなのに、うまくならなきゃいけないに変わる。勝ちたいとか、いい演奏がしたいとか、納得いくものを作りたいとか、そういう気持ちが、失敗しちゃいけない、遅れちゃいけない、迷惑をかけちゃいけないに変わる。そうなると、最初にあったはずの『したい』が見えなくなる。見えなくなると、部活はただの罰みたいになる」
朋樹は、グラウンドにいた涼真を思い出した。先輩に怒られ、唇を結び、それでも次の打球に備えていた姿。昼休みに笑っていた涼真と、怒られて悔しそうにしていた涼真が、同じ人間の中にある。あいつは野球がしたいのだろうか。それとも、野球を続けるために、したいと思う気持ちを毎日どこかで作り直しているのだろうか。
「勉強も、罰みたいになるんでしょうか」
「なる日もあると思う」
「今日が、そうです」
言ってしまってから、朋樹は唇を噛んだ。猪田はうなずいた。大きくではなく、ひとつだけ。
「そっか」
その返事は軽かった。軽かったが、軽く扱われた、には繋がらなかった。
「先生としては、勉強しなくていいとは言えない。講習に来なくていいとも言えない。そこは立場がある」
「はい」
「でも勉強というのは、本当はしたいと思うものだっていうのは、先生も忘れちゃいけないんだと思う。生徒にやらせる側にいると、どうしても、やったか、できたか、点が取れたかを先に見てしまう。そこは反省する」
猪田は、反省する、と簡単に言った。朋樹はその言葉に少し戸惑った。自分は猪田を責めるために言ったわけではない。朝の言葉が嫌だったと言いたかったわけでもない。だが、猪田はそういう方向へ話を逃がさなかった。教師として受け取るところは受け取り、そこから先を朋樹だけの問題にしない。その距離の取り方が、いつもの猪田らしくないようで、やはり猪田らしかった。
「埜瀬」
「はい」
「全部を『したい』に戻すのは難しいと思う。学校にいる以上、時間割もあるし、テストもあるし、受験もある。やりたくない日にもやらなきゃいけないことはある。そこを綺麗ごとでごまかすのは違う」
朋樹は黙っていた。
「でも、全部が『しなくちゃいけない』だけになったら、たぶん壊れる。だから一個でいい。明日講習に来るなら、なにか一個だけ、自分から知りたいと思えるものを探してみろ。古文でも英語でも数学でもいい。この言葉、なんでこう訳すんだろうとか、この式、なんでこう動くんだろうとか、そのくらいでいい。そこに将来を背負わせなくていい。今日の中で、自分が手を伸ばせるところをひとつ残す。それが勉強の全部じゃなくても、入口にはなる」
「入口ですか?」
「うん。勉強って、本当は入口がいっぱいあるものだと思う。学校はそれをひとつの道に並べすぎることがある。教科書の順番、時間割の順番、テストの範囲。そういう順番も必要なんだけど、それだけだと、どこから入っていいかわからなくなるやつもいる」
猪田はそこまで言って、ふと廊下の奥を見た。誰かに呼ばれたわけではない。ただ、ここへ来る前にやっていた用事を思い出したような顔だった。
「先生は、入口を見つけられてるんですか」
朋樹が聞くと、猪田は少しだけ笑った。
「見つけられる日もある。見失う日もある」
「先生でもですか」
「先生でもだ。先生だからといって万能じゃないからな」
猪田はそう言って、傘立てから腰を上げた。話はそこで終わったのだと、朋樹にもわかった。呼び止めたのは自分なのに、いざ終わるとなると、まだなにか言い残しているような気もした。猪田はそれを無理に探させなかった。
「気をつけて帰れよ」
「はい。さようなら」
「おう。またあしたな」
猪田は廊下の奥へ歩いていった。藍色のTシャツの背中が遠ざかる。
朋樹はその背中を見送りながら、教師と生徒が机を挟んで向かい合い、なにか重大な相談をしたわけではないのだと思った。昇降口で、片方が傘立てに腰を下ろし、片方が靴箱の前に立っていただけだった。それでも、人の言葉は、そういう場所からでも残ることがある。背中を叩かれたわけではないのに、あしたの方向へ足を向けてもいいような気がしていた。
勉強は、しなくちゃいけないものではなく、したいと思うものなのだと、朋樹は思っていた。猪田も、それは否定しなかった。
知らないものに出会ったとき、なぜだろうと思うこと。わからないものを前にして、もう少しだけ近づいてみたいと思うこと。美しいものや、面白いものや、不思議なものを見たとき、そのまま通り過ぎず、名前を知りたい、仕組みを知りたい、別の角度から見てみたいと思うこと。そういう気持ちがあるから、人は机に向かうのかもしれない。点を取るためでも、順位を上げるためでも、誰かに褒められるためでもなく、自分が生きているこの世界を、少しでも自分のものとして受け取るために。
それでも、わからないことはなくならないのだろう。いくら覚えても、いくら問題を解いても、世界には知らないことが残り続ける。
教師だって迷う。間違える。自分のしていることに疑問を持つ。それでも知らないことを知らないままにせず、わからないものの前で一度立ち止まることをやめないなら、その人はまだなにかを学んでいるのだと思う。
朋樹は、帰ったらすぐに机に向かえる自信が湧いてきたわけではなかった。ただ、なぜ勉強しなくちゃいけないのか、という問いの横に、もうひとつ別の問いが置かれた気がした。
——自分は、なにを知りたいのだろう。
それは、答えではなかった。むしろ、問いがひとつ増えただけだった。
だが、答えが出ないからと言って、すぐに誰かの正解に合わせなくていいのかもしれないと思った。
明日も講習はある。古文の助動詞も、英単語も、数学の公式も、朋樹が知りたいと思うかどうかとは関係なく、机の上で自分を待っている。
夏期講習に申し込んだのは自分だった。その事実は変わらない。だからこそ、そこに座っているあいだ、朋樹はずっと、自分で選んだものに追い立てられていた。
たぶん、それが苦しかったのだ。
誰かに無理やり押し込まれた場所なら、逃げたいと言えたかもしれない。嫌だと怒ることもできたかもしれない。
今回はそうではなかった。正しいことをしているはずだった。将来のためになるはずだった。出ておいたほうがいいものに、自分から出ているはずだった。なのに、正しい場所にいるほど、自分がなにを知りたいのかが見えなくなっていく。そのことが、朋樹には罠のように思えた。
ガラス戸の向こうにある夏の光を見た。外へ出れば暑い。グラウンドでは、まだ涼真が泥まみれになりながら、白球に食らいついているかもしれない。家に帰れば、いまもやもやと悩んでいたことなど忘れて、ベッドに潜り込んでしまうかもしれない。明日も講習はある。
世界を揺るがすように、なにかが変わったわけじゃない。
自分だけが悩んでいるわけでもないし、猪田のような教師でも、自分とは別の場所で迷いながら立っているのだと知った。そう思うと、さっきまで自分を追い立てていたものに、ただ押されるだけではなくなるような気がした。
なぜ勉強しなくちゃいけないんですか。
そう聞くと、大人たちは大抵、困った顔をして自分を見るだろう。答えづらい質問だと、その疑問を抱いている朋樹だってそう思う。
小学生の頃からずっと、自分たちは当たり前のように学校に通って、なにかを学んでいる。それは『教科』と分類された物事だけではない。人間関係とか、一般常識とか、時間を守ることとか、集団の中で自分の席に座っていることとか、そういう名前のついていないものまで、いつのまにか覚えさせられている。
朝、決まった時間に起きる。校門をくぐる。自分の下駄箱から上履きを出す。廊下を走らない。授業中は前を向く。教師に当てられたら返事をする。わからなくても、わかりませんと言うより先に、まず考えている顔をする。そういうことのひとつひとつを、朋樹は長い時間をかけて身につけてきた。
それを疑ったことは、あまりなかった。学校とはそういう場所で、子供とはそういうふうに毎日を過ごすものなのだと思っていた。算数が数学になり、国語が現代文と古文になり、英語の本文が長くなり、理科や社会がさらに細かく分かれていく。
前の学年で習ったことが次の学年で使われる。中学で覚えた公式を高校で使う。小学校で習った漢字が、文章の中で読める。そういうつながりを見つけることは、嫌いではなかった。
街中を歩いている大人たちは、自分よりも早くその過程を終えている。
「三平方の定理なんか、社会に出たら使わねえよ」と笑う大人がいる。古文の助動詞を覚えても給料は上がらないとか、化学式なんて生活で使わないとか、歴史の年号を知っていたところで何になるのかとか、そういうことを冗談のように言う人もいる。
朋樹は、そういう言葉を聞くたびに、笑っている大人たちは本当にそれで困っていないのだろうかと思う。困っていないのなら、自分たちは今なぜこんなに必死になっているのだろう。困っているのなら、なぜそれを笑い話にできるのだろう。
大人になれば、勉強しなくてよくなるのだと思っていた時期がある。小学生のころは、中学生になればもっと自由になれると思っていた。中学生になると、高校生はもっと自分のことを自分で決められるのだと思った。高校生になってみると、今度は大学や就職が先にあった。そこまで行けばなにかが終わるのかと思えば、きっと終わらない。
資格を取る。仕事を覚える。人付き合いを覚える。失敗しない言葉遣いを覚える。上の人に気に入られる態度を覚える。覚えるものの名前が変わるだけで、知らないことがごまんとありながらも前へ進んでいかなければならない時間は、たぶんずっと続いていく。
学校の勉強は、そのための練習なのだろうか。
数学の問題を解くことも、古文を訳すことも、英単語を覚えることも、いつか別のなにかに耐えるための練習だと言われているような気がする。
いまやっていることが将来役に立つのではなく、今ここで黙って机に向かえる人間になること自体が求められているのだとしたら、それは勉強というより、自分の形を整える作業に近い。正しい時間に座り、正しい姿勢で聞き、正しい方法で答え、間違えたら直し、終わったら次のページへ進む。そういうことを繰り返しているうちに、自分が考えた物事より、止まらずに進んだかどうかだけが見られるようになる。
それでも、勉強がまったく無意味だとは思えなかった。そこが一番厄介だった。知らなかったことを知る瞬間には、たしかに小さな手応えがある。親や教師が言うことも、全部が間違っているわけではない。それなのに、その正しさの中に入っていくほど、自分の足元が狭くなっていくような気がする。
涼真は、先輩に怒られていた。捕っただけで終わるなと言われ、当たり前のプレーに得意げな顔をするなと言われ、返事が遅れただけでふてくされているのかと言われていた。それでも次のメニューに備え、声を出し、汗を拭ってベンチへ戻った。
そういうことは、これまでもずっとあっただろう。なのに涼真は、野球が好きだと言っていた。
好きだから耐えられるのか、耐えているうちに好きだと思うしかなくなるのか、朋樹にはわからない。涼真自身にも、きっとはっきりとはわからないのかもしれない。
誰かに聞いてみたいと思った。
なぜ勉強しなくちゃいけないんですか。
声に出せば、きっと幼い質問に聞こえる。高校二年生にもなってなにを言っているのかと、自分でも思う。小学生が宿題を嫌がって言うなら、まだかわいげがある。中学生が定期テスト前に言うなら、反抗期で済む。高校二年の夏、志望校や模試の話が現実味を帯び始めた時期にその質問を口にすれば、周りの大人は励ますか、諭すか、心配するかのどれかだろう。
それでも朋樹にとっては、初めて自分の中から出てきた問いだった。
教科書に載っている問いでも、問題集の最後にある発展問題でもない。答えが用意されているかどうかさえわからない。だから、口に出すのが怖かった。出した瞬間、自分がこれまで当たり前に歩いてきた道の真ん中で、急にしゃがみ込んでしまうような気がした。
昇降口のガラス戸に映った自分は、夏服の白いシャツに黒いズボンで、リュックを肩にかけているだけの高校生だった。特別に落ち込んでいるようにも、何かを決意しているようにも見えない。周りから見れば、講習を終えて帰ろうとしている生徒のひとりにすぎない。
「埜瀬!」
背後から自分を呼ぶ大きな声がして、朋樹は靴箱から取り出しかけた外靴を戻した。猪田だった。水泳部の顧問をしている彼は、いつものジャージ姿ではなく、藍色のTシャツと、濡れても平気そうなぴったりした黒い短パンを履いている。
「講習終わったんだな!」
猪田は、たまたまここを通ったという感じだった。自分が受け持っている生徒を見かけたから声をかけたのだろう。
「はい、先生、さよう……」
とくに話すことはないから、さっさと切り上げようと思ったときだった。朋樹の頭の中に、ふいにとある考えが浮かんだ。
「先生、少しだけいいですか?」
猪田は目を丸くした。すぐにニッと白い歯を見せて、「どうしたんだ?」と問うてくる。
朋樹は次の声が出せなかった。自分で引き留めておいて、なにをやっているんだと心の中で自責する。
猪田は急かしてこなかった。流石にもうニコニコとはしていなかったが、深刻ぶっているのではなく、朋樹が言葉を出すまで待っているという顔をしていた。
「……先生は自分のやっていることに、疑問を持ったことはありますか?」
言ってから、朋樹は少しだけ後悔した。自分が聞きたかったことは、そういうことだっただろうか。もっと別の言い方があったのではないか。だが、いきなり勉強のことを聞く勇気はなかった。だからまず、猪田のほうへ投げた。自分の問いを、そのままではなく、別の形にして渡した。
猪田は一度まばたきをした。予想していなかった質問なのは、その顔を見ればわかった。けれど、笑わなかった。面白がることも、茶化すこともしなかった。
「あるぞ!」
猪田はただ一言、そう言った。こういうとき、自分を良くみせるために答えをはぐらかしたりする大人を、朋樹はこれまで何人も見てきた。だが猪田ははなからそんなつもりはないのか、包み隠さずに伝えてきた。「埜瀬、むしろ、そんなことないっていうやつなんていないと先生は思うけどな」
猪田は生徒と話をするとき、一人称を『先生』という。『俺』とか『私』ではなく、『先生』。それはもしかすると、猪田自身にも言い聞かせているのかもしれない。自分は教師なのだと。ついこのあいだまで大学生だった彼が、自分を戒めるために、敢えてそう言っているのではないかと感じることがある。
朋樹が黙っていると、猪田はシャツをめくって汗を拭った。なにも入っていない傘立てに腰を下ろす。朋樹と猪田の目線がおなじ高さになった。
「たとえばさ、部活で何本も泳がせるだろ。息を切らして、もう腕が上がらないって顔をしている部員に、もう一本、と言う。必要だから言ってる。最後にフォームが崩れたらタイムは落ちるし、ターンが雑になればそこで離される。でも、そのもう一本が本当にそいつのためになっているのか、それとも俺が練習らしい練習をさせた気になっているだけなのかって、考えることはある」
猪田は、いつもの明るい調子のまま言った。朋樹はその顔を見た。猪田の声は大きい。教室でも体育館でも、彼が声を出せばたいていの生徒がそちらを見る。だから、その声の奥に迷いがあるなど、これまで考えたことがなかった。声の大きい人間は、そのぶん確信も大きいのだと、勝手に思っていたのかもしれない。
「疑問を持っても、やるんですか」
「やる。やめるときもあるけど、やるときはやる。疑問があるから全部やめる、とはいかないからな。迷っているあいだにも授業はあるし、部活もあるし、生徒はそこにいる。立ち止まって考えるのは大事だけど、ずっと立ち止まっていたら、今度は生徒が困るだろ」
「どうやって決めるんですか。疑問があるのに、それでもやることを」
ジャリ、と音がして、猪田のシューズが昇降口の地面を擦った。少しだけ天井に視線を巡らせたあと、朋樹に向き直った。
「大げさな答えはないな。見て決める。今日はもう無理だなと思ったら止めるし、ここで一本いけると思ったらやらせる。もちろん外すこともある。見誤ることもある。だから、あとで反省する。あのとき止めたほうがよかったかなとか、逆に、もう少しやらせたほうがよかったかなとか」
「先生でも、間違えるんですか」
「間違えるぞ。先生だから間違えないってことにされたら、そっちのほうが怖いだろ」
教師は、黒板の前に立つとき、正解を知っている側の人間として振る舞う。そういう人間の中にも、言ったあとで本当にそうだったのかと振り返る時間がある。
そのことを知ったからといって、朋樹自身がすぐに楽になるわけではなかった。ただ、朋樹はようやく次の言葉を出せる気がした。
「勉強も、そうなんでしょうか」
「勉強?」
猪田が聞き返した。責めるような声ではない。
「勉強って、本当は、したいと思うものなんじゃないんですか」
猪田は黙った。今度は少し長かった。朋樹はその沈黙を、怖いとは思わなかった。すぐに返事をされるより、そのほうがまだよかった。
「そうだな」
猪田はゆっくり言った。
「俺も、そう思う」
「でも、学校では、しなくちゃいけないことになっています」
「うん」
「時間割があって、授業があって、テストがあって、受験があって。したいかどうかより先に、やることが決まっています。先生たちは、将来のためだとか、選択肢が増えるとか言います。たぶんそれは間違っていないんだと思います。間違っていないから、余計にわからなくなります」
そこまで言うと、朋樹は一度息を吸った。言葉が予想よりも続いてしまう。自分がこんなふうに猪田へ話すとは思っていなかった。猪田も口を挟まなかった。
「俺、勉強が嫌いなわけじゃないです。わからなかったことがわかるのは、嫌いじゃない。問題が解けるのも、言葉の意味がつながるのも、嫌いじゃないです。でも、それが全部、次のためとか、将来のためとかにされると、今やっていることが自分のものじゃなくなる感じがします。したいからやっているんじゃなくて、遅れないためにやっているみたいで」
言い終えると、急に恥ずかしくなった。高校二年生が昇降口で外靴を持ったまま、体育教師に向かって何を言っているのだろう。そう思った。猪田は笑わなかった。困った顔もしなかった。ただ、朋樹が出した言葉を、自分の中に置き直しているような顔をしていた。
「したいと思うものが、しなくちゃいけないものになると、きついよな」
猪田は言った。
朋樹は返事をしなかった。猪田の言葉は、答えというより、朋樹が言ったことを少しだけ別の角度から照らしただけのものに聞こえた。ここで、だから頑張れと言われたら、たぶん何も言えなくなる。
「部活も似てる。泳ぐのが好きで水泳部に入ったやつも、楽器が好きで吹奏楽部に入ったやつも、絵を描きたくて美術部に入ったやつも、最初はたぶん、したいことがあってそこにいる。でも、いつの間にか、怒られないためにメニューをこなして、選ばれるために結果を出して、みんなについていくために我慢してる。うまくなりたいと思ってたはずなのに、うまくならなきゃいけないに変わる。勝ちたいとか、いい演奏がしたいとか、納得いくものを作りたいとか、そういう気持ちが、失敗しちゃいけない、遅れちゃいけない、迷惑をかけちゃいけないに変わる。そうなると、最初にあったはずの『したい』が見えなくなる。見えなくなると、部活はただの罰みたいになる」
朋樹は、グラウンドにいた涼真を思い出した。先輩に怒られ、唇を結び、それでも次の打球に備えていた姿。昼休みに笑っていた涼真と、怒られて悔しそうにしていた涼真が、同じ人間の中にある。あいつは野球がしたいのだろうか。それとも、野球を続けるために、したいと思う気持ちを毎日どこかで作り直しているのだろうか。
「勉強も、罰みたいになるんでしょうか」
「なる日もあると思う」
「今日が、そうです」
言ってしまってから、朋樹は唇を噛んだ。猪田はうなずいた。大きくではなく、ひとつだけ。
「そっか」
その返事は軽かった。軽かったが、軽く扱われた、には繋がらなかった。
「先生としては、勉強しなくていいとは言えない。講習に来なくていいとも言えない。そこは立場がある」
「はい」
「でも勉強というのは、本当はしたいと思うものだっていうのは、先生も忘れちゃいけないんだと思う。生徒にやらせる側にいると、どうしても、やったか、できたか、点が取れたかを先に見てしまう。そこは反省する」
猪田は、反省する、と簡単に言った。朋樹はその言葉に少し戸惑った。自分は猪田を責めるために言ったわけではない。朝の言葉が嫌だったと言いたかったわけでもない。だが、猪田はそういう方向へ話を逃がさなかった。教師として受け取るところは受け取り、そこから先を朋樹だけの問題にしない。その距離の取り方が、いつもの猪田らしくないようで、やはり猪田らしかった。
「埜瀬」
「はい」
「全部を『したい』に戻すのは難しいと思う。学校にいる以上、時間割もあるし、テストもあるし、受験もある。やりたくない日にもやらなきゃいけないことはある。そこを綺麗ごとでごまかすのは違う」
朋樹は黙っていた。
「でも、全部が『しなくちゃいけない』だけになったら、たぶん壊れる。だから一個でいい。明日講習に来るなら、なにか一個だけ、自分から知りたいと思えるものを探してみろ。古文でも英語でも数学でもいい。この言葉、なんでこう訳すんだろうとか、この式、なんでこう動くんだろうとか、そのくらいでいい。そこに将来を背負わせなくていい。今日の中で、自分が手を伸ばせるところをひとつ残す。それが勉強の全部じゃなくても、入口にはなる」
「入口ですか?」
「うん。勉強って、本当は入口がいっぱいあるものだと思う。学校はそれをひとつの道に並べすぎることがある。教科書の順番、時間割の順番、テストの範囲。そういう順番も必要なんだけど、それだけだと、どこから入っていいかわからなくなるやつもいる」
猪田はそこまで言って、ふと廊下の奥を見た。誰かに呼ばれたわけではない。ただ、ここへ来る前にやっていた用事を思い出したような顔だった。
「先生は、入口を見つけられてるんですか」
朋樹が聞くと、猪田は少しだけ笑った。
「見つけられる日もある。見失う日もある」
「先生でもですか」
「先生でもだ。先生だからといって万能じゃないからな」
猪田はそう言って、傘立てから腰を上げた。話はそこで終わったのだと、朋樹にもわかった。呼び止めたのは自分なのに、いざ終わるとなると、まだなにか言い残しているような気もした。猪田はそれを無理に探させなかった。
「気をつけて帰れよ」
「はい。さようなら」
「おう。またあしたな」
猪田は廊下の奥へ歩いていった。藍色のTシャツの背中が遠ざかる。
朋樹はその背中を見送りながら、教師と生徒が机を挟んで向かい合い、なにか重大な相談をしたわけではないのだと思った。昇降口で、片方が傘立てに腰を下ろし、片方が靴箱の前に立っていただけだった。それでも、人の言葉は、そういう場所からでも残ることがある。背中を叩かれたわけではないのに、あしたの方向へ足を向けてもいいような気がしていた。
勉強は、しなくちゃいけないものではなく、したいと思うものなのだと、朋樹は思っていた。猪田も、それは否定しなかった。
知らないものに出会ったとき、なぜだろうと思うこと。わからないものを前にして、もう少しだけ近づいてみたいと思うこと。美しいものや、面白いものや、不思議なものを見たとき、そのまま通り過ぎず、名前を知りたい、仕組みを知りたい、別の角度から見てみたいと思うこと。そういう気持ちがあるから、人は机に向かうのかもしれない。点を取るためでも、順位を上げるためでも、誰かに褒められるためでもなく、自分が生きているこの世界を、少しでも自分のものとして受け取るために。
それでも、わからないことはなくならないのだろう。いくら覚えても、いくら問題を解いても、世界には知らないことが残り続ける。
教師だって迷う。間違える。自分のしていることに疑問を持つ。それでも知らないことを知らないままにせず、わからないものの前で一度立ち止まることをやめないなら、その人はまだなにかを学んでいるのだと思う。
朋樹は、帰ったらすぐに机に向かえる自信が湧いてきたわけではなかった。ただ、なぜ勉強しなくちゃいけないのか、という問いの横に、もうひとつ別の問いが置かれた気がした。
——自分は、なにを知りたいのだろう。
それは、答えではなかった。むしろ、問いがひとつ増えただけだった。
だが、答えが出ないからと言って、すぐに誰かの正解に合わせなくていいのかもしれないと思った。
明日も講習はある。古文の助動詞も、英単語も、数学の公式も、朋樹が知りたいと思うかどうかとは関係なく、机の上で自分を待っている。
夏期講習に申し込んだのは自分だった。その事実は変わらない。だからこそ、そこに座っているあいだ、朋樹はずっと、自分で選んだものに追い立てられていた。
たぶん、それが苦しかったのだ。
誰かに無理やり押し込まれた場所なら、逃げたいと言えたかもしれない。嫌だと怒ることもできたかもしれない。
今回はそうではなかった。正しいことをしているはずだった。将来のためになるはずだった。出ておいたほうがいいものに、自分から出ているはずだった。なのに、正しい場所にいるほど、自分がなにを知りたいのかが見えなくなっていく。そのことが、朋樹には罠のように思えた。
ガラス戸の向こうにある夏の光を見た。外へ出れば暑い。グラウンドでは、まだ涼真が泥まみれになりながら、白球に食らいついているかもしれない。家に帰れば、いまもやもやと悩んでいたことなど忘れて、ベッドに潜り込んでしまうかもしれない。明日も講習はある。
世界を揺るがすように、なにかが変わったわけじゃない。
自分だけが悩んでいるわけでもないし、猪田のような教師でも、自分とは別の場所で迷いながら立っているのだと知った。そう思うと、さっきまで自分を追い立てていたものに、ただ押されるだけではなくなるような気がした。



