テセウスの教室

 3

 講習が終わると、教室の中にあった緊張は、号令もなしにばらばらとほどけていった。プリントを鞄へ押し込む音、椅子を引く音、誰かが明日の講習の内容を確認する声が重なり、午前から同じ机に座っていた生徒たちは、それぞれの帰り支度へ移っていく。
 廊下へ出ると、講習帰りの生徒たちが昇降口へ向かって流れていた。朋樹はその後ろにつき、グラウンドに出た。
 夏の大会真っ最中の野球部の午後練は、まだ続いているらしい。帰るつもりでいた足が、校門とは逆のほうへ向いた。
 外は溶けるような暑さだった。冷房の効いた教室にいた体には、グラウンドから上がってくる土の熱が、足元からまとわりついてくるように感じられた。
 フェンスの向こうでは、野球部員たちがそれぞれのポジションに散っている。白いユニフォームはどれも同じように見えたが、ショートの位置にいる涼真はすぐにわかった。
 構えに入るたび、腰を低く落とし、グラブを地面すれすれに構える。その姿は教室で弁当をかき込んでいた涼真とは別人のようで、朋樹はフェンスの近くで立ち止まった。
 ノッカーの打ったゴロが三遊間へ飛んだ。涼真は一歩目を切り、横っ飛びまではいかないまでも、身体を伸ばして捕球した。そこまではうまかったように見えた。だが、立ち上がって二塁へ送った球が、少し高く浮いた。二塁に入っていた先輩がジャンプして捕り、足がベースから離れる。すぐに、その先輩の声が飛んだ。
 「照井、いまの雑だろ!」
 涼真はグラブを腰に当て、すぐに頭を下げた。
 「すみません!」
 「捕っただけで終わってんじゃねえよ。送球まででワンセットだろ。ショートがそこで浮かせてどうすんだ!」
 「はい!」
 「はい、じゃねえよ。わかってんなら最初からやれ」
 別の三年生が、三塁側からそう言った。声は怒鳴っているというより、容赦なく事実を突きつけるようだった。涼真はもう一度、すみません、と言った。朋樹にするように、笑ってごまかすことはしなかった。涼真はただ、土の上にスパイクを立て、次の打球に備える姿勢へ戻った。
 次のゴロは正面だった。涼真は軽くさばき、一塁へ投げる。今度はきれいな送球だった。だが、さっきの先輩はそれでも黙らなかった。
 「いまのは当たり前。取り返した顔すんな」
 朋樹がいる場所からは距離があるので表情までははっきり見えないが、涼真の口元が一瞬、きつく結ばれたのはわかった。悔しそうだ、と朋樹は思った。怒られたからではない。自分でわかっていることを、他人の声で言われているからだ。
 ノックは続いた。打球は右へ左へ転がり、内野手たちはそのたびに声を出した。涼真の声も混じっている。さっき怒られたばかりとは思えないほど大きな声だった。朋樹はフェンスに指をかけたまま、その声を聞いていた。昼休みの教室で聞いた声とおなじなのに、まるで違う場所から出ているように聞こえる。涼真は、ふざけているときも、飯を食べているときも、怒られているときも、おなじ涼真なのだろうか。あるいは、場所ごとに違う顔をして、それでも全部を自分だと言い張っているだけなのだろうか。
 もう一度、三遊間へ強い打球が飛んだ。涼真は今度も反応した。グラブの先に当て、いったん弾いたが、すぐに前へ出て拾い直す。一塁へ投げるには遅かった。ノッカーが、そこまで、と声をかけるより先に、三塁側の先輩が言った。
 「最初の入りが浅い。待つなって言ってんだろ」
 涼真は返事をしなかった。いや、返事をしようとしたのかもしれない。声が出る前に、唇が動いただけだった。先輩の眉が動く。
 「照井」
 「はい!」
 「ふてくされてんのか」
 「違います!」
 「じゃあ声出せ」
 「はい!」
 胸の奥から無理やり引きずり出したような声だった。朋樹はその声を聞いて、弁当を食べながら笑っていた涼真の顔を思い出した。あの言葉は雑だった。だが、雑に言えるほど簡単に済ませているわけではなかったのだと、いまさらわかった気がした。
 ノックがひと区切りつくと、部員たちは水分を摂りにベンチのほうへ散った。涼真はひとりだけ、ショートの位置に残っていた。グラブを外し、帽子を取って、額の汗を腕で乱暴に拭う。先輩たちのほうは見ない。フェンスの外にいる朋樹にも、まだ気づいていないようだった。涼真は土を蹴るように一度だけ足を動かし、それからすぐ、なにもなかったような顔を作ってベンチへ歩き出した。
 その途中で、涼真の視線がこちらを向いた。
 目が合った。朋樹は反射的にフェンスから手を離した。見てはいけないものを見たような気がしたからだ。涼真は一瞬だけ驚いた顔をしたあと、すぐにいつものように片眉を上げた。なにしてんだよ、と口の形だけで言ったように見えた。朋樹は返す言葉を持たず、軽く頭を下げるような、中途半端な動きをした。
 涼真は笑わなかった。代わりに、グラブを持った手で小さく追い払うような仕草をした。帰れ、という意味なのか、見るな、という意味なのか、朋樹にはわからなかった。涼真はすぐに仲間のほうへ走っていき、水筒を取ると、また大きな声で何かを言った。周りの部員が笑った。さっき悔しそうに口を結んでいた顔は、もうそこにはなかった。
 朋樹はグラウンドの端に立ったまま、しばらく動けなかった。涼真は涼真で、ちゃんと苦しい場所にいた。自分だけが座らされているわけではない。あちら側で白いユニフォームを汚している同級生たちも、自分で選んだ場所に立ちながら、そこから簡単には降りられずにいる。そう思ったからといって、朋樹の問いが軽くなるわけではなかった。