テセウスの教室


 2


 廊下のほうから、足音が聞こえた。規則正しいというより、迷いがない足音だった。周囲の空気を少し押しのけてくるような歩き方をする教師を、朋樹はひとりしか知らない。顔を上げなくても、担任の猪田悠真だとわかった。体育教師の猪田は、夏期講習を担当しているわけではない。それでも毎朝一度は教室をのぞきに来て、出欠を確認し、具合の悪そうな生徒がいないか見て、最後に必ず似たようなことを言う。
 今日やったことは無駄にならない。秋に差が出る。ここで踏ん張れるやつが最後に伸びる。そういう言葉を、猪田はほんとうに信じている顔で言う。
 猪田の言うとおり、ほんとうに差が出たとする。そうなれば、置いていかれたほうはどうなるのか、大抵、誰も教えてくれない。
 教室の前の扉が勢いよく開いて、猪田が教室に入ってきた。夏休みの朝にも関わらず、普段の学校がある日とおなじくらい元気そうだ。半袖のポロシャツの袖から出た腕は日に焼けている。
 底抜けに明るい性格のせいで、教室の空気を読む前に空気のほうを変えてしまうところがあり、実際、その日も猪田が「おーい、おまえら、生きてるか。顔だけ見ると八割くらい死んでるみたいだぞ!」と言うと、単語帳に目を落としていた生徒たちの何人かが顔を上げ、誰かが「息はしてまーす」と小さく返して、教室の端で笑いが起きた。
 朋樹は顔を上げなかった。猪田の明るさが嫌いなわけではない。彼は人を追い詰めようとしているのではなく、本当にその場を少しでもましにしようとして声を出す人だった。
 疲れた顔をしている生徒がいれば笑わせようとするし、沈んだ空気があれば自分から大きく動いて、ばかみたいな冗談も言う。体育教師という肩書きから想像される単純な根性論だけではなく、きちんと生徒の名前を覚え、部活動をしていない生徒の小さな変化にも気づく。
 「夏期講習、三日目な。ここでだれてくるやつが出る。人間ってのは不思議なもんで、初日より三日目のほうが負けやすい。だから今日は、昨日までよりちょっとだけちゃんとやれ。百点じゃなくていい。昨日より一個だけ多く覚える。一問だけ多く解く。毎日の積み重ねは、そういうのでいいんだからな!」
 猪田は教卓の横に立ち、片手で黒板の端を軽く叩きながらそう言った。担当の教師が来るまでの短い時間を埋める、いつもの朝の声かけだった。
 猪田にとっては、生徒を励ますための言葉なのだろう。昨日より一個だけ多く覚える。一問だけ多く解く。百点でなくていい。完璧でなくていい。そう言われれば、少し気が楽になる生徒もいるはずだ。
 朋樹にも、その理屈はわかる。わかるのに、その言葉はやはり、止まるな、と聞こえた。昨日より今日。今日より明日。少しでも先へ。少しでも上へ。百点でなくていいと言われても、結局は一個多く、一問多く、実績を積み増していくことを求められている。その積み重ねの先にあるものを見てしまったから、朋樹は手が止まっているのに。
 猪田は教室を見回しながら、今朝の連絡を始めた。昼休みに進路資料室が開くこと、午後の自習室は図書室ではなく視聴覚室になること。
 並べられる内容はすべて、朋樹たちを次の予定へ押し出すものだった。予定があることは、普通ならありがたいのだと思う。なにをすればいいかわからないより、次にやるべきことが決まっているほうが楽だ。
 模試を受ける。判定が出る。志望校を変えるか、変えないかを考える。夏が終わる。秋になる。冬になる。いよいよ受験生になる。そうやって自分は、まだ輪郭すらも見えていない大人の生活へ、少しずつ引っ張られていく。
 「あと、体調悪いやつは無理するなよ。根性は大事だけど、倒れてから出す根性はだいたい手遅れだ。これは猪田先生からのありがたい教えな」
 また少し笑いが起きた。猪田は自分で言って自分で笑い、黒板の上の時計を見た。彼は「じゃ、今日もやってこい」と言い、最後に「おまえら、暑さに負けるなよ」と付け足して、扉のほうへ向かっていった。

 昼休みになると、教室の空気は急にほどけた。午前中、古文の補習でおなじ黒板を見ていた生徒たちは、弁当を広げる者、友達とトイレに向かう者、机に伏せる者に分かれていった。
 朋樹はプリントをしまうタイミングを逃し、傍線部の下に空いたままの解答欄を見ていた。訳せるはずの一文だった。主語も取れる。助動詞の意味もわかる。答えを書こうと思えば書けた。その確信があるぶん、空欄は余計に目立った。書けなかったのではなく、書かなかったのだと、自分でわかってしまう。
 「埜瀬! おれ参上!」
 開け放したままの扉から、友人の照井涼真が顔を出した。声の大きさだけなら猪田に負けていない。
 野球部の練習もひと区切りついたのか、涼真は袖なしの黒いアンダーシャツと、下はいつもの練習着に身を包み、五厘刈りの頭には水で雑に撫でつけた跡が残っていた。
 涼真は野球部ではショートを守っている。授業中に教師から注意される回数は多いのに、試合になるとフィールド全体をよく見て動くのだと、以前、猪田が半ば感心したように言っていた。本人はその評価を知っているのか知らないのか、教室では相変わらず落ち着きがなく、誰かの席に勝手に腰を下ろすことにも迷いがない。
 「もうヘトヘト! 吐きそうだ!」
 涼真はそう言いながら、朋樹の前の席を引いた。さっきまでそこには他クラスの名も知らない女子が座っていたが、昼休みになると友人のところへ行ったので、涼真は当然のようにそこへ座った。朋樹はプリントをファイルにしまって、弁当箱を鞄から出した。
 「吐きそうなのに、昼飯は食えるんだな」
 「え? だってもう治ったし。飯食わねえとやってらんねえよ」
 涼真はそう言って、手に持っていた筒型の弁当箱と、コンビニの袋を机の上に置いた。家から持ってきた弁当の他に、パンやチキンなども食べるらしい。
 涼真は机の上に置かれた朋樹のシャープペンシルを指で転がした。それを乱暴に扱われ、朋樹は反射的に手を伸ばした。涼真はすばやく指を離し、なにもしてませんという顔で両手を上げる。
 「相変わらず、それだけは守備範囲広いな。おれより反応いいじゃん」
 「触るなよ」
 「はいはい。高級品には触りません」
 涼真の調子はいつも通りだった。勝手に来て、勝手に座り、勝手に喋って、こちらの返事を待たずに次の話へ進む。その軽さに救われる日もあった。今日も、いつもと同じようにくだらない話だけをしていれば、昼休みくらいは無事に終わるのかもしれなかった。朋樹は弁当箱の蓋を開けた。卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー、肉巻き、白飯。母の詰め方はいつも整っている。涼真はそれを見て、うまそう、と言った。
 「唐揚げひとつくれよお」
 「嫌だ」
 朋樹は、自分の何倍も食料を確保しているくせに、まだ欲しがるのかと、涼真の際限ない食欲に呆れた。
 「即答かよ。友情ってそういうもん?」
 「友情は唐揚げを奪う口実じゃない」
 「名言っぽく言うなって」
 涼真はそう言って、朋樹の返事を待たずに背もたれへ体重を預けた。椅子の前脚が床から浮き、近くの生徒が危ないぞ、と言う。涼真は悪い悪いと軽く手を振り、椅子を戻した。
 「午前、古文だったんだろ。眠かった?」
 「眠くはなかった。……でも」
 「でも?」
 「問題文を、頭の中で現代文には訳せるのに、プリントにはなにも書けなかった」
 「それ、おれからしたら高等技術だな。訳せないから書けない、なら毎回ある」
 涼真は冗談めかして言った。朋樹は卵焼きを口に入れた。出汁の味がする。いつもの味だった。続いて白飯を頬張る。朋樹は、卵焼きと白飯が触れ合って味が染みこんだ部分を食べるのが好きだった。
 「涼真はさ、朝からずっと練習してただろ」
 「してた。ノックで死んだ。先輩も監督も、夏になると人格変わるからな」
 「ショートって、やっぱり大変なの」
 「大変だぜ! カッコいいけど大変。肩が強くないといけねえし、とんでもない方向から打球来るし、声出せって言われるし、セカンドにもサードにも気を遣うし、ミスったらだいたい目立つ。でも楽しい。おれにぴったりだろ?」
 「目立つのが?」
 「カッコいいのが」
 涼真はにやっと笑った。朋樹も口元を動かした。涼真の冗談は軽いのに、こちらの重さにぶつかっても折れないところがある。
 汗をかき、練習着に泥をつけ、ときに監督や先輩に叱られ、試合に勝つために毎日グラウンドへ行く。そのことを涼真は面倒くさがりながらも、自分の一部として扱っているように見える。
 「俺、自分で講習に申し込んだんだよな」
 「知ってる。朋樹が勝手に真面目になって、おれが置いていかれた」
 「……でも、結局みんなに置いていかれたのは俺のほうかもしれない」
 涼真は黙った。普段の彼なら、そういう面倒な言い方やめろよ、と流してもおかしくないのに、そうしなかった。
 「講習やめてえの?」
 「やめたいのとは違う」
 「じゃあ、サボりたい?」
 「それも違う」
 「おまえめんどくせえな」
 涼真は頭をかき、窓の外を見た。グラウンドの隅のほうで運動部の部員たちがいくつかのグループになって、弁当をかき込んでいるのがみえた。
 「おれさ、朝練嫌な日あるよ」
 ふいに涼真が言った。
 「好きで野球やってるはずなのに、朝起きた瞬間、今日雨降れって思う日もある。グラウンドぐちゃぐちゃになれって。練習中止になれって。試合近いのに、そんなことを思ったりする。言ったらみんなに怒られるから言わねえけど」
 「涼真でも?」
 「おれをなんだと思ってんだよ。おれにだって心はある。……だから、朋樹が勉強したくねえって思う日があっても、まあ普通じゃねえの。自分で申し込んだとか、将来のためとか、そういうのはいったん置いといてさ。朋樹って、そういうの全部ちゃんと見すぎなんだよ。終わったことに毎回名前つけてたら、なんもかんも嫌になっちまうぞ」
 「涼真は雑だな」
 朋樹は、その雑さが、羨ましくなるときがある。深刻なものを深刻なまま持ち上げず、かといって見なかったことにもせず、いったんそこらへんに置いて、とりあえずいまは目の前のことに集中する。そういうことが涼真にはできる。
 涼真の言葉は乱暴で、たいていの場合、深く考える前に投げられる。だから救われることもあれば、腹が立つこともある。今日のそれは、どちらでもなかった。
 涼真は弁当の飯を大きく崩し、ほとんど噛まずに飲み込んだ。見ているだけで喉が詰まりそうな食べ方だったが、本人は平然としている。
 「でもさ、おれも、たまに思うよ。朝っぱらからなんでこんなしんどい思いしてんだろって」
 涼真は箸を動かしながら言った。
 「野球は好きだ。飛んできた打球を上手く処理できた瞬間とか、うまくゲッツー取れたときとか、ヒット打ったときとか、そういうのはめちゃくちゃ気持ちいい。でも、毎日全部が好きかって言われたら、そりゃ違うだろ。嫌いなメニューもあるし、朝起きた瞬間に、今日だけ地球滅びねえかなって思う日もある」
 「それは大げさだろ」
 「じゃあ雨が降ればいいのに、でいいか」
 「急に規模が小さくなったな」
 「地球が滅んじまったら、おれたちも死んじゃうからな」
 涼真はそう言って、朋樹の唐揚げを見た。朋樹が弁当箱を少し引くと、涼真は残念そうに口を曲げる。
 「でも、行くんだな」
 「行く。行かなかったら、なにもしなかった自分が一日中ついてくるような気がするからさ」
 朋樹はその言葉になにも言い返せなかった。涼真はそんな朋樹には気付かずに、コロッケパンの袋を開けてかぶりついていた。
 ——なにもしなかった自分がついてくる。
 朋樹にも覚えがあった。講習に申し込まなかった自分。答えを書けるはずなのに書かなかった自分。そういう自分が、あとからずっとついてくるのが嫌で、先に先にと手を動かしてきたのかもしれない。 
 朋樹は弁当箱の端に残っていたブロッコリーを箸でつまみ、しばらくそれを見てから、勢いよく口に入れた。