3
三人でいられなくなったことは、猪田が思っていた以上に尾を引いた。なに食わぬ顔で部活に行っても、練習中、ふと頭の中に佐久間や瀬野のことがよぎる。
そういうときに限って、シャトルを必要以上に強く打った。相手コートの奥へ落とせばいいだけなのに、力任せにラケットを振り抜いてアウトにする。顧問から力みすぎだと注意されれば、次こそはと余計に力が入った。もともと猪田は、うまくいかないことほど全力でどうにかしようとするところがある。足りないならもっと走る。届かないならもっと腕を伸ばす。それでも駄目なら、出来るまで繰り返せばいい。部活動では、それで解決することも多かった。
友達との関係も、同じように考えていたのかもしれない。
話さなくなったのなら、話をさせればいい。謝ったのなら、許せばいい。仲違いしたのなら、仲直りすればいい。それで元に戻れないなら、まだ何かが足りないのだと思っていたし、足りないものを見つけて拾えば、なんとか出来ると楽観的に考えていた。
教室はそこにいる生徒の仲違いが起こったからといって、日常が止まることはなかった。朝になれば担任が出席を取り、授業が始まり、休み時間になれば移動教室で忙しなく生徒たちが動く。
人は、自分に直接関わらないことをいつまでも気にかけてはいない。最初は興味を示しても、別の出来事が起これば、関心はそちらへ移っていく。
そんな中で、佐久間と瀬野が以前のように話さなくなったことも、最初こそ何人かが気にしていたが、ひと月も経つ頃には、それを話題にする者はいなくなった。
人間関係とは違って、スポーツは分かりやすかった。だから猪田は、自分でもよく分からないまま空いた心の隙間を埋めるように、バドミントンに打ち込んだ。
シャトルが落ちれば一点を失う。相手のコートへ落とせば一点になる。届かなかったなら、次は半歩早く動けばいい。振り遅れたなら、ラケットを構える位置を変える。自分が何を失敗したのかは、その場ではっきりと結果になって返ってくる。
放課後、猪田は以前より早く体育館へ行くようになった。
授業が終わるとすぐに教室を出て、部室で着替えを済ませ、まだ部員全員が揃っていない日には、自分から同級生を捕まえて基礎打ちを始めた。
ふたりでコートに入り、クリアから始める。高く返ってきたシャトルの落下点へ入り、猪田は相手コートの奥を狙って打ち返した。一本目は少し浅かった。次は打点を前に取り、さらに奥へ飛ばす。相手が同じように返してくれば、またその下へ入る。何本か続けているうちに、昨日までなら身体の後ろで触っていた球に、今日は余裕を持って入れることに気づいた。
「いまの、よかったな」
「だろ!」
猪田は笑顔になった。褒められたことより、自分でも上手く打てたと分かったことが嬉しかった。もう一本、とシャトルを相手へ渡し、今度は同じ形からドロップを混ぜる。相手が前へ出て拾えば、次は奥へ返す。最初はただ続けるだけだった基礎打ちが、いつの間にか相手をどう動かすか考えながらの打ち合いになっていた。
最近の猪田は、授業中にも放課後の練習について考えることが増えていた。昨日取れなかった球を今日は拾いたい。先輩とのゲームで何度も狙われた場所を、次は簡単に抜かれたくない。スマッシュをもっと沈めたいし、フットワークも速くしたい。出来ないことを見つけるたびに、次にやることが増えていく。
そうやって考えたり、ラケットを振っていたりするあいだは、佐久間が誰と昼飯を食べていたかも、瀬野が誰と帰ったかもいちいち気を遣わずに済んだ。最初のうちは、そういう煩雑なことを考えたくないから練習に打ち込んでいたのかもしれないが、やがてそれだけではなくなっていた。
返せなかった球が返せるようになる。狙ったところへシャトルが落ちる。何度も失敗していた動きが、ある日突然うまく噛み合う。練習しただけ、自分の中に出来ることが増えていく。その感覚そのものが、猪田はだんだん好きになっていた。
他人の気持ちは、いくら自分が頑張ったからといって思いどおりにはならなかったが、自分の身体なら、まだいくらでも変えられる気がした。
走れば、昨日より長く走れるようになる。筋力トレーニングを続ければ、同じ姿勢を保っていても以前ほど苦しくなくなる。フットワークを何度も繰り返しているうちに、頭で次の足運びを考えるより先に身体が動くようになった。練習を始めた頃にはラケットの先に触れるだけだった球を、余裕を持って打ち返せる日も増えていった。すぐに結果が出ないこともある。それでも、一週間前、一か月前と比べれば、自分がやってきたことが無駄ではなかったことくらいは分かる。
トレーニングを積めば、身体は応えてくれる。猪田は、そのことを以前より強く信じるようになった。
身体は、自分が本当はどうしたかったのかなどと聞いてこない。言葉の裏を読んだり、こちらの善意を別の意味に受け取ったりもしない。出来なかったことが出来るようになれば、それは出来るようになったのだ。以前より速く動ければ速くなったのだし、力がつけば、それは数字にもプレーにも現れる。結果が悪ければ自分の何かが足りない。ならば、足りないものを埋めればいい。それでも駄目なら、また別のやり方を試せばいい。少なくとも、自分自身についてなら、最後まで責任を持てる。そう思うと、楽だった。
友達との関係というものは、終わるときに必ず何かが起こるわけではないらしい。喧嘩をすることも、絶交すると宣言することもなく、昨日まで知っていた相手のことを今日はひとつ知らなくなり、自分のこともひとつ話さなくなる。そういうことが積み重なって、あとから振り返ったときに初めて、前とは違うところまで来ていたことに気づく。
猪田自身は、二人と疎遠になろうとしていたわけではなかったが、あの出来事を境に、三人の人生が少しずつ別の方向へ曲がり始めた。人は、以前の関係へ戻ることだけが前へ進むことではない。元に戻らないまま、それぞれ違う方向へ進んでいくこともある。猪田は、他人のことを自分の努力では変えられないと知った。だから、自分のことだけは自分で変えようとしたのだ。
佐久間も、瀬野も、猪田も、誰も完全には正しくない。そして誰も完全には間違っていない。だから三人は元に戻らない。それでも、それぞれの生活が続いていくことだけは事実だった。
一月の団体戦で、猪田はシングルスのコートに立った。
試合開始前の情報や基礎打ちの様子から、相手の特徴はある程度見えていた。猪田より背が高く、腕も長い。クリアは深く、無理に決めに来るより、相手を奥へ押し込んでから前へ落とし、崩れた返球を待つタイプらしい。スマッシュにも速さはあったが、それ以上に厄介なのは、どの球も大きく乱れないことだった。猪田が高く上げれば高く返し、短く落とせば慌てずに拾う。最初の段階から、一本二本の強打だけでは崩せそうにないことが分かった。
序盤は互いに点を取り合った。相手は猪田のバック奥を繰り返し狙ってきた。二本続けて同じ場所へ送られた時点で、そこを試されていることに気づいた。秋頃までの猪田なら、確実に弱点だった。後ろへ入るのが遅く、追いついてからラケットを準備するため返球の選択肢がなくなり、ただ高く上げるだけになる。練習では何度もそこを指摘され、バック奥へ下がってから中央へ戻る動作を何度も繰り返した。脚が重くなってからも、打つ前に身体を入れること、ラケットを早く上げること、打ったあとその場に残らないことを徹底した。
またバック奥へ飛んできたシャトルに、猪田は相手より先に反応した。身体を入れ替えて落下点へ入り、まずはストレートへ深く返す。相手はさらに同じ場所へ、今度は少し速い球を送ってきた。猪田は一歩目を大きく取り、後退しながらすでにラケットを頭上へ構えていた。打つ直前までストレートへ返す形を見せると、相手もそちらへ身体を寄せる。そこで猪田は最後の瞬間にラケット面を変え、クロスへ打ち分けた。逆を突かれた相手の足が止まり、大きく空いていたフォア側へシャトルが落ちた。
「よし!」
思わず声が出た。狙われた場所で、今度は自分が点を取った。以前出来なかったことが、試合の中で出来た。その一点は、単に得点がひとつ増えた以上に猪田を勢いづけた。
そこから動きがさらに良くなった。相手が奥へ振れば早く下がり、前へ落とせば大きく踏み込み、打ったあとは必ず中央へ戻る。左右へ振られたときも、届いたことだけで満足せず、次の球へ備えて足を動かした。呼吸は徐々に荒くなり、額から汗も流れ始めた。それでも脚は止まらなかった。
途中、十本を越えるラリーになった。フォア奥へ送られたクリアを猪田がストレートへ返すと、相手はネット前へ落とし、それを拾った直後にまた頭上を抜いてくる。猪田は後ろへ下がって追いつき、高く返したあとすぐ中央へ戻った。続けてクロスへ振られても、逆側へ走り込みながら無理に攻めず、十分な高さをつけて奥へ戻す。以前なら苦しくなるほど早く決めたくなり、体勢が整わないままスマッシュを打ってネットへ掛けていた。
やがて焦れたのは相手のほうだった。バック側から無理に打ち込んだスマッシュが、サイドラインを越えて外へ落ちる。猪田は深く息を吐いた。自分が決めたわけではない。それでも、自分が崩れなかったから相手のほうが先に無理をした。その事実が嬉しかった。
第一ゲームは猪田が取った。
短い休憩でベンチへ戻り、水を飲んだ。ユニフォームは背中へ張りつき、前腕にも汗が伝っていた。脚には疲れがあったが、動けなくなるような重さではない。むしろ第一ゲームを通して、相手の球へどの程度早く入ればいいのか、身体が覚え始めている感覚があった。
第二ゲームに入ると、相手は攻め方を変えた。長いラリーを避けるように、浅く返った球へ積極的に飛び込み、猪田の身体へ向けて速いスマッシュを打ってくる。一発目は胸元へ来た。猪田は反射的にラケットを出して返したものの、球が短くなり、相手はすぐ前へ入ってもう一度強く打ち込んできた。今度は身体を半歩ずらしながらラケット面を合わせ、クロスへ逃がす。相手が追って高く返したところで、猪田はすぐには打ち込まず、一度奥へ高く返して相手を下げ、自分も中央へ戻って体勢を整えた。
速い球を打たれたからといって、速い球を返す必要はない。苦しいときほど、まず自分が打ちやすい形へ戻す。それも練習で何度も言われたことだった。猪田は相手を奥へ押し戻したあと、次の球をネット前へ落として前へ引き出し、そこから再び奥へ送る。急いで後退した相手の返球が中央へ高く浮いたところで、初めて強く踏み込み、身体から遠いバック側へスマッシュを打ち込んだ。
——決まった。
第二ゲームでは、猪田のほうが完全に主導権を握り始めていた。相手が何を狙っているのかも、少しずつ見えるようになった。ラケットを大きく引いたときには奥へ飛ばすか強打が来る。打点が低ければ前へ落とされる可能性が高い。相手の身体が中央へ戻り切っていなければ、逆側へ打てば一歩目が遅れる。猪田はただシャトルを追うのではなく、相手を前へ動かし、奥へ送って、左右へ振りながら、次に甘い球が返ってくる場所を自分で作るようになっていた。
楽しかった。
呼吸は苦しく、太腿にも疲労が溜まっている。それでも、猪田はもっと続けたいと思った。自分が練習してきたものを、試合の中でまだ試したかった。以前は相手の球に食らいつくだけで精一杯だったのに、今は自分からラリーを作り、その中で相手が崩れていくのを待つ余裕がある。出来ることが増えたぶんだけ、選べるものも増えていた。
点差はさらに開き、マッチポイントを迎えた。
相手のショートサーブを、猪田はネット際へ短く返した。相手も同じように返し、互いに浮かせまいとしてネットの上ぎりぎりを通す応酬が続く。先に相手がロブを上げ、シャトルが猪田のフォア奥へ高く飛んだ。猪田は十分な位置まで下がり、腕を大きく引く。相手は中央で腰を落とし、スマッシュを待っていた。
猪田は打つ直前に力を抜いた。
強打と同じフォームから放たれたシャトルが、ネット際へ柔らかく落ちる。相手はすぐ前へ走り、床すれすれで拾ったが、返球はわずかに高く浮いた。それを読んでいた猪田はすでに前へ出ていた。強く叩けば決まりそうな高さだったが、相手もそれを読んで前へ身体を寄せている。猪田はラケット面を上へ向け、その頭上を越すように奥へ押し返した。
相手が慌てて振り返り、後退しながらどうにか追いついた。背後へ流れかけたシャトルを高く返したものの、十分な深さはなく、中央付近へ浅く上がる。
猪田はすでに中央へ戻っていた。
頭上へ落ちてくるシャトルに合わせて右足を踏み込み、腰から肩へと身体を回し、その勢いを腕へつなげる。ラケットの芯で捉えた感触が掌に伝わった。乾いた音とともにシャトルは一直線に相手コートへ落ち、伸ばされたラケットの先を抜けて床を叩いた。
審判の声が響いた。
第二ゲームも、猪田の勝利だった。
「っしゃあああああ!」
猪田は両腕を高く突き上げ、その場で一度跳ねた。ここまで点差をつけて勝てるとは、自分でも思っていなかった。第一ゲームより第二ゲームのほうが明らかに動けていた。相手に攻め方を変えられても対応し、苦しくなっても崩れず、最後の一点まで自分でラリーを組み立てて取った。
勝ったことが嬉しかった。それ以上に、自分が本当に強くなっていたことが嬉しかった。
試合終了の礼を済ませ、ネットを挟んで相手と握手を交わすあいだも、猪田は笑いを抑えきれなかった。相手の手を握りながら何度も頭を下げ、主審にも礼をしてコートを出る。決められた手順をすべて終えたところで、ようやく我慢する必要がなくなった。
「よっしゃあああ!」
もう一度、さっきより大きな声が出た。
自校のベンチから部員たちが一斉に立ち上がっていた。猪田がそちらへ駆けていくと、最初に伸びてきた手へ思い切り掌をぶつけ、その隣、そのまた隣と、待ち構えていた全員と次々にハイタッチを交わした。すぐに肩を掴まれ、別の部員からは背中を叩かれ、猪田も負けじと相手の肩を抱いて何度も揺さぶった。主将が第一ゲームのバック側へのクロスを褒め、後輩は最後のラリーについて興奮した声で話している。猪田はどちらにも返事をしようとして、結局まともな言葉にならないまま、「だろ!」「俺もあれ決まると思わなかった!」と笑い続けた。
タオルを首に掛け、ボトルをベンチへ戻したところで、猪田はようやく周囲を見る余裕を取り戻した。体育館では別のコートの試合が続いており、シャトルを打つ音も、得点を喜ぶ声も絶えない。次に試合へ入る選手たちがコート脇で身体を動かし、二階の観客席には保護者や観客が何列にも並んでいた。
猪田はなんとなくそこへ目を向けた。観客席の中ほどに、見慣れた顔があった。最初はよく似た別人だと思った。
学校で見る制服姿ではない。紺色のパーカーの上に明るい色の上着を着て、膝の上には小さな鞄を置いている。周囲には知らない大人や他校の生徒が座っている。その中にいること自体が予想外だったせいで、顔を知っているのに、それが誰なのかを理解するまで少し時間がかかった。
佐久間だった。彼はさっきまで自分が立っていたコートのほうを見ている。猪田はボトルを戻そうとしていた手を止めた。
佐久間に大会のことを話した覚えはあった。最近は猪田のほうがバドミントンの話ばかりしていたから、日程についてもどこかで口にしたのだろう。それでも、観に来てほしいと頼んだ覚えはない。来るとも聞いていなかった。だのに佐久間は休日の朝からわざわざ会場まで来て、観客席に座って、自分の試合を見ていた。
猪田は思わず声を上げて笑いそうになった。嬉しかった。勝ったところを見てもらえたことも、来ると言わずに来ていたことも、単純に嬉しかった。さっきまで部員たちとはしゃいでいた勢いのままなら、観客席へ向かって大きく手を振っていたかもしれない。
そのとき、佐久間から少し離れた場所に、もうひとつ見覚えのある横顔があった。
猪田の視線がそこに縫い付けられる。瀬野だった。
佐久間の隣ではない。同じ列ですらなく、数席ぶん横へずれた上の段に座っていた。あいだには見知らぬ観客が何人もいる。二人が一緒に来たのか、偶然同じ試合を見に来たのか、会場に来てから互いの存在に気づいたのか、あるいはまったく気付いていないのか、それさえ猪田には分からなかった。
猪田は、観客席の二人を交互に見た。佐久間も瀬野も、離れた席に座ったまま、それぞれ同じコートを見ている。
それでよかった。
以前なら、きっと続きを考えた。二人とも自分の試合を観に来たのだから、本当は互いのこともまだ気にしているのではないか。試合が終わったあと三人で帰れば、何かが変わるのではないか。今日をきっかけに、以前のように戻れるのではないか。
いまもおなじように考えかけたところで、自らその思いを打ち消した。
「悠真!」
部員のひとりが、猪田を呼んだ。先程まで自分が戦っていたコートに、次は後輩が立っている。ベンチへ戻る途中でもう一度観客席を見そうになったが、そのままコートへ目を移した。後輩がシャトルを受け取り、サービス位置につくところだった。猪田はタオルを首に掛けたままベンチの前まで行き、声援を送るために両手を叩いた。
三人でいられなくなったことは、猪田が思っていた以上に尾を引いた。なに食わぬ顔で部活に行っても、練習中、ふと頭の中に佐久間や瀬野のことがよぎる。
そういうときに限って、シャトルを必要以上に強く打った。相手コートの奥へ落とせばいいだけなのに、力任せにラケットを振り抜いてアウトにする。顧問から力みすぎだと注意されれば、次こそはと余計に力が入った。もともと猪田は、うまくいかないことほど全力でどうにかしようとするところがある。足りないならもっと走る。届かないならもっと腕を伸ばす。それでも駄目なら、出来るまで繰り返せばいい。部活動では、それで解決することも多かった。
友達との関係も、同じように考えていたのかもしれない。
話さなくなったのなら、話をさせればいい。謝ったのなら、許せばいい。仲違いしたのなら、仲直りすればいい。それで元に戻れないなら、まだ何かが足りないのだと思っていたし、足りないものを見つけて拾えば、なんとか出来ると楽観的に考えていた。
教室はそこにいる生徒の仲違いが起こったからといって、日常が止まることはなかった。朝になれば担任が出席を取り、授業が始まり、休み時間になれば移動教室で忙しなく生徒たちが動く。
人は、自分に直接関わらないことをいつまでも気にかけてはいない。最初は興味を示しても、別の出来事が起これば、関心はそちらへ移っていく。
そんな中で、佐久間と瀬野が以前のように話さなくなったことも、最初こそ何人かが気にしていたが、ひと月も経つ頃には、それを話題にする者はいなくなった。
人間関係とは違って、スポーツは分かりやすかった。だから猪田は、自分でもよく分からないまま空いた心の隙間を埋めるように、バドミントンに打ち込んだ。
シャトルが落ちれば一点を失う。相手のコートへ落とせば一点になる。届かなかったなら、次は半歩早く動けばいい。振り遅れたなら、ラケットを構える位置を変える。自分が何を失敗したのかは、その場ではっきりと結果になって返ってくる。
放課後、猪田は以前より早く体育館へ行くようになった。
授業が終わるとすぐに教室を出て、部室で着替えを済ませ、まだ部員全員が揃っていない日には、自分から同級生を捕まえて基礎打ちを始めた。
ふたりでコートに入り、クリアから始める。高く返ってきたシャトルの落下点へ入り、猪田は相手コートの奥を狙って打ち返した。一本目は少し浅かった。次は打点を前に取り、さらに奥へ飛ばす。相手が同じように返してくれば、またその下へ入る。何本か続けているうちに、昨日までなら身体の後ろで触っていた球に、今日は余裕を持って入れることに気づいた。
「いまの、よかったな」
「だろ!」
猪田は笑顔になった。褒められたことより、自分でも上手く打てたと分かったことが嬉しかった。もう一本、とシャトルを相手へ渡し、今度は同じ形からドロップを混ぜる。相手が前へ出て拾えば、次は奥へ返す。最初はただ続けるだけだった基礎打ちが、いつの間にか相手をどう動かすか考えながらの打ち合いになっていた。
最近の猪田は、授業中にも放課後の練習について考えることが増えていた。昨日取れなかった球を今日は拾いたい。先輩とのゲームで何度も狙われた場所を、次は簡単に抜かれたくない。スマッシュをもっと沈めたいし、フットワークも速くしたい。出来ないことを見つけるたびに、次にやることが増えていく。
そうやって考えたり、ラケットを振っていたりするあいだは、佐久間が誰と昼飯を食べていたかも、瀬野が誰と帰ったかもいちいち気を遣わずに済んだ。最初のうちは、そういう煩雑なことを考えたくないから練習に打ち込んでいたのかもしれないが、やがてそれだけではなくなっていた。
返せなかった球が返せるようになる。狙ったところへシャトルが落ちる。何度も失敗していた動きが、ある日突然うまく噛み合う。練習しただけ、自分の中に出来ることが増えていく。その感覚そのものが、猪田はだんだん好きになっていた。
他人の気持ちは、いくら自分が頑張ったからといって思いどおりにはならなかったが、自分の身体なら、まだいくらでも変えられる気がした。
走れば、昨日より長く走れるようになる。筋力トレーニングを続ければ、同じ姿勢を保っていても以前ほど苦しくなくなる。フットワークを何度も繰り返しているうちに、頭で次の足運びを考えるより先に身体が動くようになった。練習を始めた頃にはラケットの先に触れるだけだった球を、余裕を持って打ち返せる日も増えていった。すぐに結果が出ないこともある。それでも、一週間前、一か月前と比べれば、自分がやってきたことが無駄ではなかったことくらいは分かる。
トレーニングを積めば、身体は応えてくれる。猪田は、そのことを以前より強く信じるようになった。
身体は、自分が本当はどうしたかったのかなどと聞いてこない。言葉の裏を読んだり、こちらの善意を別の意味に受け取ったりもしない。出来なかったことが出来るようになれば、それは出来るようになったのだ。以前より速く動ければ速くなったのだし、力がつけば、それは数字にもプレーにも現れる。結果が悪ければ自分の何かが足りない。ならば、足りないものを埋めればいい。それでも駄目なら、また別のやり方を試せばいい。少なくとも、自分自身についてなら、最後まで責任を持てる。そう思うと、楽だった。
友達との関係というものは、終わるときに必ず何かが起こるわけではないらしい。喧嘩をすることも、絶交すると宣言することもなく、昨日まで知っていた相手のことを今日はひとつ知らなくなり、自分のこともひとつ話さなくなる。そういうことが積み重なって、あとから振り返ったときに初めて、前とは違うところまで来ていたことに気づく。
猪田自身は、二人と疎遠になろうとしていたわけではなかったが、あの出来事を境に、三人の人生が少しずつ別の方向へ曲がり始めた。人は、以前の関係へ戻ることだけが前へ進むことではない。元に戻らないまま、それぞれ違う方向へ進んでいくこともある。猪田は、他人のことを自分の努力では変えられないと知った。だから、自分のことだけは自分で変えようとしたのだ。
佐久間も、瀬野も、猪田も、誰も完全には正しくない。そして誰も完全には間違っていない。だから三人は元に戻らない。それでも、それぞれの生活が続いていくことだけは事実だった。
一月の団体戦で、猪田はシングルスのコートに立った。
試合開始前の情報や基礎打ちの様子から、相手の特徴はある程度見えていた。猪田より背が高く、腕も長い。クリアは深く、無理に決めに来るより、相手を奥へ押し込んでから前へ落とし、崩れた返球を待つタイプらしい。スマッシュにも速さはあったが、それ以上に厄介なのは、どの球も大きく乱れないことだった。猪田が高く上げれば高く返し、短く落とせば慌てずに拾う。最初の段階から、一本二本の強打だけでは崩せそうにないことが分かった。
序盤は互いに点を取り合った。相手は猪田のバック奥を繰り返し狙ってきた。二本続けて同じ場所へ送られた時点で、そこを試されていることに気づいた。秋頃までの猪田なら、確実に弱点だった。後ろへ入るのが遅く、追いついてからラケットを準備するため返球の選択肢がなくなり、ただ高く上げるだけになる。練習では何度もそこを指摘され、バック奥へ下がってから中央へ戻る動作を何度も繰り返した。脚が重くなってからも、打つ前に身体を入れること、ラケットを早く上げること、打ったあとその場に残らないことを徹底した。
またバック奥へ飛んできたシャトルに、猪田は相手より先に反応した。身体を入れ替えて落下点へ入り、まずはストレートへ深く返す。相手はさらに同じ場所へ、今度は少し速い球を送ってきた。猪田は一歩目を大きく取り、後退しながらすでにラケットを頭上へ構えていた。打つ直前までストレートへ返す形を見せると、相手もそちらへ身体を寄せる。そこで猪田は最後の瞬間にラケット面を変え、クロスへ打ち分けた。逆を突かれた相手の足が止まり、大きく空いていたフォア側へシャトルが落ちた。
「よし!」
思わず声が出た。狙われた場所で、今度は自分が点を取った。以前出来なかったことが、試合の中で出来た。その一点は、単に得点がひとつ増えた以上に猪田を勢いづけた。
そこから動きがさらに良くなった。相手が奥へ振れば早く下がり、前へ落とせば大きく踏み込み、打ったあとは必ず中央へ戻る。左右へ振られたときも、届いたことだけで満足せず、次の球へ備えて足を動かした。呼吸は徐々に荒くなり、額から汗も流れ始めた。それでも脚は止まらなかった。
途中、十本を越えるラリーになった。フォア奥へ送られたクリアを猪田がストレートへ返すと、相手はネット前へ落とし、それを拾った直後にまた頭上を抜いてくる。猪田は後ろへ下がって追いつき、高く返したあとすぐ中央へ戻った。続けてクロスへ振られても、逆側へ走り込みながら無理に攻めず、十分な高さをつけて奥へ戻す。以前なら苦しくなるほど早く決めたくなり、体勢が整わないままスマッシュを打ってネットへ掛けていた。
やがて焦れたのは相手のほうだった。バック側から無理に打ち込んだスマッシュが、サイドラインを越えて外へ落ちる。猪田は深く息を吐いた。自分が決めたわけではない。それでも、自分が崩れなかったから相手のほうが先に無理をした。その事実が嬉しかった。
第一ゲームは猪田が取った。
短い休憩でベンチへ戻り、水を飲んだ。ユニフォームは背中へ張りつき、前腕にも汗が伝っていた。脚には疲れがあったが、動けなくなるような重さではない。むしろ第一ゲームを通して、相手の球へどの程度早く入ればいいのか、身体が覚え始めている感覚があった。
第二ゲームに入ると、相手は攻め方を変えた。長いラリーを避けるように、浅く返った球へ積極的に飛び込み、猪田の身体へ向けて速いスマッシュを打ってくる。一発目は胸元へ来た。猪田は反射的にラケットを出して返したものの、球が短くなり、相手はすぐ前へ入ってもう一度強く打ち込んできた。今度は身体を半歩ずらしながらラケット面を合わせ、クロスへ逃がす。相手が追って高く返したところで、猪田はすぐには打ち込まず、一度奥へ高く返して相手を下げ、自分も中央へ戻って体勢を整えた。
速い球を打たれたからといって、速い球を返す必要はない。苦しいときほど、まず自分が打ちやすい形へ戻す。それも練習で何度も言われたことだった。猪田は相手を奥へ押し戻したあと、次の球をネット前へ落として前へ引き出し、そこから再び奥へ送る。急いで後退した相手の返球が中央へ高く浮いたところで、初めて強く踏み込み、身体から遠いバック側へスマッシュを打ち込んだ。
——決まった。
第二ゲームでは、猪田のほうが完全に主導権を握り始めていた。相手が何を狙っているのかも、少しずつ見えるようになった。ラケットを大きく引いたときには奥へ飛ばすか強打が来る。打点が低ければ前へ落とされる可能性が高い。相手の身体が中央へ戻り切っていなければ、逆側へ打てば一歩目が遅れる。猪田はただシャトルを追うのではなく、相手を前へ動かし、奥へ送って、左右へ振りながら、次に甘い球が返ってくる場所を自分で作るようになっていた。
楽しかった。
呼吸は苦しく、太腿にも疲労が溜まっている。それでも、猪田はもっと続けたいと思った。自分が練習してきたものを、試合の中でまだ試したかった。以前は相手の球に食らいつくだけで精一杯だったのに、今は自分からラリーを作り、その中で相手が崩れていくのを待つ余裕がある。出来ることが増えたぶんだけ、選べるものも増えていた。
点差はさらに開き、マッチポイントを迎えた。
相手のショートサーブを、猪田はネット際へ短く返した。相手も同じように返し、互いに浮かせまいとしてネットの上ぎりぎりを通す応酬が続く。先に相手がロブを上げ、シャトルが猪田のフォア奥へ高く飛んだ。猪田は十分な位置まで下がり、腕を大きく引く。相手は中央で腰を落とし、スマッシュを待っていた。
猪田は打つ直前に力を抜いた。
強打と同じフォームから放たれたシャトルが、ネット際へ柔らかく落ちる。相手はすぐ前へ走り、床すれすれで拾ったが、返球はわずかに高く浮いた。それを読んでいた猪田はすでに前へ出ていた。強く叩けば決まりそうな高さだったが、相手もそれを読んで前へ身体を寄せている。猪田はラケット面を上へ向け、その頭上を越すように奥へ押し返した。
相手が慌てて振り返り、後退しながらどうにか追いついた。背後へ流れかけたシャトルを高く返したものの、十分な深さはなく、中央付近へ浅く上がる。
猪田はすでに中央へ戻っていた。
頭上へ落ちてくるシャトルに合わせて右足を踏み込み、腰から肩へと身体を回し、その勢いを腕へつなげる。ラケットの芯で捉えた感触が掌に伝わった。乾いた音とともにシャトルは一直線に相手コートへ落ち、伸ばされたラケットの先を抜けて床を叩いた。
審判の声が響いた。
第二ゲームも、猪田の勝利だった。
「っしゃあああああ!」
猪田は両腕を高く突き上げ、その場で一度跳ねた。ここまで点差をつけて勝てるとは、自分でも思っていなかった。第一ゲームより第二ゲームのほうが明らかに動けていた。相手に攻め方を変えられても対応し、苦しくなっても崩れず、最後の一点まで自分でラリーを組み立てて取った。
勝ったことが嬉しかった。それ以上に、自分が本当に強くなっていたことが嬉しかった。
試合終了の礼を済ませ、ネットを挟んで相手と握手を交わすあいだも、猪田は笑いを抑えきれなかった。相手の手を握りながら何度も頭を下げ、主審にも礼をしてコートを出る。決められた手順をすべて終えたところで、ようやく我慢する必要がなくなった。
「よっしゃあああ!」
もう一度、さっきより大きな声が出た。
自校のベンチから部員たちが一斉に立ち上がっていた。猪田がそちらへ駆けていくと、最初に伸びてきた手へ思い切り掌をぶつけ、その隣、そのまた隣と、待ち構えていた全員と次々にハイタッチを交わした。すぐに肩を掴まれ、別の部員からは背中を叩かれ、猪田も負けじと相手の肩を抱いて何度も揺さぶった。主将が第一ゲームのバック側へのクロスを褒め、後輩は最後のラリーについて興奮した声で話している。猪田はどちらにも返事をしようとして、結局まともな言葉にならないまま、「だろ!」「俺もあれ決まると思わなかった!」と笑い続けた。
タオルを首に掛け、ボトルをベンチへ戻したところで、猪田はようやく周囲を見る余裕を取り戻した。体育館では別のコートの試合が続いており、シャトルを打つ音も、得点を喜ぶ声も絶えない。次に試合へ入る選手たちがコート脇で身体を動かし、二階の観客席には保護者や観客が何列にも並んでいた。
猪田はなんとなくそこへ目を向けた。観客席の中ほどに、見慣れた顔があった。最初はよく似た別人だと思った。
学校で見る制服姿ではない。紺色のパーカーの上に明るい色の上着を着て、膝の上には小さな鞄を置いている。周囲には知らない大人や他校の生徒が座っている。その中にいること自体が予想外だったせいで、顔を知っているのに、それが誰なのかを理解するまで少し時間がかかった。
佐久間だった。彼はさっきまで自分が立っていたコートのほうを見ている。猪田はボトルを戻そうとしていた手を止めた。
佐久間に大会のことを話した覚えはあった。最近は猪田のほうがバドミントンの話ばかりしていたから、日程についてもどこかで口にしたのだろう。それでも、観に来てほしいと頼んだ覚えはない。来るとも聞いていなかった。だのに佐久間は休日の朝からわざわざ会場まで来て、観客席に座って、自分の試合を見ていた。
猪田は思わず声を上げて笑いそうになった。嬉しかった。勝ったところを見てもらえたことも、来ると言わずに来ていたことも、単純に嬉しかった。さっきまで部員たちとはしゃいでいた勢いのままなら、観客席へ向かって大きく手を振っていたかもしれない。
そのとき、佐久間から少し離れた場所に、もうひとつ見覚えのある横顔があった。
猪田の視線がそこに縫い付けられる。瀬野だった。
佐久間の隣ではない。同じ列ですらなく、数席ぶん横へずれた上の段に座っていた。あいだには見知らぬ観客が何人もいる。二人が一緒に来たのか、偶然同じ試合を見に来たのか、会場に来てから互いの存在に気づいたのか、あるいはまったく気付いていないのか、それさえ猪田には分からなかった。
猪田は、観客席の二人を交互に見た。佐久間も瀬野も、離れた席に座ったまま、それぞれ同じコートを見ている。
それでよかった。
以前なら、きっと続きを考えた。二人とも自分の試合を観に来たのだから、本当は互いのこともまだ気にしているのではないか。試合が終わったあと三人で帰れば、何かが変わるのではないか。今日をきっかけに、以前のように戻れるのではないか。
いまもおなじように考えかけたところで、自らその思いを打ち消した。
「悠真!」
部員のひとりが、猪田を呼んだ。先程まで自分が戦っていたコートに、次は後輩が立っている。ベンチへ戻る途中でもう一度観客席を見そうになったが、そのままコートへ目を移した。後輩がシャトルを受け取り、サービス位置につくところだった。猪田はタオルを首に掛けたままベンチの前まで行き、声援を送るために両手を叩いた。


