テセウスの教室

2

「猪田、おまえ……」
 猪田悠真は、教室の後ろに寄せていた自分の鞄のそばに立っていた。帰りのホームルームが済めばすぐバドミントン部へ向かうのが普段の習慣だが、今日は二人を残して自分だけ練習へ行くわけにはいかなかった。ここまで話を運んだのは猪田だったし、佐久間がきちんと謝るところまで見届ければ、あとはどうにかなると思っていた。
「瀬野が、オレと話したいって言ったんじゃなかったのか?」
「おれはそんなこと言ってないぞ」
 瀬野はすぐに否定した。怒っているというより、話がどこで食い違ったのか確かめようとしている顔だった。
「猪田から、佐久間がもう一回ちゃんと謝りたいって言ってるから、話を聞いてやってくれって言われたんだよ」
「いや、たしかにオレは謝るって言ったけどさ」
 佐久間は猪田と瀬野の顔を交互に見た。
「でも猪田、おまえ、瀬野もオレと話したがってるみたいなこと言ってたじゃん」
「だって、二人とも話す気はあっただろ!」
 猪田は責められるより先に声を上げた。佐久間がもう一度謝ろうとしていたのは事実だし、瀬野だって卒業まで口を利かないつもりはないと言っていた。それを少しばかり近づけたところで、なにがそんなに問題なのか分からなかった。
「佐久間はちゃんと謝りたいって言ってた。瀬野も、もう一生口利かないとか、そういうつもりじゃないって言ってただろ? だったら話せばいいじゃん。二人とも自分から言い出さないから、俺があいだに入っただけだよ」
「だけって、おまえな」
 瀬野は呆れたように言った。
「おれ、佐久間と話したいなんて一回も言ってないぞ」
「でも、話したくないとも言ってないだろ!」
「なんでだよ! ここまで来たんだから、ちゃんと話せばいいじゃん。佐久間は今、言い訳しないで謝っただろ。瀬野だってちゃんと話を聞いてたじゃん。それでいいだろ!」
 猪田には、本当に分からなかった。むしろ二人のほうが、わざと話を難しくしているように思えた。
「なにが『それでいい』んだよ」
「仲直りすればいいってことだよ!」
 猪田は、ためらいなく言った。佐久間が横から「猪田」と呼んだが、猪田はそちらを見もしなかった。
「だっておかしいだろ。中学からずっと一緒だったんだぞ! それが一回こんなことがあっただけで、もう前みたいには付き合いませんって、そんな簡単に終わらせていいのかよ!」
「おれが簡単に決めたと思ってんのか?」
「だったら余計に話せよ!」
 猪田は勢いのまま言葉を重ねた。
「佐久間が悪かったのは分かってるよ。オレだって、瀬野が嫌がってたことを勝手に喋ったのは駄目だと思う。でも、こいつはおまえを馬鹿にしたくて言ったんじゃないだろ。逆じゃん。変な噂流されて、おまえが犯罪者の息子みたいに言われて、それが腹立ったから言っちゃったんだろ? やったことは間違ってても、そこまで全部悪いわけじゃないじゃん!」
「猪田、もういいって」
 今度は佐久間がはっきり言った。
「オレは謝った。瀬野がそれでも許したくないって言うなら、しょうがねえよ」
「なんでおまえが諦めるんだよ!」
 猪田は今度は佐久間へ向き直った。
「本当にそれでいいのか? 明日からまた別々に昼飯食って、教室に三人いるのに二人ずつしか話さなくて、それを卒業まで続けるのかよ。来年だって同じクラスになるかもしれないんだぞ。それで平気なのか?」
「平気とかじゃなくてさ……」
「じゃあ、ちゃんと最後まで話せよ!」
 佐久間が困ったように口を閉じた。
 その様子を見て、猪田はむしろ確信を強くした。ほら、佐久間だって本当は終わらせたくないのだ。瀬野だって、佐久間を嫌いになったわけではないと言っていた。それなのに二人とも、変なところで意地を張っている。ならば誰かが背中を押してやらなければ、いつまで経ってもこのままだ。猪田にとって、それは理屈というより、当たり前のことだった。
「瀬野だってさ、本当はこんなの嫌だろ!」
「勝手に決めんなよ」
「だって楽しくないだろ!」
「楽しいかどうかの話はしていない」
 瀬野は猪田をしばらく見た。その顔には怒りだけではなく、どう言えばこいつに伝わるのか考えているような疲れが浮かんでいた。
「おれ、前に言ったよな。佐久間のことを嫌いになったわけじゃないって」
「言った!」
「そのあとも言っただろ。だからって、前みたいに付き合いたいわけじゃないって」
「でも、それは今そう思ってるだけかもしれないじゃん!」
 猪田がそう言った瞬間、瀬野の表情が変わった。
「ほら、それだよ。おまえは、おれが自分で言ってることより、おまえが想像したおれの本音のほうを信じてるじゃん」
「そんな言い方すんなよ!」
「そうだろ。おれが『戻りたくない』って言っても、おまえは『本当は戻りたいかもしれない』って勝手に考える。佐久間にも、おれが話したがってるって言った。おれには、佐久間がどうしても謝りたがってるみたいに言った。二人が言ったことじゃ足りなかったから、おまえが勝手に足したんだろ」
「勝手じゃない! 二人がちゃんと話せるようにしただけだよ!」
「おれたちはそんなこと頼んでないだろ」
「頼まれなきゃ何もするなっていうのかよ!」
 猪田はほとんど食ってかかるように言った。
「友達だろ! 目の前で二人がずっとこんな状態なのに、知らん顔してろっていうのか? 俺には無理だよ。佐久間が間違ったなら謝らせたいし、瀬野が傷ついたならちゃんと話してほしい。二人とも大事な友達だから、元に戻れるなら絶対戻ってほしいんだよ!」
「絶対って、誰が決めたんだよ」
「そんなの決めるとかじゃなくて、普通そうだろ!」
「その普通は誰の普通なんだよ」
 瀬野に冷たく言われて、猪田は一瞬言葉に詰まった。だが、彼はそこで引き下がる性格ではなかった。
「誰のって、そんなの関係ないだろ! 友達が喧嘩して、仲直り出来る可能性があるのにしないほうがおかしいじゃん。一回間違ったらそれで終わりなのか? 何年一緒にいても、一回失敗したらそれまでのことは全部なしになるのかよ。そんなの寂しすぎるだろ!」
「じゃあその『寂しい』ってのは、誰の気持ちを言ってるんだ?」
「俺たち三人ともだよ!」
「おれは、そうは言ってない」
「だから、今は感情的になってそう思ってるだけだって! 絶対後悔するぞ! 後で気付いても、もう取り返しがつかないかもしれないだろ」
 言い切ったあとで、猪田自身は何もおかしいと思わなかった。瀬野が腹を立てているのは知っている。それでも感情というものは変わる。いま許せなくても、いつかは許せるかもしれない。そのときになって、もっと早く話しておけばよかったと後悔するくらいなら、いま話しておいたほうがいい。猪田は本気でそう考えていた。

「佐久間がおれの父親のことを喋ったときと、同じなんだよ」
 佐久間はしばらくのあいだ、猪田の顔を見つめていたが、やがてそう言った。
「いや、それは違うだろ!」
猪田はすぐに首を振った。思ってもいなかったところで佐久間と同列に扱われたことが、納得できなかった。猪田は一歩前へ出ると、今度こそ言わせろとでもいうように瀬野へ向き直った。
「佐久間は、おまえが黙っててほしいって思ってたことを他のやつに喋ったんだろ。でも俺は、そんなことしてないじゃん。誰かにおまえの秘密を言ったわけでもないし、嫌がることを面白がってやったわけでもない。二人がずっと口利かなくなって、このままじゃ駄目だと思ったから話すきっかけを作っただけだよ。それまで一緒にいた友達が目の前でこんなことになってんのに、何もしないで見てろっていうのかよ」
「おれは騒ぎにしたくないって言った。それでも佐久間は、おれが犯罪者の息子って言われ続けるより、本当のことを教えたほうがおれのためになるって思った。だから、親父が入院してるって喋ったんだろ」
 佐久間は何も言わなかった。もう否定するつもりはないらしく、口を閉じて瀬野の話を聞いている。
「佐久間が悪意でやったんじゃないのは知ってるよ。むしろ、おれのためだと思ってやったんだろ。でも、おれはそんなことをしてほしくなかった」
 瀬野はそこで言葉を切った。
「猪田、おまえも同じだよ。おれが何を望んでるかより、自分が正しいと思ったことを優先してる」
「俺は二人に仲直りしてほしいだけなんだよ! これまでずっと三人でやってきたのに、こんなことで終わるなんて嫌なんだ。明日からも教室で顔合わせるんだぞ。昼飯だって、帰るときだって、いちいちどっちかが避けて、それをずっと続けるのかよ。そんなのおかしいだろ!」
 ひと思いに言い終わったあと、瀬野は何も返してこなかった。猪田には、その沈黙さえ腹立たしかった。ここまで言っても伝わらないことが理解できない。佐久間は謝った。瀬野もその謝罪を受け取った。それなら、あとは元に戻ればいい。猪田の中では、それほど単純な話だった。
「おい、なんとか言えよ」
 猪田が促すと、瀬野はようやく口を開いた。
「今、自分で言ったじゃん。関係が終わるのが嫌だって」
「だから、それは——」
「お前はおれを助けたいんじゃない。自分がまた、何事もなかったかのようにおれたち三人でいたいだけだろ」
 猪田はすぐに言い返そうとした。違う。そんなわけがない。佐久間のためでもあるし、瀬野のためでもある。二人が後悔しないように、自分が間に入ったのだ。そう言えば済むはずだった。だが、口から出かかった言葉は続かなかった。

 三人で昼飯を食べられなくなってから、猪田が考えていたのは、佐久間と瀬野がどれだけ辛いかということばかりではなかった。今日は佐久間と一緒にいたから明日は瀬野のところへ行こうとか、片方の愚痴を聞いたあとにもう片方と笑っていていいのかとか、そんなことを毎日のように考えなければならなくなった。以前なら、誰のところへ行くかなど決める必要さえなかった。
 それが面倒だったのだ。元の状態に戻れば、また何も考えなくて済む。
「……それだけじゃねえよ。二人のことだって考えてる。俺が楽したいからとか、そんなんじゃ……」
「分かってるよ。……おまえが本気でそう思ってるのは分かってる。だから余計に困るんだよ」
 猪田は、ようやく自分の考えを認めてもらえたと思って顔を上げた。しかしそうではないことに、すぐに気が付くこととなった。
「悪意があるなら、やめろって言えば終わる。でも、おまえは正しいことしてるつもりだから、何回やめろって言っても聞かないだろ」
 数週間前、瀬野は佐久間にも同じことを言っていた。自分のためだと言われれば、嫌だった側が怒ってはいけないようになる、と。
 猪田はその場にいて、その言葉を聞いていた。それなのに、自分が同じ側へ立っているとは一度も考えなかった。
「……ごめん。二人に嘘ついたことも。勝手にここに集めたことも。悪かった」
 謝罪は思ったよりも小さな声になった。らしくないと心の中で自責するが、心臓が脈打つ音が大きく聞こえるだけだった。
「でも、また元の関係に戻りたいと思ってるのは本当だから」
「それは別にいいよ。おまえがそう思うのは自由だろ。おれがそれに従わなくちゃいけないわけじゃないってだけで」
 瀬野にそう言われて、猪田は返事を探した。今までなら、納得できないことがあればすぐに言葉が出た。考えが食い違うなら、とことん話せばどちらかが折れるところまで辿り着けるとも思っていた。だが今は、瀬野を納得させるために何かを言えば、それ自体がまた自分の考えを押しつけることになるように思えた。
「……分かった」
 ようやく出た返事に、猪田自身がいちばん納得していなかった。瀬野もそれを察したらしいが、もう追及しなかった。代わりに、少し離れたところで黙っていた佐久間へ向き直った。
「佐久間、さっきの謝ったやつ。あれはもういいから。勝手に喋ったことは悪かったって、今度はちゃんと分かって言ってたんだろ。だったら、それについてはもう責めない」
 佐久間はすぐには喜ばなかった。瀬野が何を言おうとしているのか、今度こそ最後まで聞こうとしているようだった。
「ただ、おれはまだ前みたいに戻る気はない。おまえと二度と話したくないわけでもないし、ずっと怒っていたいわけでもない。でも、それとまた三人で前みたいにするのは別だから」
「……そっか」
「悪い」
「なんでおまえが謝るんだよ」
 佐久間は苦笑した。いつものように人をからかうときの笑い方ではなく、自分でもどういう顔をすればいいのか分からないまま、ひとまず口元を動かしたような笑いだった。
「まあ、しょうがねえよ。オレがやったことだし」
 数週間前なら、そのあとに何かひとこと付け足していただろう。悪気はなかったとか、瀬野を助けたかっただけだとか、あんな噂を流したやつらのほうがよほど悪いとか、言えることはいくらでもあった。だが、佐久間は何も付け足さなかった。
 瀬野はそれを確認するようにしばらく佐久間を見てから、肩に鞄を掛け直した。
「じゃあ、帰るわ」
「おう」
 教室の出口へ向かった瀬野が扉に手を掛けたところで、猪田は堪えきれず声を上げた。
「瀬野!」
 呼び止めたものの、その先を何も考えていなかった。瀬野が振り返る。
「……あ、あしたも、普通に学校来るよな?」
「来るに決まってるだろ」
 もっと言いたいことはあった。もう一度謝りたかったし、明日になれば瀬野の気が変わるかもしれないと思っている自分もまだいた。来週になれば三人でつるめるのではないか、一か月経てば全部笑い話になるのではないか。猪田の頭には、そういう都合のいい未来がいくつも浮かんでいた。それをひとつも口にしなかったことだけが、そのとき、猪田に出来たことだった。
「じゃあな」
「また明日」
 今度は猪田もそう返した。
 瀬野が教室を出ていくと、残された二人のあいだに会話がなくなった。佐久間は自分の席へ戻り、机の横に掛けていた鞄を取った。猪田も部活へ行く支度をしなければならなかったが、時計を確認すると、今から急いでも開始時刻には間に合わない。顧問や先輩に何をしていたのか聞かれたら、友達を仲直りさせようとして失敗しました、と正直に答えるしかないような気がした。
「なあ、猪田。……オレ、そんなに間違ってたのかな」
 猪田はすぐに答えられなかった。
 昨日までなら、佐久間が全部悪いわけではないと即答していたはずだった。今日だって、その考えがなくなったわけではない。佐久間は瀬野を傷つけようとしたのではないし、根も葉もない噂から友達を守ろうとした。その気持ちだけを取り出せば、間違っているとは思えなかった。
「分かんねえよ」
 猪田は正直に答えた。
「でも、瀬野が嫌だったって言ってるのは、本当なんだろ」
「うん」
「だったら、それは俺らが『でもさ』って言っても変わらないんじゃないか」
 佐久間は少し驚いたようだった。
「なんだよ。急に賢くなったな」
「うるせえよ。誰のせいで部活遅刻してると思ってんだ」
「おまえが勝手にやったんだろ」
「それを今言うな!」
 猪田が声を張ると、佐久間はようやくいつものように笑った。
 その笑い声を聞いて、猪田もつられて笑いそうになったが、途中でやめた。三人の仲に亀裂が入るようなことなど起こらず、ここに瀬野がいれば、きっと呆れた顔で何か言っただろう。そう考えた瞬間、また元の関係に戻りたいという気持ちが湧いた。
 その気持ちが消えたわけではなかった。おそらく、これからも簡単には消えない。もしかすると大人になっても、ずっと引き摺ることになるかもしれない。それでも今度は、独りよがりの感情を瀬野にも押しつけていいとは思わなかった。

 翌日の昼休み、教室に三つの机が並ぶことはなかった。佐久間はいつもの席で弁当を広げ、瀬野は少し離れたところで別の友人と話していた。猪田はトイレから教室へ戻ってきたとき、ほんの一瞬だけ足を止めた。以前なら考える必要さえなかった選択が、今日もそこに残っていたからだ。
 結局、佐久間のところへ行った。そのとき、瀬野がこちらを見ることはなかった。

 その次の日も、三日後も、一週間後も同じだった。
 時間が経てば自然に元へ戻ると思っていた関係は、猪田がどれほど待っても戻らなかった。やがて佐久間と瀬野は、必要があれば普通に言葉を交わすようになったが、二人きりで出かけることはなくなり、学校帰りに駅まで並んで歩くこともなくなった。
 三人で過ごしていた時間は、喧嘩のように派手に終わったわけではない。
 気がつけば、なくなっていた。