テセウスの教室

1

 佐久間仁志は、他人の消しゴムを勝手に使う。
 借りる、と一言でも言えば済むのに、それを言わない。机の上にあれば当然のように手を伸ばし、使い終わってから、もともと置いてあった場所とは微妙に違うところへ戻す。
 佐久間には、昔から辻褄の合わないところがある。提出物は平気で忘れるようなだらしない一面があるのに、人との約束はよく覚えている。教師に叱られてもへらへらしているくせに、友達が部活の試合で負けたときには本人より悔しがる。去年も、三日ほど学校を休んだ友人のために、授業のノートをわざわざまとめて届けていた。普段は自分でも読めないような字を書くのに、その三日分だけは、丁寧な文字で、教師が口頭で話した内容まで欄外に書き足してあった。
 もっとも人間は、機械のように法則を重んじる生きものではない。A型だから几帳面だとか、O型だから大雑把だとか、そういう型にはおさまらない人のほうが多い。だから佐久間も、色々な面を合わさって出来たひとりの人間といえるのかもしれない。

 瀬野凌輝は、その点で佐久間とはだいぶ違っていた。
 予定は前もって決めたがるし、提出物を忘れることもほとんどない。授業で使ったプリントは教科ごとのファイルへ入れ、試験前になって机の奥から皺だらけの紙を発掘するようなこともしない。佐久間がその几帳面さに感心したことは一度もなく、むしろ何かにつけて「よくそんな面倒なこと出来るな」と呆れている。
 連れ立って駅まで歩いていたときも、瀬野が鞄から翌日の時間割を取り出して確認しているのを見て、佐久間はさっそく笑った。
「それ、家帰ってから見ればいいだろ。明日の授業が変わるわけでもないのに」
「体育があるか確かめてるんだよ。朝になってから体操服忘れたって騒ぐやつと一緒にすんな」
「一回しか忘れてねえよ」
「先月だけで二回だろ」
「細かいことよく覚えてんな。……おまえ、もしかしてオレのこと好きなのか?」
 瀬野はそれには答えず、歩道の端へ寄った。後ろから自転車が来ていたからだ。
「なあ、土曜さ、『チハモ』行かない?」
 佐久間は駅前のショッピングモールの名前を挙げた。蒼岳高校の生徒にとっては、放課後に寄り道をするとき真っ先に候補へ挙がる場所でもある。夕方になると制服姿の男子高校生がフードコートや書店、スポーツ用品店の前に何人も固まり、部活帰りの生徒が大きなバッグを足元へ置いたまま話し込んでいる姿も珍しくない。学校から駅へ向かう途中にあり、電車に乗る前に立ち寄れるため、特に目的がなくても友達同士で時間を潰すには都合がよかった。
「靴買いたくって。いま履いてるやつ、そろそろ駄目なんだよ」
 佐久間はそう言って、「ほら」と片足を上げてみせた。元々は白かったスニーカーは所々が黒ずみ、踵も擦れている。
 佐久間と瀬野はどちらも部活動には入っていないため、休日の予定は合わせやすかった。二人で出かけることも珍しくなく、その場で決めた約束が翌日には別の予定へ変わっていることもある。今回も、靴を見たあとに何をするかまでは決めず、土曜日の昼に駅で落ち合うことだけを決めた。

 佐久間たちが別れるのは改札を抜ける前だった。電車通学をしているのは瀬野だけなので、いつも駅の入口で別れる。
「じゃ、また明日」
「明日の英語、単語テストあるからな」
「うわ、最悪」
「言っといたから。忘れても俺のせいにすんなよ」
「いま聞いたから大丈夫」
 佐久間はそう答えたが、翌朝には案の定、単語テストの存在を忘れていた。もっとも、それで困るのは佐久間本人だけだったから、その頃の彼らにとって、友達が犯す間違いというのは、忘れ物や遅刻のような、本人が叱られればそれで済む程度のものだった。

 瀬野の父親が蒸発したという噂がまことしやかに囁かれはじめたのは、十一月に入ってからだった。噂の出処は定かではない。瀬野と一番親しくしていた佐久間たちから伝播していったのではないかと疑われたが、「オレがそんなこと言うわけねえだろ!」と、佐久間は口を尖らせて反論していた。

『瀬野の父親は、愛人の女と一緒に逃げた。勤めていた会社の金を横領して、警察沙汰になっている』

 校内に飛び交うあらゆる話の内容が混在して、一本のそれらしい物語が創り上げられる。根拠もなければ、それを打ち消す確証もない。瀬野がそれについて言及しなかったからだ。
「犯罪者の息子って、進学とか大丈夫なのか?」
 あるとき、佐久間たちが廊下を歩いていると、すれ違った男子が聞こえよがしにそんなことを言ってきた。
 悪意満載のその声が、瀬野に聞こえなかったはずはない。だが、瀬野は足を止めることも、振り返ることもしなかった。少なくとも、表立って反応はしなかった。
「おい、あんなこと言われておまえは平気なのかよ」
 佐久間がいきり立って、声を上げた男子生徒の元へ向かおうとしたが、瀬野は佐久間の制服の裾を引っ張ってそれを制した。
「騒ぎにしたくないんだよ、分かってくれ」
 いつものように佐久間の声を軽く流しているときとは違い、冗談を挟む余地のない表情だった。そう言われてしまえば、佐久間はなにも出来なかった。気まずくなったふたりの背中が、教室に吸い込まれていく。それから放課後まで、佐久間と瀬野が口を利くことはなかった。

 放課後の教室では、昼休みの一件など知らない生徒たちのほうが圧倒的に多かった。掃除当番を押しつけ合う声が飛び交い、部活動へ向かう生徒が慌ただしく鞄を持って出ていく。瀬野もいつもと変わらない手つきで教科書を鞄へしまっていたが、佐久間のほうを見ようとはしなかった。
 普段なら、帰り支度を始める頃には仲間うちの誰かが「今日どうする」と言い出す。駅までまっすぐ行くのか、途中のコンビニに寄るのか、佐久間が急にどこかへ行きたいと言い始めるのか。決めるほどのことでもない予定を毎日のように決めてきた。それがこの日は、誰も口にしなかった。
「瀬野」
 いたたまれなくなったのか、佐久間が先に声をかけた。鞄のファスナーを閉めた瀬野は、聞こえていないふりまではしなかった。ただ、振り返っただけだった。
「さっきのことだけどさ」
「もういいって言っただろ」
「でも、あれはさすがに――」
「佐久間」
 瀬野は声を荒らげなかった。それでも、そこで佐久間は口を閉じた。
「おれがいいって言ってるんだから、それでいいんだよ。どうせなに言ったって、ああいうやつらは勝手に喋るんだから。こっちが騒いだら、余計面白がるだけだろ」
 瀬野はそう言うと鞄を持ち上げた。理屈としては間違っていない。根拠のない噂をひとつひとつ訂正して歩くことなど出来ないし、訂正したところで、今度は「必死になって否定していた」という新しい話題が流布されるだけかもしれない。佐久間も、それくらいは分かっていた。
「……じゃあ帰る?」
「帰るよ」
 ようやく瀬野がいつもの調子に近い声を出したので、佐久間の顔にも笑いが戻った。昼休みから続いていた沈黙は、それで終わったことになった。佐久間が帰り支度をしながら話を振ると、瀬野もいつもの調子で返事をした。完全に元通りになったのかまでは分からない。ふたりは並んで教室を出ていったが、学年中に広まった噂までが終わったわけではなかった。

 数日後、瀬野は朝から学校を休んだ。
 担任が朝のホームルームで告げてきた理由は風邪だった。
 瀬野の席が空いているだけで、教室の一角は思いのほか広く見えた。佐久間は休み時間になると何度かそこへ視線を向けたものの、昼になる頃には普段どおり他の生徒と話していた。
「瀬野、今日どうしちゃったんだ?」
 昼休み、声をかけてきたのは、以前から瀬野の家庭について噂していた生徒のひとりだった。いつもはあまり話しかけてこないくせに、こういうときは話題のネタを聞きだそうとしてくる。
「風邪だって言われてただろ」
「マジでそうなのかよ。また家でなんかあったんじゃねえのか?」
 相手がそう言ったとき、話を聞いていた佐久間の顔から笑いが消えた。
「なんでそうなるんだよ」
「だって最近ずっと噂になってるじゃん。あいつの親父が捕まったとか、家に警察来たとか」
「だから、それ全部適当な話だって」
「じゃあ本当はなんだってんだよ」
 佐久間はそれには答えなかった。話を誤魔化すかのように、相手から視線をそらせる。まるで口笛でも吹きそうな勢いだった。
「お前、中学から一緒なんだから、いろんなこと知ってるんだろ?」
「知ってたら何なんだよ」
「別に。違うなら違うって言えばいいじゃん。瀬野だって、ずっと犯罪者の息子みたいに言われるよりいいだろ」
 その言葉に、佐久間は眉を寄せた。
 相手の言い方は無責任だったが、一部だけ切り取れば、昨日まで佐久間自身が考えていたことと大して変わらない。瀬野は騒ぎにしたくないと言う。だから何も言わない。それで噂が消えるなら、それでよかったのだろう。
 現実には消えていない。
 瀬野本人が黙っていることをいいことに、父親は日に日に悪人になっていった。借金をして、女と逃げて、会社の金を盗み、とうとう警察に捕まったことになっている。このままだと、来週にはもっと酷い話が出来上がっているかもしれない。
「……犯罪者じゃねえ。病気で入院してるだけだよ」
 言ってから、佐久間は口を閉じた。相手の男子も、一瞬だけ黙った。
「入院?」
「そう。だから家にいないだけ。逃げてもないし、警察にも捕まってない」
「なんだよ。じゃあ最初からそう言えばいいじゃん」
「お前らが面白がって、勝手に話作ってただけだろ」
 佐久間は苛立った声で言ったが、男子はもう反論しなかった。むしろ、長く引っ張られていた謎の答えをようやく聞けたような顔をしている。
「病気って、何の病気?」
「知らねえよ。そこまで聞くな」
 瀬野が知られたくないと言っていたことは分かっていた。それでも、根も葉もない噂を放っておくよりはましだと思った。少なくとも、父親が犯罪者だという話はこれで消える。
 そのときは、本当にそう思っていた。

 翌日、瀬野は登校した。
 朝のホームルームが始まる前、教室へ入ってきた瀬野に、クラスメイトが声をかけた。
「瀬野、お父さん大丈夫なの?」
 瀬野の足が止まった。それは時間にしてみればほんの一秒ほどだった。すぐに「何が?」と聞き返した声も、普段と大きく変わらなかった。
「入院してるんだろ。昨日聞いたんだけど」
 そのとき、瀬野は何も答えなかった。その代わりに視線が、ゆっくり教室の中を動いて、佐久間のところで止まった。
「おい」
 瀬野は、佐久間の元に近寄りながら、低い声でそう言った。佐久間の表情が強張る。「な、なんだよ」と佐久間は平静を装っていたが、瀬野の機嫌が悪くなったことは察知しているようだった。
「おまえか? 人の家のことをベラベラ喋ったのは」
「ベラベラって……オレは別に、そんな」
「おれの父親が入院してるって言ったのかって聞いてんだよ」
 教室のあちこちに散っていた話し声が、少しずつ小さくなっていった。瀬野が声を荒らげているわけではない。それでも、普段なら佐久間とくだらない話をして笑っている男が、朝からこんな顔をしていれば、近くにいる生徒たちが気にしないはずもなかった。
 佐久間もそれに気づいたらしい。周囲を一度見回してから、椅子を引いて立ち上がった。
「ここで話すことじゃねえだろ」
「だったら最初から、ここで話されるようなことすんなよ」
 瀬野は動かなかった。
「言ったのか、言ってないのか。どっちだよ」
「……言ったよ」
 佐久間は認めた。
「でも、昨日おまえ休んでただろ。そしたらまた、家でなんかあったんじゃないかとか、親父さんが捕まったとか言い出したから——」
「だから喋ったのか?」
「違うって言っただけだよ。オマエの親父さんは犯罪者じゃない、病気で入院してるだけだって。それ以上のことはなんにも言ってねえよ」
 佐久間にしてみれば、それは弁解というより事実の説明だったのだろう。自分から誰かに言いふらしたわけではない。面白半分に家庭の事情を話したわけでもない。嘘ばかりが広まっていくのを止めようとした。そのつもりだったことは、聞いている側も分かった。
 瀬野には、それが余計に腹立たしかったらしい。
「おれ、言ったよな、騒ぎにしたくないって。分かってくれって言ったよな」
 佐久間は答えなかった。
「なんで黙ってたと思ってんだよ。親父が犯罪者だとか、女と逃げたとか言われてるのを知らなかったと思うか? 知ってたよ。それでも黙ってたんだよ。おれがそうしたかったからだ」
「だからって、あんな言われ方されて——」
「それでもだよ」
 瀬野はそこで初めて声を強めた。
「おれの家のことだろ。親父のことだろ。言うか言わないか決めるのはおれじゃないのか?」
 教室の中にいた何人かは、もう聞いていないふりを始めていた。机の中を探したり、意味もなく教科書を開いたりしている。ついさっき瀬野に父親のことを尋ねた男子も、さすがに居心地が悪くなったのか、自分の席へ戻っていた。
「……悪かったよ」
 しばらくして、佐久間が言った。
「勝手に言ったのは悪かった。でもオレ、おまえのために」
「それを言うなよ」
 佐久間が言いたかったことを、瀬野の声が遮った。
「おまえのために言ったって、それ言われたらおれ、怒っちゃいけないみたいになるだろ」
「そんなこと言ってねえじゃん」
「同じだよ。おれが嫌だったって言ってんのに、おまえはまだ自分が間違ってなかったって説明しようとしてる」
「間違ってないなんて言ってねえよ。ただ、あいつらがあまりにも――」
「だから、なんでおまえが決めるんだよ」
 瀬野は鞄を肩へ掛けたまま、佐久間をまっすぐ見ていた。
「噂されるのを我慢するのと、家のことを知られるのと、どっちが嫌か。それを決めるのはおれだろ」
 佐久間は今度こそなにも言えなくなった。言い返す言葉が見つからないというより、そこでなにかを言えば、瀬野がさらに怒ることをようやく理解したようだった。
 そのとき、予鈴が鳴った。瀬野は佐久間から離れ、自分の席へ歩いていった。その日の教室には、教師が入ってきてもなお消えない気まずさが残った。

 それから二人は、ほとんど口を利かなくなった。
 最初のうちは、何日かすれば元に戻るのだろうと思った。佐久間は言ってはいけないことを言った。瀬野はそれに腹を立てた。ならば佐久間がきちんと謝って、瀬野の怒りが収まれば、それで済む。中学から続いてきた付き合いが、たった一度の失敗で終わるはずがない。
 だが、三日経っても、一週間経っても、瀬野は佐久間に話しかけなかった。佐久間のほうも、最初の数日は何度か声をかけようとしていたが、そのたびに瀬野が必要最低限の返事しかしないので、やがて自分から近づかなくなった。
 同じ教室にいる以上、完全に避けることは出来ない。授業で同じ班になることもあれば、プリントを後ろへ回すこともある。それまでなら何も考えずに出来ていたことに、ひとつひとつ面倒な意味がついていった。
 昼休みがいちばん困った。
 三人で机を寄せて食べていたのに、瀬野が別の友人のところへ行く日が増えた。佐久間が先に教室を出ることもあった。どちらかと話していれば、もう一方が視界に入る。片方から話を聞けば、もう片方の言い分も知っているだけに、簡単に同意することも出来ない。
 それでも、二人がいないところでは、それぞれが相手の話をした。
「オレだって勝手に言ったのは悪かったと思ってるよ。でも、あそこまで怒ることか?」
 佐久間はそう言った。
「別に親父さんの病名まで言ったわけじゃねえし、笑いものにしたわけでもないだろ。犯罪者だとか言われてたから、違うって言っただけだぞ」
 別の日には、瀬野が言った。
「悪気がなかったらなにしてもいいのかよ。あいつ、まだ分かってないんだよ。謝ってるくせに、最後には必ず『でも』ってつけるだろ。完全には反省していなくて、結局自分は悪くないって言いたいんだよ」
 二人とも、自分の言い分を分かってほしかったのだと思う。
 ただ、どちらの話を聞いたところで、簡単に片方だけが正しいとは言えなかった。佐久間は勝手に家庭の事情を話したことについては悪かったと思っている。それでも、瀬野を庇おうとしたことまで間違いだったとは思えない。瀬野は、佐久間に悪意がなかったことくらい分かっている。それでも、自分が黙っていたことを他人が勝手に話したという事実を許すことが出来ない。
 それまで三人で成り立っていた関係は、そんな二人のあいだで不格好に分かれた。
 昼休みになっても、以前のように三つの机が並ぶことはなくなった。佐久間が教室にいれば瀬野が別の友人のところへ行き、瀬野が席に残っていれば佐久間が購買へ出ていく。放課後も同じだった。どちらかが帰り支度を始めると、もう一方は何か用事を思い出したように教室へ残った。
 最初の数日は、それでも誰も大したことだとは思っていなかった。
 佐久間と瀬野は中学からの付き合いである。いままでにも口喧嘩くらいはしている。今回も何日かすれば、どちらからともなく話しかけて、いつの間にか元へ戻るのだろう。少なくとも、二人を知っている者にはそう見えた。

 ところが一週間経っても、二人のあいだにあった机二つ分ほどの距離は縮まらなかった。
 十一月が終わる頃には、クラスの誰もが事情を察していた。「喧嘩してるのか」と面白半分に尋ねる者も最初のうちはいたが、どちらからもろくな返事が返ってこないので、そのうち聞く者もいなくなった。
 仲間でいることが当たり前だった頃には、誰と一緒に昼飯を食べるかなど考えたこともなかった。駅へ向かうときも、誰を誘うか決める必要などなかった。
 それが出来なくなってから、初めて面倒なことが増えた。
 佐久間と話していれば瀬野が目に入る。瀬野と一緒にいれば、佐久間がひとりで教室を出ていくのが見える。どちらかに肩入れしたつもりなどなくても、片方と一緒にいるだけで、もう片方を避けているような格好になる。
 そんな日が、何日も続いた。
 十二月に入ったある日、佐久間がぽつりと言った。
「いつまでこうしてりゃいいんだろうな」
 誰に聞かせるでもないような言い方だった。少し離れたところでは、瀬野が別の生徒と話していた。

 昼休みに誰かが机を動かしても、以前のように三つ並ぶことはない。駅へ向かうときも、佐久間と瀬野が一緒になることはなくなった。片方がその場にいれば、もう片方はいない。それまでわざわざ約束しなくても三人でしていたことが、ひとつずつ消えていった。
 佐久間は、その状態に慣れるつもりがないらしかった。
「オレ、もう一回ちゃんと謝ろうかな」
 あるとき、佐久間がふいにそんなことを口にした。
「この前はさ、オレも腹立ってたから余計なこと言ったじゃん。でも、勝手に喋ったこと自体はオレが悪いし。そこだけちゃんと謝れば、アイツも少しくらい話す気になるだろ」
 前に比べれば、ずいぶん考えたらしい。少なくとも「瀬野だって怒りすぎだ」という言葉は出てこなかった。
「ただ、また無視されたらさすがにムカつくんだよな」
 そこまで言ってしまうところが、やはり佐久間だった。
 その数日後には、瀬野のほうも佐久間の話をした。
「あいつ、最近なんか言ってる?」
 授業が終わり、瀬野が教科書を片づけているときだった。
「別に仲直りしたいわけじゃないからな。ただ、ずっとこのままっていうのも面倒だし」
 瀬野はそう断ってから、さらに言葉を続けた。
「勝手に喋ったことが悪かったって、本当に分かってるなら、それはそれでいいんだよ。おれだって、卒業するまで一言も喋らないとか、そんなことするつもりはないし」
 以前なら、この二人のあいだに誰かが立つ必要などなかった。
 佐久間が何かを言えば瀬野が直接返し、瀬野が不満を口にすれば佐久間がその場で言い返した。ところが今では、佐久間の言葉は佐久間のいない場所で語られ、瀬野の言葉も瀬野のいないところで話されるようになった。
 そのため、少しずつ意味が変わることがあった。
 佐久間の「もう一回ちゃんと謝ろうかな」は、いつの間にか「ちゃんと謝りたい」に変わった。
 瀬野の「卒業するまで一言も喋らないつもりはない」は、「話くらいならしてもいい」に変わった。
 どちらも、まったくのでたらめというわけではない。本人が口にしたことから、大きく離れているわけでもなかった。

「瀬野、もう一回話してもいいってさ」
 そう聞かされたとき、佐久間は腕を組んでしばらく考えていたが、やがて「分かった」と言った。
「じゃあ謝る。今度は余計なこと言わねえよ」
 瀬野にも、佐久間がもう一度きちんと謝りたがっているという話が伝わった。
「本当に?」と、まず瀬野は疑った。
「また最後に『でもオレはおまえのために』とか言い出さない?」
 そして瀬野も、佐久間と同じように考え込み、話をすること自体は断らなかった。
「話を聞くだけだからな。それで前みたいに戻るとか、そういう意味じゃないから」

 佐久間は、瀬野が自分の謝罪を聞きたがっていると思った。
 瀬野は、佐久間が自分からもう一度謝りたがっていると思った。
 放課後、佐久間は窓際の自分の席に座り、瀬野は少し離れた机に鞄を置いた。
「……じゃあ、オレからでいい?」
 沈黙を突き破るように、佐久間が言った。瀬野は黙って頷いた。
「この前のこと、勝手に喋ったのは悪かった。おまえが黙ってたかったのに、オレが勝手に決めた。それは本当にごめん」
 言い終えると、佐久間は瀬野の返事を待った。
「……うん」
「それだけ?」
「それだけって?」
「いや、おまえもオレと話したいことがあるって聞いたから」
 瀬野は一度まばたきをして、佐久間の顔を見返した。話が噛み合っていないことに気づいたらしく、怪訝そうに目を細めた。
「おれが?」
「そうだろ?」
「おれは、おまえがもう一回ちゃんと謝りたいって言ってるから、話を聞いてくれって言われたんだけど」
 佐久間の顔から、先ほどまでの緊張とは違うものが浮かんだ。
「いや、ちょっと待てよ。オレは、瀬野が話したがってるって聞いたぞ」
「誰から」
 そこで初めて、二人の視線が同じところへ向いた。