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蟻越が学校を休んだのは、三者面談が行われてから半月も経っていない日のことだった。その日は彼が生活をしている施設の責任者を名乗る男性から学校へ入電があり、「詳細は言えないが、しばらく学校に通わせられない事情が出来てしまった」と申し出があった。
電話を受けたのは猪田ではなかったから、その教師づてに報告があったとき、猪田はまず、蟻越が怪我でもしたのかと思った。
「しばらくって、どのくらいですか」
「そこまでは聞いてない。先方もかなり言葉を濁してたから、とりあえず担任に伝えてほしいって」
「体調が悪いとかじゃなくて?」
「それも違うみたいだな。本人は元気だと言ってた」
本人は元気なのに、学校には通わせられない。その組み合わせが、頭の中で喧嘩をするように手を取り合わない。
前日に蟻越の様子がおかしかった記憶はない。終業式が近いせいで教室全体が浮ついているなか、本人も友人たちと夏休みの話をしていた。遊びに行ける日は少ないと愚痴りながら、それでも何日かは予定を合わせようとしていたし、帰り際には文化祭の備品表を二学期までなくさないでくださいよ、と猪田に念を押していった。
体調不良でも事故でもないなら、施設側で何かあったのだろう。
蟻越は、次の日も、その次の日も学校に来なかった。初日はさほど気にも留めていなかった生徒たちも、彼の欠席が続けばだんだんと訝しんでくる。あいつはスマホを持っていないから、連絡の取りようもないとぼやいている者もいた。
休みが三日目に差し掛かると、朝、猪田が教室に入るなり蟻越の友人である方通洋司が「先生、今日も健吾が来てません」と言った。方通の隣の席に座っている埜瀬も、声を発さないまでも心配そうな顔をしている。
施設からは、蟻越が休んだ初日に連絡があったきり、続報は届いていない。施設の責任者は、あの日に『しばらく学校に通わせられない』と告げたことで、何日か休む報告をしたと考えているのだろう。
「先生、なにか聞いてないんですか」
「最初に聞いたことから増えてない。本人は元気らしいから、そこは心配しなくていい。ただ、学校に来られない事情があるってだけだ」
「それが一番気になるんですけど」
「先生も同じだよ。分かってて隠してるわけじゃないからな!」
猪田がそう言えば、方通もそれ以上食い下がりはしなかった。蟻越の机には、三日分のプリントや返却された小テストが重ねられている。誰が始めたのかは知らないが、配布物があるたびに近くの生徒がそこへ置くようになっていた。
戻ってくれば、またそこに座る。その前提で教室は動いていたし、猪田も同じように考えていた。
それでも三日続けば、担任として待っているだけでは済まない。朝のホームルームを終えた猪田は職員室へ戻ると、家庭環境調査票から施設の電話番号を確認した。最初に学校へ連絡をした責任者へ取り次いでもらい、蟻越の担任だと名乗って事情を尋ねる。責任者は、須賀と名乗り、本人の体調に問題はないという点だけはすぐに答えたものの、学校へ来られない理由については、児童相談所とも対応を協議しているところだと言葉を濁した。
「学校の中でなにかしたわけじゃないんですよね」
『はい。学校には関係のないことです』
「だったら、なんで学校まで休ませる必要があるんですか。もう三日ですよ。本人がいつ戻れるのか分からないままじゃ、学校側も対応のしようがありません」
『おっしゃることは分かります。ただ、施設内のほかの児童も関係していますので、私の判断だけで詳しいことをお伝えすることができないんです』
「……蟻越が、なにかしたんですか」
質問のあとに生まれた沈黙は、肯定とほとんど同じだった。須賀はそれでも具体的な説明を避け、今日中に児童相談所の桜木へ連絡し、学校への説明について改めて相談すると約束した。猪田も、施設で暮らす他の児童の事情まで、蟻越の担任だからという理由で聞き出せるわけではないことくらいは理解している。納得したわけではなかったが、それ以上責めても相手を困らせるだけだと思い、「分かりました。ただ、本人がいつ学校に戻れるのかだけでも、決まったら早く知らせてください」と言って電話を切った。
施設内で問題を起こしたらしい。それだけが新しく分かったことだった。猪田は明日の授業の準備をしながら、あいつはなにをしたのだろうと考えた。施設の規則を破った程度なら、学校まで何日も休ませる必要はないだろう。ほかの入所児童が関係しているなら喧嘩かとも思ったが、本人に怪我はないと聞いているし、相手を傷つけたならもっと切迫した話になっているはずだった。なにより、猪田がこれまで見てきた蟻越は、他人と揉め事を起こすより、揉めている者のあいだに入る側の生徒だった。
そこまで考えて、自分が蟻越について知っていることなど、学校で見たものだけではないかと思い直した。担任になって三か月余り。朝から夕方までの一部を見て、その生徒がどういう人間なのか分かったつもりになっていた。施設へ帰ったあとの蟻越を猪田は一度も見ていない。どんな部屋で暮らし、ほかの入所児童とどんな関係を築いているのかも知らなかった。
その日の夕方、桜木から電話が入った。蟻越の件について電話ではなく直接説明したいので、翌日の放課後に時間を取ってほしいという。施設の職員も同行すると聞き、猪田はますます軽い話ではないと感じた。時間を決めたあと、「蟻越は学校に戻ってこられるんですか」と尋ねると、桜木はしばらく答えを選んだ末、「そのことも含めて明日お話しします」とだけ告げた。
翌日、桜木は須賀と一緒に学校へ来た。三者面談で会ったときと同じように名刺を差し出して丁寧に挨拶をしてきた。その様子が、二週間ほど前に進路について話したときとは、まるで別の用事で来た人のように見えた。
応接室へ二人を通し、猪田は向かいの椅子に座った。
「それで、蟻越はなにをしたんですか」
遠回しに聞く気にはなれなかったから、単刀直入に尋ねた。
桜木は須賀と確認するように視線を交わしてから、施設の中で金銭がなくなることが何度か続いていたのだと話しはじめた。最初は誰かが使ったことを忘れたのか、どこかへ落としたのかもしれないと考えられていた。しかし別の子どもからも同じ訴えがあり、金銭の管理を見直したあとにも現金がなくなった。先日、ある入所児童の財布から三千円がなくなり、その時間帯に部屋へ出入りした者を確認したところ、蟻越の名前が挙がったのだという。
「本人に聞いたら、認めたんですか」
「最初は否定しました。ただ、何度か話をするうちに、今回の三千円だけでなく、以前になくなったお金についても自分が盗ったと話しました」
「一回じゃないんですか」
「はい。いま確認できているだけで、三人から複数回です。合計すると一万二千円ほどになります」
猪田は、そこでようやく自分が聞いている話を、蟻越健吾という生徒のものとして受け止めなければならなくなった。
一万二千円という金額だけなら、高校生が持っていても不思議ではない。問題は、それを三人の財布から、何度にも分けて盗ったということだった。一度だけなら、いくらでも言いようはあっただろう。目の前に金があって、欲しくなった。ほんの一瞬だけ、駄目だと分かっていることより欲しいという気持ちが勝った。そんな失敗なら、猪田にも想像できた。叱ることも、二度とするなと言うこともできた。
しかし蟻越は、一度盗ったあとでやめなかった。一度目に金を手にしたあと、次に誰かの財布を見たときには、前にしたことを覚えていたはずだ。盗めば相手が困ることも、見つかれば自分が責められることも分かっていたはずだ。それでも手を伸ばした。さらに別の日にも同じことをした。三人から、複数回。そこまで聞いてしまうと、彼の行動を単に出来心という言葉の中へ押し込むことはできなかった。
猪田の頭に浮かんだのは、体育倉庫の横で財布を探していた蟻越だった。
自分の弁当を置いたまま、友人について校庭へ出ていった。昼休みが半分終わるまで探し、見つかったときには靴を泥だらけにしていた。あのとき財布の持ち主が困っていることを、蟻越は本気で気にしていたはずだ。誰かに褒めてもらうためではなかった。猪田が見ていることさえ意識していなかった。
その蟻越が、別の場所では人の財布から金を抜いていた。どちらかが嘘なら、まだ分かりやすかった。
学校ではいい生徒を演じていたのだと言われれば、それまで見抜けなかった自分を腹立たしく思えば済む。反対に、施設での盗みがたった一度の過ちだったなら、普段の蟻越こそ本当の姿なのだと考えることもできる。だが、聞けば聞くほど、どちらにも逃げられなかった。
「盗んだ金は、どうしたんですか」
「本人がほとんど使っています。聞き取りを行ったところ、飲み物やお菓子を買ったり、学校の友達と出かけたときに使ったり、文房具や雑貨を買ったりしたそうです」
その答えを聞いた瞬間、大学の売店での蟻越の様子が頭の中に蘇ってきた。百五十円の消しゴムを手に取り、値札を見て、棚へ戻した蟻越。友人に欲しくないのかと聞かれて、「消しゴムはまだ残ってるし」と答えていた。
猪田はあのとき、蟻越には欲しいものを我慢する分別があるのだと思った。三者面談で事情を知ったあとには、それを小遣いのない生活と結びつけて、本人が不満も言わず耐えているのだと考えた。そのどちらも、猪田の勝手な思い込みで、実情は違っていたのかもしれない。
「いつから、金を盗みはじめたんですか」
猪田は、自分の声が思っていたより低く出たのを感じた。
「本人の話では、春ごろからです」
春。
猪田が蟻越の担任になったころには、彼の悪行はもう始まっていた、ということだ。
始業式の日に深々と頭を下げ、「一年間よろしくお願いいたします」と言ったころ。友人の財布を一緒に探したころ。誰もやりたがらない係を引き受けたころ。そのすべてと同じ時期に、蟻越は施設で人の金を盗んでいた。
その事実を知った途端、これまでの記憶がひとつずつ別の色に塗り替えられていくような気がした。財布を探したのも、親切な自分を見せるためだったのか。誰かに物を貸したのも、いい人間だと思われたかったからなのか。教室の亀に餌をやっていたことにまで、何か裏があったのか。そこまで考えて、猪田は自分で嫌になった。
違う。なにをかんがえているんだ、俺は。少なくとも、そんな証拠はどこにもないだろう。
事件を知ったというだけで、それ以前に自分が見てきたものまで全部嘘だったことにしてしまうのなら、それは蟻越を理解したことにはならない。ただ、自分にとって扱いやすい人間へ作り替えているだけだ。
それでも、以前と同じように「蟻越はきちんとした生徒だ」と言い切ることも、もうできなかった。
猪田は、自分が蟻越について何を知っていたのか分からなくなった。
「本人は、盗んだ理由をなんと言ってるんですか」
桜木は少し間を置いてから、「お金が欲しかったからだそうです」と答えた。
「自分だけ小遣いがないことに腹を立ててたとか、施設のやり方に抗議したかったとか、そういうことじゃなくて?」
「不満がなかったわけではないと思います。ただ、それを理由にはしたくないと言っています。欲しかったから盗った。それは自分がしたことだから、施設や児相のせいにするのは違う、と」
その答えは、腹が立つほど蟻越らしかった。他人に迷惑をかけた理由を、自分の境遇のせいにしない。誰かが困っていれば手を貸し、自分が困っているときには無理を言わない。猪田が好ましいと思っていた蟻越の性質が、そのままの形で、いま聞かされている窃盗の話の中からも出てきた。
そこに猪田は、いちばん強い混乱を覚えた。
盗みをしたことで、蟻越がまったく知らない人間になったのではなかった。むしろ、知っている蟻越の一面がそこにも存在している。
桜木はさらに、蟻越が施設でも年下の児童の面倒をよく見ていたことを話した。宿題を教え、職員が忙しそうなら手伝い、誰かが一人でいると声をかける。今回のことが分かったとき、施設の職員たちも驚いたという。
猪田は、その説明を聞きながら、自分だけが蟻越を見誤っていたわけではないことに安堵することもできなかった。
学校でも施設でも、蟻越は人に親切だった。そして施設では、同じ相手たちの金を盗んでいた。どちらかが嘘だとなれば、彼の行動も理解できるのに、どちらも本当の彼だった。
「それで、学校に来られないっていうのは」
猪田が尋ねると、それまで黙っていた須賀が説明を引き取った。被害に遭った子どものなかに、蟻越と一緒に暮らすことへ強い不安を訴えている者がいるという。何度も財布から金を盗られた以上、それは当然の反応だった。施設は共同生活の場であり、学校のように一日の何時間かだけ顔を合わせる場所ではない。食事も入浴も就寝も同じ建物の中で行われる。その相手を信用できなくなった子どもに、今までどおり一緒に暮らせと言うわけにはいかなかった。蟻越はいま、施設の敷地内にある、普段は使われていない古い別棟で過ごしているという。
「じゃあ、蟻越は施設にいられなくなるんですか?」
「そこまで決定したわけではありません。ただ、今のまま生活を続けるのは難しいと考えています」
「別の施設へ移るんですか」
「それも選択肢として調整しています。ただ、蟻越くんの場合は、そもそも正式な入所児童ではありませんし、こういう問題を起こしたことは当然、共有されますから、受け入れ先があるかどうか……」
須賀は言葉を濁したが、みなまで言われなくとも猪田はその意味を理解した。蟻越の事情は三者面談で聞いたばかりだった。家庭には戻せない。親は施設への入所に同意しない。そのため、一時保護という形のまま、今の施設へ身を置いている。そこで起こした問題を隠して他の行き先を探すことは、桜木も須賀も、立場上出来ないのだろう。
「じゃあ、あいつはどこに行くんですか」
桜木は、明確な行き先を答えなかった。答えなかったのではなく、まだ答えられる行き先が決まっていないのだと、その表情で猪田にも分かった。
「現在、それを調整しています」
やがて言葉を絞り出すようにそう言った桜木のことを、猪田は責められるはずがなかった。
蟻越が猪田の前に再び現れたのは、それから一週間ほどが経った日だった。突然やって来たのではない。桜木と須賀が話し合いの場を設けてほしいと学校に依頼をしてきて、猪田と学年主任の中塚がその席を準備したのだ。
蟻越は、学生服に身を包み、桜木のあとをとぼとぼと歩いてきた。覇気がない。休んでいるあいだに、彼の活気だとか愛想だとか、そういうものがすべて吸い取られてしまったかのようだった。
「蟻越、大丈夫か!?」
猪田が威勢よく声をかけても、蟻越は俯いたままだった。しばらくして「はい」と返事だけはしたものの、その声には、これまで猪田が知っていた愛想も張りもなかった。蟻越は、桜木の後ろについて会議室へ入り、中塚や須賀にも頭を下げ、促されるまで椅子へ座ろうともしなかった。
話し合いには、蟻越本人と桜木、須賀のほか、学校側から猪田と学年主任の中塚が出席した。猪田は当初、今後どうすれば蟻越を学校へ戻せるかを相談するための場だと思っていた。だから席についたあとも、まず登校を再開できる時期を確認するつもりでいた。
ところが、最初に口を開いた須賀が話したのは、まったく別のことだった。
「先日の件について施設内でも協議を重ねました。その結果、蟻越くんについては、これ以上うちで生活を続けてもらうことは難しいという結論になりました」
「難しいって、別棟で過ごすのもですか」
猪田は思わず口を挟んでいた。
「はい。あれはあくまで緊急的な対応です。長期にわたって一人だけ別の場所で生活させることはできません。それに、被害を受けた子どもたちだけでなく、ほかの入所児童からも不安の声が出ています。職員が金銭管理を徹底すれば済むという問題でもありません」
それは、猪田にも理解できた。財布から何度も金を盗られた子どもに、加害した相手ともう一度同じ場所で生活しろとは言えない。被害に遭っていない子どもまで、自分の金も盗られるかもしれないと考えるようになれば、施設全体の生活に影響する。須賀個人が蟻越を嫌って追い出そうとしているわけではないことも、その話し方から分かった。
「ですので、一時保護の委託を終了して、蟻越くんには児童相談所へ戻ってもらうことになりました。今日、このあと移動します」
「今日?」
猪田は思わず聞き返した。
「はい」
蟻越は何も言わなかった。すでに聞かされていたのだろう。自分の行き先について話しているというのに、膝の上で両手を組んだまま、机の一点を見ていた。
桜木が説明を引き継いだ。ひとまず児童相談所の一時保護所で生活させ、そのあいだに今後の受け入れ先を探すという。別の児童養護施設への委託も検討するが、すぐに決まるとは限らない。もともと正式入所の手続きすら進んでいないところへ今回の窃盗が重なり、調整しなければならないことは以前より増えていた。どこも受け入れ先がなければ、蟻越はどうなってしまうのだろうと猪田は考えたが、その疑問を口にして話を中断すべきときではないことは分かっていた。
以前の三者面談で、桜木は蟻越の状態を『宙ぶらりん』と表現していた。そのとき猪田は、家には戻れないのに正式な入所先も決まらない蟻越の生活をそう呼んでいるのだと思った。
今は、その言葉が以前より悪い意味になっていた。仮に一時的だったとしても、施設には蟻越の寝る場所があり、毎朝そこから学校へ通っていた。それすらなくなる。しかも、その原因を作ったのは蟻越自身だった。
「いずれ学校には戻ってこられるんですよね」
猪田が尋ねると、桜木より先に中塚が口を開いた。
「そのことなんだが、猪田先生」
呼びかけられた時点で、猪田には嫌な予感がした。
「今回の件については、校長と教頭にも報告してある。学校としても今後の対応を検討した」
「しかし、今回のことは学校の外で起きたことですよね」
「もちろん、それは分かっている。ただ、内容が内容だからな」
中塚は蟻越本人を責め立てるような口調にはならなかった。それがかえって猪田には引っ掛かった。
「複数の子どもから、何度も金を盗っていた。しかも最初は否定している。学校内で起こした事件ではないとはいえ、これを学校としてまったく考慮しないわけにはいかない」
「なんでですか!?」
「なんでって、お前な」
中塚は猪田を咎めるように顔をしかめた。生徒が起こした重大な事件が発覚した話し合いの場で、ひとりだけなにも分かっていない若手教師。中塚は猪田をそういうふうにみているのではないかと感じられた。
「蟻越は、学校で金を盗ったわけじゃないでしょう!」
「そういう問題じゃない。もしもこれが噂で広まって、ほかの生徒の保護者が知ったらどう思う。自分の子どもと同じ教室に、複数回の窃盗をした生徒がいると分かって、不安を訴える家庭が出てくる可能性は十分にある」
猪田はすぐに反論しようとしたが、その前に中塚は話を続けた。
学校として蟻越を処分する、という言い方はしなかった。校外で起きた事件であり、警察沙汰にもなっていない以上、直ちに退学処分にできるような話ではないのだろう。ただ、児童相談所での生活が長引けば、出席日数や単位に影響して、進級が出来なくなる可能性がある。そうした状況を踏まえれば、いったん退学し、生活が安定した段階で通信制高校などを含めて進路を考え直すという方法もある。
中塚の言葉は丁寧で、蟻越の今後の選択肢のひとつとして提示しているようにも聞こえた。それでも猪田には、中塚が何を言おうとしているのか分かった。
問題を起こすおそれのある生徒は、自主的に学校から出ていってほしい。遠回しに、そう言っているのだ。
猪田の意に反して、話し合いはつつがなく行われた。蟻越が自分から「退学します」と言ったのだ。教師が直接促したのではない。それはあくまでも自主的な発言であり、学校側はそれを遮ることなく受領した。
中塚は念のため、本当にその意思で間違いないかと確認した。今すぐ結論を出さなくてもいいこと、退学以外にも転校や通信制への編入など選択肢はあること、いったん保留にして児童相談所での生活が落ち着いてから考え直すこともできると説明した。その言葉だけを拾えば、学校は蟻越を引き止めようとしているようにも聞こえた。
蟻越は、それでも退学すると答えた。
「……僕が学校にいたら、迷惑をかけると思います」
蟻越のその一言で、話はほとんど終わった。
中塚は退学届の手続きについて説明し、桜木は保護者との連絡や書類の扱いについて確認した。須賀も、施設側で預かっている学校用品をいつ引き渡すかという話をした。誰も声を荒らげず、誰も蟻越を責めなかった。何月何日付で処理をするのか、教科書や制服はどうするのか、今後別の学校へ進むことになった場合に必要な書類は何か。話し合いは、それまでの混乱が嘘だったかのように整然と進んでいった。
猪田だけが、その速さについていけなかった。ついさっきまで、蟻越はこの学校の生徒だったのだ。
それが本人の口から「退学します」という言葉が出た途端、周囲の大人たちは、退学する生徒として蟻越を扱い始めた。もちろん、中塚たちが間違っているわけではない。本人が自分の意思を示した以上、必要な手続きを説明するのは当然だった。それでも猪田には、何か大事なものが置き去りになったまま、話だけが先へ進んでいるように思えた。
無力さを感じた。たしかに金を盗んだことは悪い。悪事に手を染めたのは本人だが、では彼をそうたらしめた境遇や周りの大人たちには責任がなかったのだろうか。
「蟻越」
猪田は、淡々と進む手続きの中で、蟻越が退学届に署名し終わった瞬間、彼を呼んだ。ボールペンがテーブルに置かれる音と、自分の声が重なったおかげで、声が震えたことがそんなに目立たなかったことは救いだった。
「……お前がここを出ていったら、先生はもう、お前の担任じゃなくなる。これからなにがあっても、今までみたいに呼び止めて話をしたり、間違ってたら叱ったりすることもできなくなる。だから最後にひとつだけ言わせてくれ。お前が人の金を盗ったことは、間違ってた。そこはちゃんと反省しなくちゃいけないし、二度とやっちゃ駄目だ。でもな、先生は、お前にそのことだけ考えてこの先ずっと生きてほしいわけじゃないんだ。いいか、なにも学校だけが学びの場じゃない。学校を辞めたからって、お前が何かを学ぶことまで終わるわけじゃないし、これから先、どこにいたって学べることはある。お前はいま、自分が悪いことをしたんだから仕方ないって、なんでも受け入れようとしてるだろ。先生は、それが嫌なんだよ。自分がやったことは忘れるな。でも、それだけで自分のこれからまで駄目にするな。これからお前がどこで暮らして、どう生きていくのか、先生にも分からない。お前だって分からないと思う。それでもちゃんと生きて、いつか自分で、あのとき間違えたけど、それで全部終わったわけじゃなかったって思えるようになってくれ。……そんで、いつかちゃんと幸せになれ。それだけ、先生と約束してくれないか」
蟻越はしばらく、なにも言わなかった。皆の息遣いだけが、静かに部屋の中にさざめいている。
やがて蟻越が鼻を啜った。俯いたままの彼はいま、何を考えているのだろう。後悔か、情けなさか、それとも、これから自分がどうなってしまうのかという不安なのか。猪田には分からなかったし、分かったつもりになるべきでもないと思った。
蟻越はしばらく黙ったまま、膝の上で両手を握っていた。やがて顔を上げたとき、目元は赤くなっていた。
「……約束します」
声は掠れていた。
「もう、人の金は盗りません。ちゃんと反省します。それで……」
そこで言葉が止まった。言おうと思っていることが、ほんとうにこの場で言っていいのかを決めかねているように、唇を震わせていた。
誰も急かさなかった。蟻越は膝の上で握りしめていた拳を開いて、目をごしごしとこすった。
「いつか、幸せになります」
猪田は、すぐに返事ができなかった。ふいに目頭が熱くなって、天井を見上げる。生徒を導こうとする立場にあるものが、こんなときに感情を揺さぶられてはいけないと思った。 その約束が守られるかどうかは分からない。蟻越がこれからどこで暮らし、何をして生きていくのかも分からない。今日ここで交わした約束が、何年先まで彼の中に残るのかさえ分からなかった。
「おう、絶対、だからな」
だから猪田はそれだけ答えた。答えたというより、ただそれだけを言うので精一杯だった。蟻越はまた俯き、黙って頷いた。
話し合いが終わったあと、猪田は蟻越と一緒に教室へ向かった。机の中に置いたままの教科書やノートを持って帰らなければならなかったからだ。放課後の教室にはもう誰もおらず、蟻越の席には、休んでいたあいだに配られたプリントや返却された小テストが重ねられたままになっていた。
「こんなにあったんですね」
蟻越は椅子を引き、積まれた紙を一枚ずつ確かめた。
「みんなが置いといてくれたんだよ。お前が戻ってきたときに渡せるようにってな」
「……そうですか」
それ以上は何も言わず、蟻越はプリントを揃えて鞄の中へ入れた。机の中から教科書とノートを取り出し、奥に転がっていたシャープペンシルの芯のケースまで拾う。猪田も手伝おうとしたが、蟻越は「大丈夫です」と言って、自分のものは自分で片づけた。
最後に蟻越は机の中へ手を入れ、何も残っていないことを確かめ、それから椅子をきちんと机の下へ戻した。
「先生、いままでありがとうございました」
蟻越は頭を下げ、猪田の返事を待たずに鞄を肩に掛けた。教室を出ようとしてから、ふと足を止める。
振り返った蟻越の目は、自分の机だけを見ているようで、そうではなかった。隣の席も、その向こうも、前の黒板も、自分が餌をやっていた亀の水槽も、ひとつずつ確かめるように視線が動いた。ここで過ごした数か月の何を思い出しているのか、猪田には分からない。友人と笑った休み時間か、くだらないことで騒いだホームルームか、あるいは自分が盗んだ金で友人たちと出かけた日のことまで、この教室と一緒に思い出しているのかもしれなかった。
やがて蟻越の視線が、自分が使っていた机へ戻った。楽しかったと思っているのか。戻りたいと思っているのか。もう戻る資格はないと、自分で決めてしまっているのか。
蟻越は何も言わなかった。しばらくその席を見つめたあと、自分から前を向いた。
蟻越健吾は、そうして猪田の教室から去っていった。彼の突然の退学に、クラスメイトたちは一様に衝撃を受けた。季節が巡って、皆がそれぞれの日常を積み重ねていく今も、蟻越が使っていた机は、猪田の判断で教室に置いたままだった。
誰も座っていない席を見て猪田が思うのは、あのとき、最後にかけた言葉は教師としてほんとうに正しかったのか、ということだった。間違いを犯した生徒に、教師がかけてやるべき指南だと思いながら、なるべく自分の言葉で伝えたつもりだ。
もっと厳しく叱るべきだったのかもしれない。被害を受けた子どもたちのことを、もっと強く意識させるべきだったのかもしれない。あるいは、あの場で人生について語ることそのものが、教師である自分の思い上がりだったのかもしれなかった。蟻越は自分が何をしたのか理解していたし、猪田に言われなくても反省していた可能性だってある。逆に、あのとき何も言わず送り出していたら、それをずっと後悔していたようにも思う。
結局のところ、猪田には、自分の言葉が蟻越のその後にどんな影響を与えたのか知る術がなかった。
なにも分からない。だから猪田の中に残っている蟻越健吾は、あの夏までの彼のままだった。
二学期がはじまったある日の放課後、文化祭の準備をしていた方通が、教室の後ろに積まれた段ボールを見ながら、「健吾がいたら、こういうの勝手に運んでくれたんだけどな」と言った。深い意味があって口にしたのではないだろう。
方通は、蟻越がなぜ学校を辞めたのか知らない。ただ、一緒に過ごした友人について、自分が知っていることを言っただけだった。
猪田は、誰も座っていない机を見た。
あの席にいた生徒が善人だったのか、悪人だったのか。それはきっと、自分たちが決めていいものではないのだろうと、考えるほかなかった。


